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お盆考再録(付説ポニョ考)

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小生はキリスト者であるから、お盆に実家へ帰って死者の霊を祭るという習慣を守ることは、特にしないのであるが、しかし、本邦に生を受けた者ゆえ、お盆になると、やはり自分の先祖のことどもについて、あれやこれや、いろいろ考えてしまう。

本邦の古き時代、すなわち「神代」(カミヨ)と呼び倣わされるあの神話的時代においては、いったい<死者の国>と<生者の国>とは未分化だったのであって、近代人の感覚には馴染まないことだが、あちらとこちらが連続した平面上にあった。

その神話世界をひもとけば、本邦を構成する八つの大きな島々と附随する島々を産み終えた女神イザナミノミコトは、炎の神カグツチを出産した際に負った大やけどのために、死んでしまう。妻を喪った男神イザナギノミコトは、愛する者の姿をもうひと目だけ見たいとの思いにつき動かされ、<生者の国>である豊葦原の「中つ国」から、<死者の国>である「根の国」へ、歩いて行く。

「根の国」は濃い闇に覆われていて、妻から「けっして姿を見てはなりません」と厳しく戒められた上で再会を果たすのだが、どうしても面影を見たい思いを抑えられないイザナギは、櫛に火をともして、妻の姿を見てしまう。

腐敗したおぞましい姿を夫に見られてしまった妻は、約束を裏切られたことを激怒し、逃げる夫を殺そうと、根の国の魑魅魍魎を従え、追跡する。

ほうほうのていで<死者の国>と<生者の国>をつなぐ黄泉平坂(ヨモツヒラサカ)まで逃げのびたイザナギは、神樹の実(桃)を投げつけて魑魅魍魎を退散させると共に、大石で道をふさいで<死者の国>と<生者の国>の往来を断った。この石は後に「道返しの神」(ミチガエシノカミ)と呼ばれ、本邦各地の村々の入口に置かれる道祖神の元型となったという。

逃げ帰ったイザナギノミコトが、「根の国」で受けたケガレを払うため、海に入って身を清めると、その流れ落ちた垢(アカ)から太陽の神アマテラスオオミカミ、月の神ツクヨミノミコト、海の神スサノオノミコトが生じたとされる。

この神話的表象が、いったいどういう宗教的真理を含有するのか、キリスト者である小生には全然想像もつかないのだが、「根の国」が<死者の国>であるとするならば、太陽も月も海も、その存在の原因とその力の根源とを、何らかの仕方で<死者の国>に負っている、ということになろう。つまり、その本来的な力がたとい<死者の国>に由来するものであっても、ある仕方でそれが、この世すなわち<生者の国>にもたらされるときに、それがポジティブな力(太陽、月、海)へ変換されることがある、ということである。

<死者の国>がネガティブな力であるからこそ、本邦各地の村々は、<死者の国>から忍び寄る勢力を恐れて、村の入口に「道返しの神」たる道祖神を設置して結界を張り巡らし、<死者の国>の禍々しき力を排除しようとしたのであろう。

しかし、本邦においては、この<死者の国>から<生者の国>への侵入を防ぐ結界がまったく解かれてしまう「時」が、年に二回あるとされるのである。

それは、いずれも<死者の国>から死者たちが<生者の国>へと大挙して戻って来る時である。一年のうちの最初のそれは、<死者の国>から戻って来る死者たちが、一個の集合的人格としての「年神」(トシガミ)に化されて、<生者の国>へと迎え入れられる「正月」である。戻って来る「年神」が、迎え入れられるべき各々の家に迷うことなくきちんと辿り着くことが出来るよう、入口に門松が立てられる。座敷へ上げられた「年神」は(地域によっては風呂でくつろぐよう招じ入れられ、そののち)重箱にしつらえられた料理で饗応され、屠蘇を献じられる。家人たちも「年神」と共に食事をするが、その際に用いる「祝い箸」は両端が細くなっていて、その一端は人間が、もう一端は年神が使うとされる。「年神」は、返礼として、霊魂の象徴である「お年玉」を家人に分ち与える。

「年神」が、その存在の原因とその力の根源とを、本来的には<死者の国>に負っていても、正月という「時」において<生者の国>にもたらされるときに、それがポジティプな力(ハレ)へ変換されるわけである。

これと全く同様にして、「お盆」を考えることができよう。

お盆もまた、<死者の国>から死者たちが<生者の国>へと大挙して戻って来る時である。一年のうちの後半のそれは、<死者の国>から戻って来る死者たちが、一個の集合的人格としての「祖霊」に化されてはいても、なお、その大方の個別性は解消されておらず、個人の霊魂としても戻って来る。<生者の国>の者たちは、提灯をかかげて<死者の国>へ、つまり、村の結界の外に設けてある墓地へ、「祖霊」を迎えに行く。提灯に導かれた「祖霊」は、灯籠によって飾られた家で、食事の饗応を受ける。「祖霊」は、返礼として、「盆踊り」を披露する。(盆踊りが、本来は死者たちの踊りであったことの痕跡を示す習俗が、トカラ列島に残っているという)

「祖霊」が、その存在の原因とその力の根源とを、本来的には<死者の国>に負っていても、お盆という「時」において<生者の国>にもたらされるときに、それがポジティブな力(ハレ)へ変換されるわけである。

正月もお盆も、本邦に生を受けた者らは、みな仕事を休んで、それぞれの生まれ故郷に帰る。これを江戸時代には「薮入り」と称した。正月の薮入りと、盆の薮入りと、年に二回あるわけである。これは、働く者たちが、郷里の家族のもとで、生命の充実した楽しい祝いの時(ハレ)を過ごして、気力の電池を再充電する機会であった。

さて、キリスト教は、このような本邦の習俗と、全然無関係なのであろうか?

教理学者や宣教学者の大方は、「無関係」と断言するであろう。

しかし、たとえば、新プラトン主義的なキリスト教思想の立場からすれば、本邦の正月とお盆は、イエスキリストの出来事と、全然無関係ということにはならないのではあるまいか?

つまり、永遠の「真相」の世界においては、三位一体の第二位格が、絶望と死の極致である十字架にかかって陰府(ヨミ)に降下し、三日目に復活することによって、絶望と死の極致である十字架を、罪の赦し・人類の聖化・永遠の生命が無限に溢れ出る源泉へと、変換したのである。

この「キリストの十字架において死が命へ変換された」という永遠の「真相」は、物質的な現象界のもろもろの事物に投影されて「実相」となるのであり、それは例えば、死に枯れた古木が春に芽吹いて満開の花を咲かせる、ということであったり、凍てついた灰色の大地が春の到来によって緑野となる、ということであるのだが、こうした自然的表象の「実相」に加えて、さらにまた、正月やお盆といった、文化的表象の「実相」をも、考え得るのではないだろうか?

そのように考え得るのであれば、新プラトン主義的なキリスト教思想の立場からする、正月の新しい意義付け、お盆の新しい意義付け、ということを、考え得るであろう。

すなわち、正月にわが家をおとのいたもうのは、十字架につけられ、ヨミにくだり、そこから、よみがえりたもうた(ヨミ帰りたもうた)主イエスキリストの御霊である。われわれキリスト者は、そのお方に、そのお方にのみ、扉を開き、中に招じ入れ、食事を共にするのである。

さらにまた、お盆にわが家をおとのいたもうのは、十字架につけられ、ヨミにくだり、そこから、よみがえりたもうた(ヨミ帰りたもうた)主イエスキリストの御霊である。われわれキリスト者は、そのお方に、そのお方にのみ、扉を開き、中に招じ入れ、食事を共にするのである。

このお方は、絶望と死の極致である十字架をもって、それを、罪の赦し・人類の聖化・永遠の生命が無限に溢れ出る源泉へと、変換してくださった。われわれキリスト者は、自らの家(ウチ=内)にこのキリストを招じ入れ、キリストと共に食事をし、生命の充実した楽しい祝いの時(ハレ)を過ごすことによって、その全存在をフルチャージされることができるのである。

さらに、この晴れやかな時において、キリストは、ご自分の御霊を、われわれに分け与え、さらにキリストは、喜びの踊りの輪の中へと、われわれを加えたもう。それはもう、盆と正月がいっぺんに来たような、祝宴なのである。


ポストスクリプト

このエントリーを書く心理的なきっかけは、宮崎駿のアニメ映画「崖の上のポニョ」のフィルムブックを読んだことによる。

その作品世界では、<海中の世界>と<地上の世界>が併置されていて、その両者を、超えることの出来ない海岸線が<結界>となって、分割している。海岸線の場面は、岩場となっているが、この岩は、黄泉平坂(ヨモツヒラサカ)をふさぐ石、すなわち、「道返しの神」(ミチガエシノカミ)を暗示するものであるやもしれない。

<海中の世界>は、禍々しさと、嵐に象徴される破壊性を持ちながら、しかも、あらゆる生命力を発現させる豊穣性に満ちていて、それはちょうど、リビドー的なエネルギーの根源である「根の国」(死者の国)である。「根の国」がもたらす力が化して、禍々しさ・荒れ狂う海・暴風であるスサノオノミコトと、光・生命・豊穣であるアマテラスオオミカミとなって現れた、という神話は、リビドー的なエネルギーの二面性を示していると思われる。

これに対して、<地上の世界>は、おだやかで、平凡で、淡々と時間が流れ、こまごまとした生活の雑事がちりばめられた「ケ」の世界であって、つまりは「中つ国」(生者の国)である。

ところが、ポニョという人面魚の少女が、越境することによって、海岸線という<結界>が崩壊してしまう。

その結果、禍々しさと破壊性と生命の豊穣に満ちた<海中の世界>が、津波となって、どっと押し寄せ、<地上の世界>を呑み込んでしまうのだ。

こうして、<海中の世界>と<地上の世界>が一体化した、不思議な光景が眼前に展開される。それは「ハレ」の世界なのであって、それが証拠に、デイケア施設で車椅子に頼って過ごさなければならなかった高齢の女性たちが、がぜん生命の力にみなぎり、歩き回り、飛び上がり、喜び踊るのである。それは、盆踊りにおける生命の跳躍を思わせる。

この映画が公開された8月という時期を考えれば、おそらく、本邦の「お盆」というハレの時を成り立たしめている宗教的表象の構造、あるいは、深層意識の構造を、絵画的に描き出したもの、ということなのではあるまいか、と小生は解釈した次第である。

<海中の世界>(根の国)が、どっと押し寄せて<地上の世界>(中つ国)を呑み込むことにより、「ハレ」の世界が出来(しゅったい)し、日常性で枯れ果てていた人々の生命力が瞬時に回復されるという、この映画の「祝祭性」は、お盆が体の芯まで染み込んでいる日本人には、感覚的にすんなり受け入れられるであろう。果たして、西欧人の場合は、どうであろうか?

(2008年8月16日初出)


関連項目

「クリスマス考」
「日本における主イエスキリストの宣明ー律令格式と大祓祝詞をめぐって」

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