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人生を新たにスタートしよう!

聖句 ヨハネ1:1-13
 
日本は失敗をゆるさない社会だと言われます。失敗したら責任を取って、腹を切らなければならない。でも、失敗がすべて悪いかというと、そんなことはないんです。意味のある失敗もあるんです。未来学者のエドワード・ボノ博士は言いました。「ほんとうの意味での失敗と、自分のコントロールを超えた、どうにもならない、自分に責任があるとは言えない失敗と、この二つを明瞭に区別する言葉が、どの国の言葉にも存在しないのです。やむをえず前者の場合も『失敗』と、わたしたちは呼んでいます。しかし、それはほんとうは、失敗ではないのです。このため、人々は新しいことに挑戦するのをしり込みするのです。ちゃんとやったのに、うまくいかなかった独創的な試みを、きちんと表現する言葉がない。だから人々は、おじけづいてしまう。もしうまくいかなかったら、自分が非難されることになるからです。問題は、言葉のギャップにあるのです」
 
何もしないでじっとしているより、勇気をもって挑戦して、それで失敗したなら、それは良い意味での失敗だよ、とボノ博士は考えるんですね。ショー・クリフトン大将は日本においでになったとき、青年たちに言いました。「みなさんに失敗することを許可します。失敗を恐れないで、挑戦してください!」 このように失敗には、良い失敗と、悪い失敗があるんですよ。
 
しかし、悪い失敗があるということも、わたしたちの現実です。「これじゃいけない、わるいことだ」と自分でもわかっているのに、やってしまう。悪い失敗。聖書ではこれを「罪」と言いますけど、カトリック教会では礼拝の最初にみんなで罪の告白をします。「神様、わたしたちが言葉と・思いと・行いと・怠りによって犯した罪をゆるしてください」とお祈りするんです。
 
自分の人生を正直にみつめるならば、良い失敗もたくさんあったでしょう。しかし、悪い失敗もたくさんあったにちがいありません。詩人の中原中也は、こういう詩を残しました。
 
汚れちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる
汚れちまった悲しみに 今日も風さえ吹きすぎる
 
汚れちまった悲しみに たとえば狐の皮衣
汚れちまった悲しみは 小雪のかかってちぢこまる
 
汚れちまった悲しみは なにのぞむなくねがうなく
汚れちまった悲しみは 倦怠のうちに死を夢む
 
汚れちまった悲しみに いたいたしくも怖気づき
汚れちまった悲しみに なすところもなく日は暮れる
 
でも今日読んだヨハネ福音書は、わたしたちは「あたらしく生まれることができる」と宣言しているんです。人生、失敗だらけだったかもしれない。でも今日、いま・ここで、新しい人生をスタートできる、と宣言しているんですよ。これは革命的な宣言でしょう! 
 
その宣言はヨハネ福音書1:12-13です。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」 この「言」というのはイエスキリストを指しています。イエスさまを受け入れた人、救い主として信じた人は、神の子となるんだ。神によって新しく生まれかわるんだ。そう宣言されています。
 
言葉というのは、わたしたちを生かしもし、殺しもしますよね。失敗した時に、「おまえだめだな、おしまいだな」と言われたら、その言葉でわたしたちは潰れてしまいます。逆に、「つらかったね、悲しかったね、でもだいじょうぶだよ、わたしが一緒にいるから、もう一度一緒にやってみようよ。必ず助けるから」って言われたら、その言葉で生き返れますよね。 
 
イエスさまは、神のことばである、と言われています。神のことばが、イエスさまなんです。神さまが「光あれ」とおっしゃると、光ができた。神さまが「天と地をわけよ」とおっしゃると、天地がわかれて宇宙ができた。神さまのことばによって、すべてのものができた、と聖書は記録しています。神様のことばによって、すべてのものができた。その神さまのことばが、イエスさまだ。神さまのことばが、わたしたちのところへ人の姿をとっておいでになった、それがイエスさまだ。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)と言われているのは、そういう意味です。
 
神さまのことばであるイエスさまは、わたしたちを潰す言葉ではないんです。わたしたちを生かす言葉なんです。わたしたちはこれまでの人生で、良い意味の失敗も、悪い意味の失敗も、何度も繰り返してきたでしょう。でも、神さまのことばであるイエスさまが、わたしたちを生かす言葉をかけてくださるんです。「つらかったね、悲しかったね、でもだいじょうぶだよ、わたしが一緒にいるから、もう一度一緒に生きてみようよ。わたしが必ず助けるから」 それが神のことばであるイエスさまです。
 
それは、口先で言っているんではないんです。本気でわたしたちを思っていることを示すために、十字架にかかってくださったんです。イエスさまは、わたしたちの失敗の責任をぜんぶ引き受けて、十字架で死んでくださったんです。その上で、よみがえって、わたしたちを生かす命となってくださいました。「だいじょうぶだよ。あなたの失敗、良い失敗も、悪い失敗も、言葉の失敗、思いの失敗、行いの失敗、怠りの失敗、その責任を全部取るために、わたしが身代わりに十字架にかかったんだよ。だから、あなたは赦しを受けなさい。そして、新しい人生をスタートしなさい。また失敗するかもしれないと恐れてはいけない。わたしが一緒にいるから。わたしはよみがえって、生きていて、必ずあなたを助けるから、わたしと一緒に生きて行こうよ」 そうイエスさまは、おっしゃってくださいます。
 
それが、わたしたちを生かす神さまのことばです。わたしたちはこれまで、どんな言葉を聞いて生きて来ましたか? 
 
血によって? これは日本人の言葉を意味していますよ。日本人は、ものごとを否定的に考える傾向があるそうです。わたしたちは「だめだ、だめだ、もうおしまいだ」という言葉ばかり聞いていたら、死んでしまいます。
 
肉の欲によって? これは、わたしたちの欲望を意味していますよ。お腹が空いた、美味しいものが食べたい、きもちよいことがしたい。そういう言葉ばかり聞いて、わたしたちは失敗してきたのではありませんか? 
 
人の欲によって? これは、人間の考えを意味しています。もっとこうすれば上手くいく、もっとこうすればもうかる、もっとこうすれば出世できる。そういう言葉ばかり聞いて、何度裏切られて来たことでしょう?
 
今朝わたしたちは、神のことばであるイエスさまに聞くべきです。わたしたちを生かす神のことばであるイエスさまを、受け取るべきです。わたしたちは今日、いま・ここで、新しく生まれ変わることができるのです。最後に八木重吉の詩を読んでおわりといたします。
 
夢の中の自分の顔と言うものを始めて見た
発熱がいく日もつづいた夜
私はキリストを念じてねむった
一つの顔があらわれた
それはもちろん
現在の私の顔でもなく
幼ない時の自分の顔でもなく
いつも心にえがいている
最も気高い天使の顔でもなかった
それよりももっとすぐれた顔であった
その顔が自分の顔であるということはおのずから分った
顔のまわりは金色をおびた暗黒であった
翌朝眼がさめたとき
別段熱は下っていなかった
しかし不思議に私の心は平らかだった

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