われわれにとって今日、禁欲とは何を意味するのか、ということです。ルターは僧院の中で行われる禁欲に反対して、世俗の中での禁欲を強調した。この世俗内禁欲のおかげで、また、まさにキリスト者が常に働き大変勤勉であるということのおかげで、われわれは今日、人類を脅かす危機を持つことになっているわけです。ですからわれわれはこの世俗内禁欲というものを単純にそのまま引きつぐことはできません。われわれはそれを問題にしなくてはいけないので、それが私の解決することのできぬ神学的課題なのです。しかしとにかくわれわれがまず見なければならない課題でしょう。そしてわれわれは一度見なければならない。まさにこの世俗内禁欲、つまりあの当時は一つの解放であったこのことが、今日では一種の新しいかせになってしまったということをです・・・。
私の問題は、まさに美学に関連して、またそこからして、いかなる形、いかなる禁欲が今日命じられているかということなのです。私はあるとき対談したことがある。今までお話ししませんでしたけれど、カール・バルトとの対談で、禁欲についてです。
カール・バルトは彼のパイプをくわえながら、(スイス訛りのバルトの口まねで)「いいですか牧師さん、禁欲とは私にとって、煙草を吸うのを控えることではないんですよ(笑)。そうじゃなく、私がしゃべるのを少なくするということなんです」(爆笑)。
私はね、年をとるに従ってますます、生活の中で言葉の禁欲がいかに重要であるかということが分かって来た。これはとても大切なことです。トマス・アクィナスについても言われていることですが、彼は余りしゃべらなくなり、遂に沈黙した。あのころの教会の偉大な教師であった彼が、です。私はこれはやはり、好んでしゃべりたがる神学者にとっては禁欲の一部だろうと思います。これは大切なことですね。
ルドルフ・ボーレン
(ルドルフ・ボーレン、加藤常昭・村上伸訳『聖霊論的思考と実践』日本基督教団出版局、1980年、pp.247-248. 座談「教会と神学」より)