
「創世記冒頭に二種類の創造説話(1:1-2:3および2:4-25)が平置されていることについて、山谷はどう考えるのか」という質問を頂戴したので、それに対する回答となっているであろうと思われるブログの過去記事を以下に再掲したいと思う。なお、途中に出てくる「補注」は今回補ったものである。
方南町の本屋に自転車でぶらりと立ち寄り、岩波文庫青帯の井筒俊彦『意識と本質―精神的東洋を索めて』を買い求め、自宅の「瞑想室」で読み始めた。

いま読んでいる箇所は、議論のまだ導入部分であって、そこでは、東洋思想の極意は本質を「からっぽ」と見ることであって、からっぽのものをからっぽでないかのように錯誤させるのが「意識」の働きなのだ、というような感じである。
そうして、「からっぽ」と見るとは言っても、東洋思想には二つの立場があるのであって、ひとつは、大乗仏教のように、錯誤させる意識が取り払われたところには、絶対未分節の「無」がある、という見方。もうひとつは、ヒンドゥー教やイスラム神秘主義のように、絶対未分節の「有」がある、という見方である。
さて、そうであるならば、キリスト教は、どこに位置づけられるべきなのか?
小生はこのように考えてみた。
絶対未分節の「有」と、絶対未分節の「無」と、どちらも採用して生かすためには、たとえば、創世記の「天と地」という概念に首尾よくあてはめて、「天はかたちなく」の天とは<絶対未分節の有>であるとし、「地はむなしく」の地とは<絶対未分節の無>である、というようにしてしまったらどうか?
次に、絶対未分節の有にしても無にしても、それを分節化して「現象界」を生ぜしめるためには、言語を中核とする意識の働きが絶対に必要。そこで、分節化する意識とは、創造における神のロゴスにほかならぬ、としたらどうか?
さて、ここにおいて、小生が思い至るのは、神は絶対未分節の有であってもいけないし、はたまた、神は絶対未分節の無であってもいけない、ということである。そうでなければ、聖書の神が、大乗仏教やイスラム教やヒンドゥー教の「一者」といっしょくたになってしまう。聖書の神の<一元論的融解>は回避せねば、護教論としては失敗であろう。
そこで、プロセス神学のホワイトヘッドが言うように、創造の原初にまず神がいて、その神とは別個に、絶対未分節のエンティティーがいるのでなければならぬ、ということになる。
おそらくは、この、神とは別個の、しかし、絶対未分節の「なにものか」を、聖書はテホームとかティアマットとか呼んでいるのであろう。
問題は、この絶対未分節の、しかしそれでいて、神なのではない、「なにものか」が、どこから来たか、ということだ。ホワイトヘッドは、永遠の昔から、この「なにものか」は神とは別個に・しかし・神のかたわらに・存在して来た、と考えるらしい。とてもではないが、この見方を小生は受け容れることは出来ぬ。なぜなら、小生は、自称ファンダメンタリストであるからだ(!)
そうなると、「はじめに神が天と地とを創造された」と証言する聖書に忠実に従って、「神は、原初に、絶対未分節の有としての<天>と、絶対未分節の無としての<地>とを創造し、そののち、神のロゴス(意識・あるいは・言葉)が、分節化の働きを行って、現象界が生ぜじめられた」と考えるのが、よかろう。
そうして、神のロゴスは、まさしく絶対未分節のエンティティーとしての天と地を「分節化」することによって、世界を現象せしめるのである。すなわち、「昼と夜とを分け」「大空の上の水と、大空の下の水とを分け」「海と陸とを分け」「植物を種類に従って分け」「動物を種類に従って分け」「人間を男と女とに分け」ることによって。(そうして今この瞬間も、神のロゴスは、分節化の働きを行い続けているのである。それが、聖書が言う「御子イエスキリストの保持動作によって存続している世界」という世界観であろう。もし万が一、ロゴス・キリストによる保持動作が停止されたら、その瞬間、全世界はテホーム(深淵)に逆戻りするのである。それゆえ、聖トマス・アクィナスは、神の世界創造を現在進行中の行為としたのだ)
この神のロゴスによる「原初の分節化」が創造と呼ばれるわけだが、この神に似せてかたちづくられた、神の像(イマゴ・デイ)としての人間は、神のロゴスがそう行ったごとく、人間もまた、あらゆるものに名前をつけ、その名を呼ぶという「言語化」「名辞化」により、「第二の分節化」としての二次的創造を行っている。
(補注:旧約聖書の創世記冒頭においては、神のロゴスによる「原初の分節化」と、神の像としての人間による「第二の分節化」とが平置されている、と観ることができるであろう。すなわち、創世記1:1-2:3が「原初の分節化」であり、創世記2:4-25が「第二の分節化」を描写している、と観るのである)
小生が思うに、「原初の分節化」としての「創造」には、まったく何も問題ない。

問題は、その次。つまり、アダムが行った「言語化」「名辞化」による「第二の分節化」としての「二次的創造」である。人間が存在論的にも認識論的にも「脱臼」してしまったために、この箇所にトラブルが発生している、と見るべきではないか? ことほどさように、有と無、善と悪、霊と物質、恩寵と自然、決定論と非決定論、という「二元論的言語ゲームの呪縛」が、われわれ人間の全存在を根底から支配するようになっている。
しかもその上、バベルの混乱によって、人間の言語は千々万々に引き裂かれ、言わば、「二元論的言語ゲームの呪縛の三千大千世界的重層化」が起きてしまっているのである。これでは、日本と韓国が不仲となり、イランと米国が対立し、ブラジルの警察と囚人が銃を撃ち合うのは、いたしかたのないことである。

もしそうだとするなら、つまり、「第二の分節化」で起きている「問題」の解決を大乗やスーフィーが求めているのであれば、そのアプローチ自体は、聖書的にみて、あながち的外れではない。いや、むしろ、目指すべき方向性としては「正解」ということになる。
それなら、聖書的キリスト教と、大乗とスーフィーと、どこが違うのか?
小生は、このように思う。
人間が行う二次的創造としての「第二の分節化」は、本来的には、良いものであって、別に錯誤でも迷妄でも無知でも無分別でもなかったのだ。
なぜなら、人間に先立って、神のロゴス(意識・言葉)が、「原初の分節化」としての創造を行っているからである。そうして、それは、良いものであった。そうして、神から「良い」と評価された現象界の中には、「第二の分節化を行う神のイマゴ(像)としての人間」も、きっちり含まれているのであるから。
しかし、トラブルが発生するのは、その人間が堕罪して・つまり・神のロゴスから別離した状態において、「第二の分節化」を行うようになった、ということである。
ことここに至って、錯誤・迷妄・無知・無分別が、人間界に生じて来るのである。
そこで、聖書的キリスト教が提出する問題の解決法は、ふたたび人間が、神のロゴスと結び直されることなのである。
なぜなら、神のロゴスだけが、絶対未分節の有なり無なりを、真に良いものとして分節化し、現象させることができるのだから。この神のロゴスに再び結び合わされた人間は、神のロゴスが示す範に則って、「第二の分節化」としての準創造を適切に行うようになるであろう。かくして、神のイマゴ(像)としての人間が回復され、かつ、人間の創造性が回復されることになる。
では、どうやって、人間は、かつて別離した神のロゴスに、今日再び結び合わされることが出来るのか?
聖書の証言によれば、神のロゴスは、受肉して、わたしたち人間と同じ姿かたちとなり、全人類と結び合ってくださったのである。
あとは、個々人が、信仰によって、「わたしをこのお方と結び合わせてください」と願い求めるだけなのだ。このお方、すなわち、ひととなられた神であるイエスキリストを信じる信仰。これが、聖書的キリスト教の提示する解答なのである。

(2006年5月16日初出)