聖句 ルカ16:1-13
わたしたち変な行動をしてしまうことがときどきありますよね。今日お読みいただいたルカ福音書は、変な行動をした人が出てきます。イエスさまはなぜ、そんな話をされたんでしょう?
イエスさまが話をされた、変な行動をした人。この人は、お金持ちの家で事務長として雇われていた人でした。大変信頼・信任を受けて、土地財産、お金の出入り、一切の管理を任されていたんです。
ところが彼は、欲をかいてちょろまかしたんです。ご主人様、これが今月の帳簿です。ご確認ください。そう主人に言うと、主人は彼をまったく信頼・信任しているもんだから、「ありがとう。おまえの仕事は間違いないから、見る必要はないよ」と言って返される。そんなことが何年も続いたんでしょう。事務長は誘惑を受けたんです。主人は帳簿を確かめないんだから、ちょろまかしても、わからないだろう。
だれも見ていないから、わからないだろう。こういう誘惑は、よほど真剣に祈りませんと、打ち勝つのは難しいです。教皇フランシスコは、いつもこう祈るそうです。「神様、いつもわたしを見ていてください。わたしがみんなの信頼を裏切ることをしないように、わたしを見ていてください」 教皇様と自分を比べるのは僭越ですが、わたしも毎朝出かけるとき、祈るんです。「イエス様、今日もわたしをお救いください!」って。
わたしたちのあらゆる行動、あらゆる言動、心の中の動きを全部見通している目があるのです。神様の目ですね。すべてを見通している目。わたしたちは、「すべてを見通している目」を意識して、いつも行動しなければなりません。アメリカ合衆国の連邦準備制度理事会が発行している1ドル紙幣の裏側には「すべてを見通している目」が印刷されているんですよ。神様の目です。あなたは、神によっていつも見守られていることを意識していますか?
ビジネスの世界でミート・ジーザス・モーメントという言葉があります。イエス様に直面させられる瞬間という意味です。これはですね、会社で責任のある立場の人が、不正や失敗やクレームを抱えていて、それをかかくしおおせてきたけれど、役員会に発覚して社長から呼び出された。おまえ、いったいどうなってるんだ、きちんと説明しろ、というわけです。ここでどう申し開きをするか、説明如何で首が飛んだりつながったりするという、人生の究極の瞬間。これをミート・ジーザス・モーメントと言うんです。
わたしたちにもミート・ジーザス・モーメントがやってまいります。だれも見ていない、知らない、これぐらい大丈夫だろう。そう思ってきた。でも、すべてを見通している神様の目の前で、全部申し開きをしなければならない。その瞬間がやってくる。どう言い訳しますか?
このお金持ちの家の事務長もミート・ジーザス・モーメントに直面したんですよ。主人に呼び出されて言われたんです。「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」(ルカ16:2)
ずっとちょろまかしてきたんです。いまさらさかのぼって帳簿を書き改めて、帳尻を合わせるなんてできません。すぐ帳簿を持って来い、というのが主人の要求です。間に合いません。
そこで、どうしたか? 変な行動に出たんです。事務長ですから、主人から借金している人がだれで、どこに住んでて、どれぐらい負債があるか、知っていたんです。証文も全部、事務長が管理していたんです。その人たちを呼び出して、言ったんです。「主人にいくら借りがあるのか」「油を2200リットル借りています」 1バトスは22リットルですから、100バトスというと2200リットルになります。オリーブ油はいま1リットル1000円前後ですよね。2200リットルなら220万円でしょうか。220万円の借金。けっこう大きいですよね。
事務長は言いました。「ここにあんたの証文があるから、220万円を110万円に書き変えなさい」「えーっ、いいんですか! ありがとうございます。でも、なんで?」「なんでか話せないけど、今日のことは忘れないでいてくれよ。よろしくな」というわけです。
それを借金してる全員にしたわけです。変な行動ですよね。自分の管理している帳簿の帳尻が合わない。だから、ほかの人の負債・負い目をゆるしてあげた。自分が主人の家を追い出されたあとで、彼らが親切にしてくれるに違いない、というわけです。この変な行動はどういう結果になったのか。ルカ16:8「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」というのです。
この話をなさったイエス様の心はどこにあるんでしょう? イエス様は、祈るときに、こういうふうに祈りなさい、とおっしゃって、主の祈りを教えてくださいました。
天におられるわたしたちの父よ
御名があがめられますように
御国が来ますように
御心が天で行われるように地でも行われますように
毎日の糧を今日もお与えください
わたしたちの罪をお赦しください
わたしたちも、わたしたちに負い目のある人たちを赦しました
わたしたちを試みに遭わせず
悪からお救いください
この中で、こう祈っていますよね。「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも、わたしたちに負い目のある人たちを赦しました」
「わたしたちに負い目のある人たちを赦しました」というところが、とっても大切なところです。わたしたちはお互いに赦し合わなければならない。あなたは赦されているんだから、神様によって全部赦されているあなたが、他人を赦すのは当然だ。お互い赦し、赦されて、生きなさい。天の父なる神様はみんなを赦してくださったじゃないか。それがイエス様の心です。
ひとを赦すって、むずかしいですよね。心にうらみがましくおもっているひと。ひとりやふたりではないでしょう。その人たちは、わたしに何をしたんだろうか。何を言ったんだろうか。到底赦すことができないほど、ひどいことをやったり言ったりしたひとたちです。思い出すだけで腹が立つわけです。
でも、赦しなさいよ。天の父なる神様があなたを赦したんだから、とイエス様はおっしゃるんです。自分の人生の帳簿の帳尻を見てごらんなさい。ぴったり合っていますか? いないでしょ? ということです。わたしたちは自分が多くの過ち、失敗、愚かな行いをして生きてきたことを、よく知っております。自分のことは自分がいちばんよくわかっております。それでもあたふたしないでおれたのは、ミート・ジーザス・モーメントがまだ来ていないからです。でも、神様の前で申し開きをしなければならない瞬間、ミート・ジーザス・モーメントが明日やってくることになったら、どうしますか? 逆立ちして鼻から麦茶を飲んだって、帳尻を合わせることはできないでしょう?
でも、父なる神様は赦してくださる、というんです。わたしたちを愛していてくださるから。わたしたちの負い目を全部イエス様の上において、イエス様の十字架の死によって、わたしたちを赦してくださった。わたしたちは、人生の帳尻が最後の最後まで全然合わないまま、父なる神様は赦してくださるんです。だから、おまえは、ほかのひとを赦さなければならないよ。それは当然のことじゃないか。おまえは赦されて、愛されて、生かされているんだから。神様からすべて赦されているおまえが、ほかのひとを赦して、そのひとを呪うんではなく、祝福しなければならないのは、当然じゃないか。そうイエス様はおっしゃるんです。
イエス様が十字架にかかって死んでくださった。そのおかげで、わたしたちは赦されて、愛されて、生かされて、生きることができるんだ。生きていていいんだ。この世界に生きていていいんだ。人生を生きていていいんだ。これは奇跡ですよ。神様の愛が起こした奇跡です。そうして、赦されたわたしたちが、自分が赦されたように、ほかのひとを赦す。あのひとから、こんなことをされた、こんなことを言われた。赦すことができない。でも、神様がわたしを赦してくださったんだから、わたしもあのひとを赦そう。そう決心して、相手を赦すなら、それは神様の愛が起こした奇跡です。
この殺伐とした世界、赦しのない世界、厳しい裁きのみがあるこの世界において、どうか教会の中においては、いつでも神様の愛の奇跡が見られますように。互いに赦し合い、受け入れ合い、生かし合うという奇跡が、いつも起きますように。その奇跡を見ることができるように、わたしたちは十字架と復活のイエス様に今日もしっかりと目を向けたいと思います。祈りましょう。
わたしたち変な行動をしてしまうことがときどきありますよね。今日お読みいただいたルカ福音書は、変な行動をした人が出てきます。イエスさまはなぜ、そんな話をされたんでしょう?
イエスさまが話をされた、変な行動をした人。この人は、お金持ちの家で事務長として雇われていた人でした。大変信頼・信任を受けて、土地財産、お金の出入り、一切の管理を任されていたんです。
ところが彼は、欲をかいてちょろまかしたんです。ご主人様、これが今月の帳簿です。ご確認ください。そう主人に言うと、主人は彼をまったく信頼・信任しているもんだから、「ありがとう。おまえの仕事は間違いないから、見る必要はないよ」と言って返される。そんなことが何年も続いたんでしょう。事務長は誘惑を受けたんです。主人は帳簿を確かめないんだから、ちょろまかしても、わからないだろう。
だれも見ていないから、わからないだろう。こういう誘惑は、よほど真剣に祈りませんと、打ち勝つのは難しいです。教皇フランシスコは、いつもこう祈るそうです。「神様、いつもわたしを見ていてください。わたしがみんなの信頼を裏切ることをしないように、わたしを見ていてください」 教皇様と自分を比べるのは僭越ですが、わたしも毎朝出かけるとき、祈るんです。「イエス様、今日もわたしをお救いください!」って。
わたしたちのあらゆる行動、あらゆる言動、心の中の動きを全部見通している目があるのです。神様の目ですね。すべてを見通している目。わたしたちは、「すべてを見通している目」を意識して、いつも行動しなければなりません。アメリカ合衆国の連邦準備制度理事会が発行している1ドル紙幣の裏側には「すべてを見通している目」が印刷されているんですよ。神様の目です。あなたは、神によっていつも見守られていることを意識していますか?
ビジネスの世界でミート・ジーザス・モーメントという言葉があります。イエス様に直面させられる瞬間という意味です。これはですね、会社で責任のある立場の人が、不正や失敗やクレームを抱えていて、それをかかくしおおせてきたけれど、役員会に発覚して社長から呼び出された。おまえ、いったいどうなってるんだ、きちんと説明しろ、というわけです。ここでどう申し開きをするか、説明如何で首が飛んだりつながったりするという、人生の究極の瞬間。これをミート・ジーザス・モーメントと言うんです。
わたしたちにもミート・ジーザス・モーメントがやってまいります。だれも見ていない、知らない、これぐらい大丈夫だろう。そう思ってきた。でも、すべてを見通している神様の目の前で、全部申し開きをしなければならない。その瞬間がやってくる。どう言い訳しますか?
このお金持ちの家の事務長もミート・ジーザス・モーメントに直面したんですよ。主人に呼び出されて言われたんです。「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」(ルカ16:2)
ずっとちょろまかしてきたんです。いまさらさかのぼって帳簿を書き改めて、帳尻を合わせるなんてできません。すぐ帳簿を持って来い、というのが主人の要求です。間に合いません。
そこで、どうしたか? 変な行動に出たんです。事務長ですから、主人から借金している人がだれで、どこに住んでて、どれぐらい負債があるか、知っていたんです。証文も全部、事務長が管理していたんです。その人たちを呼び出して、言ったんです。「主人にいくら借りがあるのか」「油を2200リットル借りています」 1バトスは22リットルですから、100バトスというと2200リットルになります。オリーブ油はいま1リットル1000円前後ですよね。2200リットルなら220万円でしょうか。220万円の借金。けっこう大きいですよね。
事務長は言いました。「ここにあんたの証文があるから、220万円を110万円に書き変えなさい」「えーっ、いいんですか! ありがとうございます。でも、なんで?」「なんでか話せないけど、今日のことは忘れないでいてくれよ。よろしくな」というわけです。
それを借金してる全員にしたわけです。変な行動ですよね。自分の管理している帳簿の帳尻が合わない。だから、ほかの人の負債・負い目をゆるしてあげた。自分が主人の家を追い出されたあとで、彼らが親切にしてくれるに違いない、というわけです。この変な行動はどういう結果になったのか。ルカ16:8「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」というのです。
この話をなさったイエス様の心はどこにあるんでしょう? イエス様は、祈るときに、こういうふうに祈りなさい、とおっしゃって、主の祈りを教えてくださいました。
天におられるわたしたちの父よ
御名があがめられますように
御国が来ますように
御心が天で行われるように地でも行われますように
毎日の糧を今日もお与えください
わたしたちの罪をお赦しください
わたしたちも、わたしたちに負い目のある人たちを赦しました
わたしたちを試みに遭わせず
悪からお救いください
この中で、こう祈っていますよね。「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも、わたしたちに負い目のある人たちを赦しました」
「わたしたちに負い目のある人たちを赦しました」というところが、とっても大切なところです。わたしたちはお互いに赦し合わなければならない。あなたは赦されているんだから、神様によって全部赦されているあなたが、他人を赦すのは当然だ。お互い赦し、赦されて、生きなさい。天の父なる神様はみんなを赦してくださったじゃないか。それがイエス様の心です。
ひとを赦すって、むずかしいですよね。心にうらみがましくおもっているひと。ひとりやふたりではないでしょう。その人たちは、わたしに何をしたんだろうか。何を言ったんだろうか。到底赦すことができないほど、ひどいことをやったり言ったりしたひとたちです。思い出すだけで腹が立つわけです。
でも、赦しなさいよ。天の父なる神様があなたを赦したんだから、とイエス様はおっしゃるんです。自分の人生の帳簿の帳尻を見てごらんなさい。ぴったり合っていますか? いないでしょ? ということです。わたしたちは自分が多くの過ち、失敗、愚かな行いをして生きてきたことを、よく知っております。自分のことは自分がいちばんよくわかっております。それでもあたふたしないでおれたのは、ミート・ジーザス・モーメントがまだ来ていないからです。でも、神様の前で申し開きをしなければならない瞬間、ミート・ジーザス・モーメントが明日やってくることになったら、どうしますか? 逆立ちして鼻から麦茶を飲んだって、帳尻を合わせることはできないでしょう?
でも、父なる神様は赦してくださる、というんです。わたしたちを愛していてくださるから。わたしたちの負い目を全部イエス様の上において、イエス様の十字架の死によって、わたしたちを赦してくださった。わたしたちは、人生の帳尻が最後の最後まで全然合わないまま、父なる神様は赦してくださるんです。だから、おまえは、ほかのひとを赦さなければならないよ。それは当然のことじゃないか。おまえは赦されて、愛されて、生かされているんだから。神様からすべて赦されているおまえが、ほかのひとを赦して、そのひとを呪うんではなく、祝福しなければならないのは、当然じゃないか。そうイエス様はおっしゃるんです。
イエス様が十字架にかかって死んでくださった。そのおかげで、わたしたちは赦されて、愛されて、生かされて、生きることができるんだ。生きていていいんだ。この世界に生きていていいんだ。人生を生きていていいんだ。これは奇跡ですよ。神様の愛が起こした奇跡です。そうして、赦されたわたしたちが、自分が赦されたように、ほかのひとを赦す。あのひとから、こんなことをされた、こんなことを言われた。赦すことができない。でも、神様がわたしを赦してくださったんだから、わたしもあのひとを赦そう。そう決心して、相手を赦すなら、それは神様の愛が起こした奇跡です。
この殺伐とした世界、赦しのない世界、厳しい裁きのみがあるこの世界において、どうか教会の中においては、いつでも神様の愛の奇跡が見られますように。互いに赦し合い、受け入れ合い、生かし合うという奇跡が、いつも起きますように。その奇跡を見ることができるように、わたしたちは十字架と復活のイエス様に今日もしっかりと目を向けたいと思います。祈りましょう。