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Channel: Major Mak's Diary
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一元論・二元論・多元論のキリスト論的集中について

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・恩寵vs自然という二項対立図式は、自然がその存在を全面的に恩寵に依拠しているのだから、対立は見かけ上のものでしかない。かつ、神性と人性が結合したキリストの位格において恩寵と自然は人格的に統合されている。このキリストの統治は諸権力を仲介して行われるから、現象としては多元論的に見える。

・こうして、一元論と二元論と多元論は、神人キリストの頭首権的王権的統治において統合されていることになる。統合しているものは人格的なもの、すなわち、愛だ。

・歴史が二項対立図式で展開して行くというヘーゲル的運動は、キリストの摂理的統治の「過程」である限りにおいて二元論的だし、その二元論的な過程に乗っている社会は多元論的だ。しかし、歴史のベクトルが進む終点では、天も地も頭なるキリストにおいて一つにされる。世界の始点と終点は一元論なのだ。

・歴史のベクトルが終点に向かうのは、自然の本性がキリストに向かって行く運動だし、信者が信仰から信仰へ進む運動だし、人類の聖化の運動だし、天国へ進む運動だし、それを希望と言う。ところで、一元論的なのは「終点」においてなのであって、過程である「現在」は二元論で多元論でなければならない。

・二元論と多元論の現象である「現在」を、神ならぬ人間が自分の考えで無理やりに一元論に持って行こうとするのは、キリストの摂理的統治に反旗を翻すことであり、その行為は本質的に反キリスト的であり、その行為が成功しかけたなら、その状況はバビロン的、あるいは、バベルの塔とみなされる。

・バビロン的状況は、神人キリストではない人間が超人間的な欲動によって作り出すものだが、神は主権を行使して必ずバビロン的状況を覆し、多元論的状況へと分解させる。しかし、終末の一元論的希望に目を向けた人々が廃墟の中から立ち上がって、二元論的葛藤をしながら歴史の歩みを再開するのだ。

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