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テラピムを地に埋めよ

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聖句 創世記35:1-15

わたしたちは聖潔の恵みをいただいて前に向かって進み続けているお互いです。「前に」と言うよりは「上に」と言った方が良いかしもれません。上に向かって進み続けている者。今日の聖書に「ベテルに上ろう」という言葉が言われておりました。いまいる地点から出発してベテルに上って行く。上に向かって行く動きです。わたしたちはみんな、主イエスに似た姿に完成されるというゴールを目指して、上に向かって行く霊的な巡礼の旅を旅しております。

今日の聖書でヤコブとその一行は、旅に向かって出発するにあたり「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい」と言われております。霊的な巡礼の旅を進むわたしたちにとって、これはぜひとも耳を傾けなければならない大切な言葉でありましょう。

「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい」とは、どういう意味でありましょうか?

「身を清める」とは、主イエスキリストの十字架の血潮によって、すべての罪を清めていただくことでありましょう。「衣服を着替える」とは、古い自分・古い行いという古い服を脱ぎ棄てて、上からキリストという新しい衣を着ることでありましょう。

それでは「身に着けている外国の神々を取り去れ」とは、どういうことでありましょうか?

口語訳聖書では、身に着ける守り神としての偶像をヘブライ語の原語のまま「テラピム」と表現しています。今日の説教題「テラピムを地に埋めよ」は、口語訳から取らせていただきました。

わたしたちが身に着けている偶像。これにはいったい、どういうものがあるでしょうか?

わたしたちはここで、わたしたちにとって一番やっかいな偶像、すなわち、精神的な偶像というものを考えるべきではないかと思います。あるいは、わたしたち自身の「思い」と言ったらいいかもしれない。自分の「思い」という偶像であります。

わたしたちの最初の父祖であるアダムが、神様に背を向けて罪に落ちたのは、禁断の木の実を食べるという行為によることはもちろんですが、しかし、禁断の木の実を食べるという行為に先立って、アダムの「思い」というものがあったことを、わたしたちは考えなければなりません。

エデンの園で起きたことは、こうです。創造されたその美しい姿において、アダムの「思い」は神様の「思い」と完全に溶け合って一つになっていました。聖潔の探求においてわたしたちが目指しているのは、まさにこれでしょう。わたしの「思い」と神様の「思い」が完全に溶け合って一つになっている。わたしたちは、そういう者になりたい。それが、わたしたちの最終的な目標地点です。

その完全な一致からアダムは落ちてしまった。原因は「思い」にありました。「それを食べたなら死ぬよ。だから、食べてはいけない」 そういう神様の「思い」を、アダムはよく知っておりました。そこに、別の「思い」が吹き込まれました。「食べても決して死ぬことは無い。だから、食べても大丈夫だよ」 この「思い」を吹き込んだのは、ヘビのかたちをしたサタンですけれども、ヘビは、きっかけを作ったにすぎません。きっかけを与えられて、アダムは自分自身の「思い」を持つようになりました。神様の「思い」とは明らかに異なる、自分自身の「思い」を持ったのです。

アダムが迫られた試練は、神の「思い」か・自分の「思い」か・どちらを選ぶか? という試練でありました。

アダムは、神の「思い」を退けて、自分の「思い」を選びました。人生の祭壇というものを考えるとしたら、その祭壇の真ん中に置かれるべきはずの神様をアダムは取り除いて、自分の「思い」という偶像を、祭壇の中心に据えたのです。自分の「思い」という偶像であります。そして、この偶像、自分の「思い」という偶像に奉仕するために、アダムは禁断の木の実をもぎとって、祭壇の上にささげました。自分の「思い」という偶像の神に食べさせるために、禁断の木の実をもぎとったのです。

すべての人間は、何らかの超自然的な世界を信じています。そういう超自然的な世界に対して、自分自身をひれ伏させる。これが礼拝ですけれども、その礼拝の場所が祭壇です。すべての人間が、何からのかたちで、人生の祭壇というものを持っているでありましょう。

その人生の祭壇の真ん中に祭られているのは、何であるのか? これが、わたしたちの聖潔の旅路において、決定的に重要なことです。

アダムがそうしたように、わたしたちの祭壇の真ん中にも、自分の「思い」という偶像が据えられているのではないだろうか? そうして、アダムにかたどられたカインが、彼自身の人生の祭壇に畑の実りを供えたときに、その祭壇の中心に据えられていたのは、アダムがそうであったのと同じように、カイン自身の「思い」という偶像が、祭壇の中心にあったではなかったか? カインの捧げものは、自分の「思い」に奉仕するためにささげられたものであったと考えるなら、神様がアベルの捧げものだけ受け取られたとき、なぜカインが激怒し、弟を殺すまでしたのか、理解できる気がいたします。カインは、神に奉仕していたのではなく、自分の「思い」に奉仕していたのです。

わたしたちは、自分の「思い」に奉仕するために、自分が良いと思ったいろんなものを運んできて、祭壇の上に並べます。自分の「思い」という偶像の前に並べます。そうしてもしかしたら、わたしたちは、イエスキリストすらをも便利な道具として、偶像のために使っていないだろうか? この危険性を考えてみなければなりません。すなわち、道具としての神、ということであります。

何年か前にゲストの説教者が、こういうふうに言われました。
「四種類のキリスト者がいる。第一、私は私の思いを行なう、というキリスト者。第二、私は私の思いのために神を使う、というキリスト者。第三、私は神の御心を行なう、というキリスト者。第四、神よ、御心を私に行なってください、というキリスト者」

福音書の中に、イエスの名によって病気を癒し、悪霊を追い出し、目覚ましい働きをした人たちが、再臨の主イエス様のもとへやって来ますが、イエス様からは「おまえたちのことをまったく知らない」と言われてしまう。そういう終末論的な場面が出てまいります。なぜなのだろうか? 彼らの人生の祭壇の中心にあったのは、自分の「思い」だったからではないだろうか。彼らは、自分の「思い」を実現するための道具として、イエスの御名を便利に使ったのです。その結果、たしかに病気は癒され、悪霊は追い出されました。しかし、それによって満足せられたのは、自分の「思い」という偶像の神だったのであって、イエス様の「思い」ではなかった、ということではないでしょうか。

こう記されています。マタイ7:21-23の御言葉です。「わたしに向かって『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」

聖潔の旅路において、さらに上に向かって進んで行くために、「身に着けている外国の神々を取り去れ」とわたしたちは言われております。

わたしたちは、自分の人生の祭壇の中心を占めている偶像の神、自分の「思い」という偶像の神を取り除いて、地面に埋めてしまわなければなりません。「テラピムを地に埋めよ」であります。このことは、はっきり意識して行われなければなりません。

主イエスキリストは、まことに神にして・まことに人として、わたしたちのもとへおいでになりました。この主イエスのご人格のうちに「思い」が二つあった、ということが、教会の神学的な議論の中で明らかにされてきております。

それがすなわち正統教義としての「両意論」でありまして、キリストのご人格は単一、ただひとつであるけれども、そのひとつの人格の中に、神としての意志・神としての思いと、人としての意志・人間としての思いと、二つの意志があったのだ、と観るのが「両意論」であります。これは680年から681年にかけて開催された第三コンスタンティノポリス公会議、これは第六全地公会議とも呼ばれますけども、そこにおいて決定された正統教義であります。

主イエスの単一の人格の中に、神の意志と人の意志と、二つの意志があった。すると、主イエスキリストが歩まれた人生、その人生の祭壇の中心を占めていたのは、神の「思い」か・人の「思い」か・どちらが中心にあったのだろうか?

主イエスキリストご自身、このことを、はっきりと自覚的にお決めにならなければなりませんでした。わたしたちはその場面を、洗礼者ヨハネの洗礼において、荒野の誘惑において、ペトロとの対決において、ゲッセマネの園において、四回目撃することになります。

まず、洗礼者ヨハネの洗礼でありますが、イエス様ご自身は罪の無いお方であり、罪を一度も犯したことが無いお方ですから、洗礼者ヨハネが授ける「罪の悔い改めの洗礼」をイエス様が受ける必要はまったく無かったことになります。

ところが、父なる神の「思い」は、罪の無いイエス様が、全人類の身代わりを引き受けて、身代わりに悔い改め、身代わりに洗礼を受け、身代わりに苦しみの杯を飲み、身代わりに十字架につけられ、身代わりに死ぬという、これが父なる神の「思い」でありました。

父なる神の「思い」を知ったイエス様は、自分の「思い」をわきへ置いて、父なる神の「思い」に従うことをお選びになりました。その結果が、主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼をお受けなった、という行為になります。

このことを通して主イエスは、祭壇の中心に神の「思い」を置き、自分の「思い」をわきへとり下ろして、父なる神の「思い」への完全な服従を表されたのです。父なる神はそれをご覧になって、おおいにお喜びになり、こう言われました。マタイ3:16「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」

人生の祭壇の中心から、自分の「思い」を取り下ろして、わきへ置き、祭壇の中心に神の「思い」を置かれた主イエス様。父なる神の「思い」に対する、まったき服従。これに対して父なる神は、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と喜びをもって応答されました。

主イエスはしかし、その後、たびたび誘惑をお受けになりました。それが荒野における誘惑です。荒野において主イエスは、ご自分が持っている神としての力を、自分自身の「思い」のために使うようにと、悪魔から誘惑されました。

もし石をパンに変える力を持っていて、しかも、飢えて死にそうな状況にあったとしたら、その力を使ってパンを食べたところで、何が悪いんだろう? 別に何も悪くないじゃないか? わたしたちならそう考えるでしょう。

しかし、誘惑の焦点は、人生の祭壇の中心を占めるものは何か、ということにあるのです。悪魔はささやきかけます。あなたは、あなたに与えられた力を、自分の「思い」の実現のために使うべきであって、父なる神の「思い」がどうであるか、神の御心がどうであるかは、いちいち考える必要は無い。人生の祭壇の中心にあるのは、自分の「思い」であるべきだ。自分の「思い」の実現のために持てる力をすべて尽くすべきだ。これが、悪魔の誘惑であります。悪魔の誘惑は、なんと甘美な響きをもっていることでしょうか!

わたしたちには、自分の「思い」があります。自分の感情、自分の気分、自分の願望、自分の夢、自分の主義、自分の主張、自分の計画、自分の立場、自分の好み、自分の都合があります。わたしたちはそれを優先し、それを第一とするべきだ。こうしてわたしたちは、人生の祭壇の真ん中に自分の「思い」という偶像を据えて、これに仕えているのです。しかし、主イエスは、どうされたでありましょうか? イエスは常に、父なる神の「思い」を祭壇の中心に置かれました。

父なる神の「思い」は、自分が十字架にかかって死ぬことである。そのことをイエス様は明確に理解しておられました。イエス様はある時期から弟子たちに、「過越祭になると、人の子は十字架につけられるために引き渡される」と、はっきりお語りになるようになりました。その一方で、十字架で死ぬことは、イエス様にとって悲しく、つらく、恐ろしいことであり、できることならそれを避けたいという人間としての「思い」が、イエス様の中にありました。神の「思い」か・自分の「思い」か・その選択をめぐる葛藤をイエス様が経験しておられたことが、福音書を読むとわかります。その葛藤する心の中にペトロが手をつっこんでひっかきまわしたのです。「人の子は十字架につけられる」という主イエスの言葉を聞いたペトロは、「先生、先生が十字架にかかって死ぬだなんて、そんなことがあってはなりません!」とイエスをいさめ始めました。

これはペトロとの対決ですが、しかしそれはまた、ペトロを通してイエス様の心の中に手をつっこんでひっかきまわす悪魔との対決でもありました。悲しいんでしょう? つらいんでしょう? 怖いんでしょう? だったら十字架にかからないでも済む別の道を行けば良いじゃないか? 父なる神の「思い」より自分の「思い」を大事にするべきじゃないか? 誘惑の言葉は、なんと甘美で、なんと優しいことでしょう! この誘惑に対してイエス様は、「サタンよ、引き下がれ。あなたは神のことではなく人のことを考えている」と言って、打ち勝たれました。

しかし、誘惑はゲッセマネの園において、なおもイエス様にやって来ます。ゲッセマネの園において主イエスは、滝のように汗をしたたらせながら葛藤し、ついには、「わたしの思いではなく御心のままになさってください」と父なる神に祈ることによって、誘惑に打ち勝たれました。

主イエスキリストがなさったこと。それは、人生の祭壇の中心から、自分の「思い」を取り下ろして、わきへのけて、父なる神の「思い」をいつも祭壇の中心に置き続けようとすることでありました。

「イエスのようにしてください」 それがわたしたちの歌です。「イエスのようにしてください」 それが、わたしたちの祈りです。わたしたちがイエスのようになりたいのであれば、当然、わたしたちの人生の祭壇の中心を何が占めているのか、という挑戦をわたしたちは受けることになります。

わたしが奉仕し、わたしが仕えているのは、自分の「思い」に対してだろうか?  
自分の感情、自分の気分、自分の願望、自分の夢、自分の主義、自分の主張、自分の計画、自分の立場、自分の好み、自分の都合。それらがわたしのすべてであり、第一にすべきものであり、わたしの礼拝の対象・関心の対象・崇拝の対象であり、奉仕の対象であり、自分の「思い」の実現のためなら、イエスキリストさえも便利な道具として使おうとしていないだろうか? このことを、わたしたちは今日、静かに自分に問うてみたいのであります。

最後に、宗教改革者マルチン・ルターに対して大きな影響を与えた、匿名のドイツ騎士修道会士による『ドイツ神学』の第二章から抜粋したものを読んで、このメッセージを終わりにいたします。これは、ルターが序文をつけて1516年に出版したものです。お読みします。なお、括弧内は山谷による補足です。

「アダムはリンゴを食べた故に破滅し堕落した、と言われる。しかし私はこう言う。そうなったのは、神のものであるものを、アダムが思い上がって我がものにすることによってであり、そして彼の「私は」、彼の「私の」、彼の「私に」、彼の「私を」などによってである、と。もし、アダムがリンゴを七個食べても、それを我がものとすることがなかったならば、彼は堕落しなかったであろう。しかし、この我がものにすることが起こるやいなや、アダムは、リンゴをたとえ一個もかじっていなくとも、堕落したのである。

ところで、私はアダムより百倍も深く堕落し、百倍も遠く離反したのである。そして、アダムの堕落と離反を、どの人間も改めたり、償ったりすることは出来なかった。では、私の堕落は、いかにして改められ得るのであろうか?

それは、アダムの堕落同様に、そして、アダムの堕落が改められたのと同じ御方によって、しかも、同じ方法で、改められなければならない。

この改めは誰によって、いかなる方法で行なわれたのであろうか?

人間は神なしにはそれが出来なかったし、神は人間なしにはそれをしようとはされなかった。それ故、神は人間の自然的本性ないし人間性をわが身に引き受けて人間化され、そして、人間は神化された。(それが、まことに神にして・まことに人である主イエスキリストである)まさにそこにおいて、改めがなされたのである。

このようにして、私の堕落も改められなければならない。私は神なくしてはそれが出来ず、神は私なくしてはそれをなさるべきではなく、また、それをなそうとも思われない。というのは、そのことがなされるべきであるならば、神が、私の内にあるものすべてを内からも外からもわが身に引き受けられるように、そして、神に逆らう、または、神の業を妨げるものが、何一つ私の内になくなるように、神も私において人間化されなければならないからである。

神が、ありとあらゆる人間をわが身に引き受けられ、彼らにおいて人間化なされ(それがイエスキリストである!)そして、彼ら人間が神において神化されても(それが信者の聖化である!)それが私においてなされるのでなければ(私という個人の決心によってなされるのでなければ)私の堕落と離反は決して改められないであろう。

そしてこの償いと改めにおいては、私は何一つ付け自分の力を付け加えることはできず、そうする立場にもなく、あるいは、そうするべきではなく、神だけが行なわれ、神だけが働かれ、私は、神をそして神の働きと神の意志を受け容れるというように、単に純粋に受け容れるだけである。

そしてそれ故、私がそれを受け容れようとしないで、むしろ「私の」や「私は」や「私に」や「私を」を持ちたいと思うことが、神の働きを妨げ、そのため神は神だけで何の妨げもなく働かれるということが出来ない。そのためにまた、私の堕落と離反は改められないままである。見よ、これはすべて、私の「我がものにする」働きの仕事である」

以上であります。

どうか、わたしたちは今日、「私の」「私は」「私に」「私を」という偶像。自分の感情、自分の気分、自分の願望、自分の夢、自分の主義、自分の主張、自分の計画、自分の立場、自分の好み、自分の都合という偶像、これらのテラピムを、主イエスキリストのお力を頂いて、人生の祭壇の真ん中から取り除いて、わきへのけて、できることならば土に埋めてしまうことができますように。それが、キリストと共に古い自分が死んで、キリストと共に墓に葬られる、ということでありましょう。そうして、人生の祭壇の真ん中に、神の「思い」を据えることができますように。それが、キリストと共に復活して、神に対して生きるようになる、キリストが新しいわたしを生きてくださるようになる、ということでありましょう。そのようにして、聖潔を求めるわたしたちの霊的な巡礼の旅が、さらに上に、さらに上に、主イエスキリストに似た完成された姿に向かって、さらに上に進んで行くことができるように、祈ります。

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