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あなたの人生を支配する原則

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聖句 ルカ14:7-14

わたしたちには、いろいろ思い煩いがありますよね。いらだったり、腹を立てたり。そういう思いは、どこから来るんでしょう? パウロは、わたしたちは生まれながらにして、いろいろなものに束縛されている、支配されている、と言っています。ガラテヤの信徒への手紙で、そういうことを言っているんです。

今日の説教題を「あなたの人生を支配する原則」といたしました。これはですね、良い意味でも悪い意味でも、わたしたちを束縛し支配しているいろいろな原則があるよ、ということを言いたいのです。わたしたちを心の底から支配している原則、法則。すっかり支配されてしまっているので、自分が支配されているなんて自分でちっとも感じないほどに、支配されている。そういう根本原則のことです。

わたし、ある外国の方を震災被災地にご案内したんです。夜は民宿に泊まったんですけど、その方、長い編み上げブーツを履いていたんですね。で、ブーツを脱ぐのが面倒くさいからって、履いたまま畳に上がったんです。わたし、怒って、あわててブーツを脱がしましたけど。わたしたち日本人は畳を見ると、もう何も考えなくても無意識に履物を脱ぐんです。畳を見たら靴を脱ぐっていう原則によって、心の底から支配されているんですね。何も思わないで、もう無条件反射的に脱いでしまう。

ところが、外国人はそうじゃないんです。畳を見て靴を脱ごうという考えがわかないんです。じゃあ、外国人は日本人に比べて自由かというと、そんなことはありません。わたしたち日本人が支配されているのとはまた別の原則によって、外国人も支配されているんですよ。日本人がびっくりするのは、イギリスやドイツでは、食器を洗ったあと泡をすすがないで食器乾燥機に入れることです。泡がついたままなら体に毒じゃないか、体に毒にならない特別な洗剤を使っているんだろうか、いろいろ心配しますよね。でも、使っているのは日本と同じ成分の洗剤だそうです。泡はすすがなくてよい、という日本人とは別の原則、別の法則によって、心が支配されているんですね。

パウロはそういう、無意識のレベルから支配している原則を「ストイケイア」と呼びました。心を支配する根本原則ということです。で、主イエスさまは、どういう根本原則がわたしたちを支配しているのか、ということを、今日の福音書で教えてくださっています。

場面は結婚式のパーティーです。あなたは社会的に相当の地位のある人です。パーティー会場に入ると、自由着席になっていて、テーブルにはネームカードがみあたりません。どうしますか? あなたは地位のある人ですから、末席ではなく上席に座るべきだ、と思うでしょ? 当然そうだろう、そうすべきだろう、そうすることに何の疑問もないだろうと思って、上席に座るんです。すると、係の人が近づいてきて、耳打ちするんです。「偉い方がいらしているので、席をお譲りください」 ちょっと恥ずかしくなって、席をずらします。すると、また係が近づいてきて、「もう一人偉い方がいらしているので、お願いします」 もっと恥ずかしくなって、席をずらします。すると、またまた係が近づいてきて、「すみません」 もうわかりますよね。あなたは恥をかいて末席に行くことになります。

わたしはこれだけのものなんだから、ふさわしい扱いを受けて当然だ。そういう思いが、わたしたちを心の底から支配しているんですよ。そして、たいていの場合、みんなあなたを、ふさわしく取り扱ってくれるでしょう。問題は、あなたが、ふさわしくない扱いを受けたときです。そのとき、あなたの心を支配している原則が、あなたの心をゆさぶるんです。恥ずかしくなって耳まで真っ赤になったり、いらいらしたり、腹が立ったり、怒りが爆発して怒鳴ったり。

もし自分が、ふさわしくない扱いを受けたら、自分はどういうふうに反応してしまうだろうか。そのことを今日考えるようにと、イエスさまはわたしたちを招いておられます。それを考えることによって、わたしたちは、実は気づいていなかった、自分の人生を支配している根本原則、ストイケイアに気づくことになるんです。

イエスさまは、もうひとつ話をしておられますね。今度はあなたが誰かを食事に招待する番になりました。招待して、おなかいっぱい食べてもらって、笑顔を見れたら、満足ですよね。でも、わたしたちの心の中には、わたしたちを支配している根本原則があって、「これだけごちそうしたんだから、お礼されて当然だよね」という思いがあるでしょ、っていうことです。

ひとに何かをしてあげたときに、当然、見返りを期待する、そういう根本原則がわたしたちを支配しています。もし、ふさわしい見返りが得られなかったら、この根本原則がわたしたちの心をゆさぶるんです。怒りやいらいらの原因ですね。

ほんとうの愛って、なんだろう。見返りを期待しないで、相手に良いことを行うのが、ほんとうの愛だ。イエスさまはそれを教えてくださっています。

イエスさまの言葉です。
「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」

わたしたち、クリスチャンとしてひとに親切にしたときに、あだで返される経験をすることがありますよね。わたしも経験したことがあります。麦茶をふるまってあげたのに、コップを床にたたきつけられて割られたことがあります。窓ガラスを割られたこともあります。下宿を紹介してあげたのに、ほかの下宿人とけんかをして、せっかく紹介した下宿から追い出されるということもあります。家賃が払えなくてアパートを追い出されるというので、家賃を立て替えてあげて、グループホームに紹介してあげたら、いったい何を思ったのか、ホームのひとたちの靴を全部焼却炉に放り込んで燃やしてしまった、ということがあります。また別の人ですけれども、身寄りのない方が亡くなられて、その方はお金がなかったので、わたしが喪主になって、お葬式の費用をわたしと家内とで払いました。火葬の費用のいくらかは区役所から補助がもらえましたけども、葬儀屋さんの費用と多磨墓地に納骨する費用はとうとう返ってきませんでした。連隊長にも相談しましたけれど、これは個人のことだから公費でまかなうことはできないし、社会鍋の趣旨とも違うからそれも使えないということでした。

そういうことが大なり小なり、人生にはありますよね。そういうとき、わたしたちの心は、どういう反応をしますか。あのストイケイア、目に見えない根本原則によって心を揺さぶられて、おかしい、こんなはずじゃない、ゆるされないことだ、って、不機嫌になりますか? いらいらしますか? 腹が立ちますか? 

そうじゃないでしょ、とイエスさまはおっしゃるんです。あなたの人生は目に見えないストイケイア、いろいろな根本原則によってずっと支配されてきた。でも、イエスさまが十字架にかかって、復活して、わたしたちを救ってくださった。自由にしてくださった。わたしたちを束縛し支配してきた原則、法則から、わたしたちを解き放ってくださったんですよ。

だから、いま、わたしたちの心は、愛によって支配されるべきなんだ。わたしたちの心はただ、愛による自由が満ちているだけであるべきなんだ。ふさわしくない扱いを受けても、にっこり笑っていられる。愛による自由です。見返りが得られなくても、にっこり笑っていられる。愛による自由です。そうであるならば、わたしたちの人生は、どんなことが起きたって、不幸で不機嫌でみじめな気分にのっとられてしまうことはないんです。むしろ、「あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」というイエスさまのお言葉に感謝して、わたしたちは幸せな気分になるべきなんです。そうして、そういうにっこり笑っている人を見たいと思って、世の中の人々は教会を訪ねて来るようになるのではないでしょうか? ほんとうの愛と自由は、にっこり笑うわたしたちクリスチャンの姿の中に、目に見えてあらわされ、それが、世の中の人々に対するほんとうのあかしとなるのではないでしょうか?

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