聖句 黙示録21:22-27
死んだらどうなるんだろう。死んだらおわりじゃないか。
多くの人がそう思っています。わたしたちもそうだったかもしれない。
しかし、あの日曜日の朝、おどろくべきことが起きたんです。
あの日曜日の朝、イエスさまの弟子たちは途方に暮れていました。たいせつなイエスさまが、十字架につけられて死んでしまった。冷たくなったイエスさまのおからだは、墓におさめられ、大きな石で蓋をされた。もうおしまいだ。死んだらおわりだ。わたしたちの希望は消えてしまった。弟子たちは沈み込んでいました。
でも、あの日曜日の朝、石の蓋がふきとばされたのです。墓の中からイエスさまがよみがえってこられたのです。弟子たちの前に姿を現されたのです。そのときの弟子たちの反応は、どうだったと思いますか? 聖書の記録を見ると、よみがえったイエスさまを見て、弟子たちは「恐れた」とあります。死んだはずの人がピンピンしてるんですから、当然ですよね。さらに聖書を見ると、「疑った」とあります。死んだはずなのに、おかしいじゃないか。偽物のイエスなんじゃないだろうか。そっくりさんじゃないんだろうか。疑ったのです。さらに見ると、「不思議がった」とあります。そりゃそうですよね。死んだら終わりだ、とずっと思っていたのに、イエスさまがよみがえってこられた。人間の理解を超えた出来事です。不思議がったのは当然です。
十字架で死んだイエスさまがよみがえられた。それが、あの日曜日に起こった出来事です。聖書は2000年前に書かれた古い本で、当時の人々は迷信深かったんだ、と思うかもしれません。でも、イエスの弟子たちは、わたしたち現代人以上に現代人だったんですよ。彼らは、よみがえりのイエスさまを見て、信じることができないで、恐れた、疑った、不思議がったのですから。
わたしたちはよく「この目で見たら信じる」と言うでしょう。しかし実際はどうですか。イエスの弟子たちは、目の前でよみがえりのイエスさまを見ても、すぐには信じることができなかった。恐れた、疑った、不思議がったのです。
「十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかい、疑う者もいた」(マタイ28:16)
ほんとうのことを言えば、わたしたちは、たとえこの目で見ても、信じることはできないのです。イエスさまはおっしゃいました。「見たので信じるのか。見ないで信じるものは、幸いである」(ヨハネ20:29)
イエスがよみがえられたということは、2000年前の弟子たちにとって受け入れるのが難しかったのと同様に、今日のわたしたちにも難しいことです。しかし、わたしたちは今朝、恐れを乗り越えて、よみがえりのイエスさまを信じようではありませんか。疑いを乗り越えて、よみがえりのイエスさまを信じようではありませんか。不思議を乗り越えて、よみがえりのイエスさまを信じようではありませんか。
イエスさまはおっしゃいました。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ7:13)
イエスさまのよみがえりを信じることが、狭い門です。でも、信じていきましょう。そのために必要なのは、単純な信頼です。イエスさま、あなたがよみがえられたことを、信じます。この目で見てはいませんが、あなたを信頼して、信じます。という単純な信仰です。
そのようにしてイエスを信じる者には、永遠の命が与えられる、と聖書は約束しています。ヨハネ3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」
救世軍では、イエスさまを信じるための場所があります。それが、この恵の座です。恵の座は、イエスさまに単純な信頼を置くための祈りの場所です。この場所にひざまづいて、わたしたちは祈るのです。イエスさま、あなたがよみがえられたことを信じます。この目では見てはいませんが、あなたを信頼して、信じます。と祈るのです。
そのように恵の座で祈った人の名前を、救世軍では「回心者名簿」という帳簿に記録いたします。何年何月何日に、この人は何歳であって、イエスさまを信じる祈りをした。住所はどこそこである。そのようにインクで記録いたします。
ところが天国には、もう一冊帳簿があるのです。それは、「小羊の命の書」というタイトルの帳簿です。わたしたちがこの地上でイエスさまを信じると、その瞬間、天国において、「小羊の命の書」に、わたしたちの名前が記されるのです。
イエスさまはおっしゃいました。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16:19)
すごいことが言われていますね。わたしたちはみんな、イエスさまから天国の鍵をいただいているんですよ。よみがえりのイエスさまを信じる信仰。これこそが、天国の鍵です。天国の鍵は、わたしたちの手の中にあるんです。いま胸に手をあてて、考えてみてください。わたしはイエスさまを信じているだろうか。イエスさまこそ、死者の中から復活し、永遠の命を与えてくださる救い主だと、信じているだろうか。もしアーメンなら、あなたは、いま、ここで、すでに、あなたの手の中に天国の鍵をしっかりにぎりしめているのですよ。
だから、この地上でつなぐことは天上でもつながれる。わたしたちが今日、恵の座にひざまづいて、アーメン、イエスさま、あなたを信じます、と単純に祈るときに、救世軍の小隊の事務室の回心者名簿にあなたの名前が記されるだけではない。同時に、天国にある「小羊の命の書」にも、あなたの名前が永遠に消えない文字で、しっかりと書き記されるのです。
わたしたちは、自分が天国に行くことについて、確信を持つことができるんだろうか? よみがえりのイエスさまを、あなたは信じていますか? もしアーメンならば、間違いなく天国の鍵をあなたの手の中に握っているのです。あなたが天国の鍵を今握っているならば、あなたの名前はいますでに天国にある「小羊の命の書」に書き記されていることになります。だから、わたしたちは、自分の救いについて確信を持つことができるのです。
あの日曜日のおどろくべき出来事以来、2000年間毎週毎週、日曜日がめぐり来るたびに、世界中のクリスチャンは教会に集まって、祈りをささげてきました。その人たちはみんな、天国へと旅立って行きました。救世軍の先人たち、先輩たちも天国に旅立って行きました。わたしたちの戦友や家族や友人たちも天国に旅立って行きました。彼らはみんな、天国の鍵をしっかり握りしめて、旅立って行きました。
ひるがえってわたしたちはどうでしょうか? わたしは毎朝家を出たあと、3分か4分ぐらいあるいたところで、左側のポケットをまさぐるのです。定期券が入っているかどうか確かめるためです。ときどき入っていないことがあります。すると、あわてて戻って定期券を取りに帰ります。
定期券を持っていれば、改札を通れて、電車に乗れます。これ自体はあまり楽しいことではありませんね。しかし、天国の鍵を持っているわたしたちは、天国の門を通って、広々とした神様の御国で、なつかしいあの人や、この人に、再会することができるのです。死がもはや二度とわたしたちを引き裂くことがない永遠の御国で、わたしたちは、わたしたちの戦友や家族や友人と永遠に過ごすことができるのです。それは、なんと楽しいことでしょうか!
そのために、わたしたちは今朝、ズボンの左のポケットをまさぐってみる必要があるのではありませんか? イエスさまがせっかくくださった天国の鍵を、わたしたちはうっかりどこかへ置いてきてはいませんか? もしそうなら、わたしたちは、天国の鍵を取りにもどらなければなりません。
死んだらどうなるんだろう。死んだらおわりじゃないか。
多くの人がそう思っています。わたしたちもそうだったかもしれない。
しかし、あの日曜日の朝、おどろくべきことが起きたんです。
あの日曜日の朝、イエスさまの弟子たちは途方に暮れていました。たいせつなイエスさまが、十字架につけられて死んでしまった。冷たくなったイエスさまのおからだは、墓におさめられ、大きな石で蓋をされた。もうおしまいだ。死んだらおわりだ。わたしたちの希望は消えてしまった。弟子たちは沈み込んでいました。
でも、あの日曜日の朝、石の蓋がふきとばされたのです。墓の中からイエスさまがよみがえってこられたのです。弟子たちの前に姿を現されたのです。そのときの弟子たちの反応は、どうだったと思いますか? 聖書の記録を見ると、よみがえったイエスさまを見て、弟子たちは「恐れた」とあります。死んだはずの人がピンピンしてるんですから、当然ですよね。さらに聖書を見ると、「疑った」とあります。死んだはずなのに、おかしいじゃないか。偽物のイエスなんじゃないだろうか。そっくりさんじゃないんだろうか。疑ったのです。さらに見ると、「不思議がった」とあります。そりゃそうですよね。死んだら終わりだ、とずっと思っていたのに、イエスさまがよみがえってこられた。人間の理解を超えた出来事です。不思議がったのは当然です。
十字架で死んだイエスさまがよみがえられた。それが、あの日曜日に起こった出来事です。聖書は2000年前に書かれた古い本で、当時の人々は迷信深かったんだ、と思うかもしれません。でも、イエスの弟子たちは、わたしたち現代人以上に現代人だったんですよ。彼らは、よみがえりのイエスさまを見て、信じることができないで、恐れた、疑った、不思議がったのですから。
わたしたちはよく「この目で見たら信じる」と言うでしょう。しかし実際はどうですか。イエスの弟子たちは、目の前でよみがえりのイエスさまを見ても、すぐには信じることができなかった。恐れた、疑った、不思議がったのです。
「十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかい、疑う者もいた」(マタイ28:16)
ほんとうのことを言えば、わたしたちは、たとえこの目で見ても、信じることはできないのです。イエスさまはおっしゃいました。「見たので信じるのか。見ないで信じるものは、幸いである」(ヨハネ20:29)
イエスがよみがえられたということは、2000年前の弟子たちにとって受け入れるのが難しかったのと同様に、今日のわたしたちにも難しいことです。しかし、わたしたちは今朝、恐れを乗り越えて、よみがえりのイエスさまを信じようではありませんか。疑いを乗り越えて、よみがえりのイエスさまを信じようではありませんか。不思議を乗り越えて、よみがえりのイエスさまを信じようではありませんか。
イエスさまはおっしゃいました。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ7:13)
イエスさまのよみがえりを信じることが、狭い門です。でも、信じていきましょう。そのために必要なのは、単純な信頼です。イエスさま、あなたがよみがえられたことを、信じます。この目で見てはいませんが、あなたを信頼して、信じます。という単純な信仰です。
そのようにしてイエスを信じる者には、永遠の命が与えられる、と聖書は約束しています。ヨハネ3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」
救世軍では、イエスさまを信じるための場所があります。それが、この恵の座です。恵の座は、イエスさまに単純な信頼を置くための祈りの場所です。この場所にひざまづいて、わたしたちは祈るのです。イエスさま、あなたがよみがえられたことを信じます。この目では見てはいませんが、あなたを信頼して、信じます。と祈るのです。
そのように恵の座で祈った人の名前を、救世軍では「回心者名簿」という帳簿に記録いたします。何年何月何日に、この人は何歳であって、イエスさまを信じる祈りをした。住所はどこそこである。そのようにインクで記録いたします。
ところが天国には、もう一冊帳簿があるのです。それは、「小羊の命の書」というタイトルの帳簿です。わたしたちがこの地上でイエスさまを信じると、その瞬間、天国において、「小羊の命の書」に、わたしたちの名前が記されるのです。
イエスさまはおっしゃいました。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16:19)
すごいことが言われていますね。わたしたちはみんな、イエスさまから天国の鍵をいただいているんですよ。よみがえりのイエスさまを信じる信仰。これこそが、天国の鍵です。天国の鍵は、わたしたちの手の中にあるんです。いま胸に手をあてて、考えてみてください。わたしはイエスさまを信じているだろうか。イエスさまこそ、死者の中から復活し、永遠の命を与えてくださる救い主だと、信じているだろうか。もしアーメンなら、あなたは、いま、ここで、すでに、あなたの手の中に天国の鍵をしっかりにぎりしめているのですよ。
だから、この地上でつなぐことは天上でもつながれる。わたしたちが今日、恵の座にひざまづいて、アーメン、イエスさま、あなたを信じます、と単純に祈るときに、救世軍の小隊の事務室の回心者名簿にあなたの名前が記されるだけではない。同時に、天国にある「小羊の命の書」にも、あなたの名前が永遠に消えない文字で、しっかりと書き記されるのです。
わたしたちは、自分が天国に行くことについて、確信を持つことができるんだろうか? よみがえりのイエスさまを、あなたは信じていますか? もしアーメンならば、間違いなく天国の鍵をあなたの手の中に握っているのです。あなたが天国の鍵を今握っているならば、あなたの名前はいますでに天国にある「小羊の命の書」に書き記されていることになります。だから、わたしたちは、自分の救いについて確信を持つことができるのです。
あの日曜日のおどろくべき出来事以来、2000年間毎週毎週、日曜日がめぐり来るたびに、世界中のクリスチャンは教会に集まって、祈りをささげてきました。その人たちはみんな、天国へと旅立って行きました。救世軍の先人たち、先輩たちも天国に旅立って行きました。わたしたちの戦友や家族や友人たちも天国に旅立って行きました。彼らはみんな、天国の鍵をしっかり握りしめて、旅立って行きました。
ひるがえってわたしたちはどうでしょうか? わたしは毎朝家を出たあと、3分か4分ぐらいあるいたところで、左側のポケットをまさぐるのです。定期券が入っているかどうか確かめるためです。ときどき入っていないことがあります。すると、あわてて戻って定期券を取りに帰ります。
定期券を持っていれば、改札を通れて、電車に乗れます。これ自体はあまり楽しいことではありませんね。しかし、天国の鍵を持っているわたしたちは、天国の門を通って、広々とした神様の御国で、なつかしいあの人や、この人に、再会することができるのです。死がもはや二度とわたしたちを引き裂くことがない永遠の御国で、わたしたちは、わたしたちの戦友や家族や友人と永遠に過ごすことができるのです。それは、なんと楽しいことでしょうか!
そのために、わたしたちは今朝、ズボンの左のポケットをまさぐってみる必要があるのではありませんか? イエスさまがせっかくくださった天国の鍵を、わたしたちはうっかりどこかへ置いてきてはいませんか? もしそうなら、わたしたちは、天国の鍵を取りにもどらなければなりません。