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謹賀新年

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「マヤ暦が切れても失せぬ社会鍋」

という俳句を詠んで終えた2012年でしたけれども、新年にあたってご挨拶を申し上げるに際して、わたくしは2011年の新年のご挨拶をまったくここへ再掲することといたしました。

なんとなれば「状況」は、まったく変わっておらないためであります。

そういうわけで、わたくしどもはどうか2013年におきましても、主イエスキリストの再臨の希望にまっすぐ顔を向けながらも、地に足をつけて、何時でも平常心でもって、国家と社会と隣人に対する自己の責務を精々怠らず果たして行きたいものです。

<以下全部再掲>

謹んで新年の賀詞を申し上げ、皆様にこの一年ご多幸あらんことをお祈りいたします。

さて、2011年は所謂「終末預言」というのが教界においてブームになるような気がいたしますが、いつでも絶えず常に主イエスキリストのご再臨に対して準備万端整っているということは信仰者として是非とも必要なことでありますけれども、かえって、ただいたずらに終末的気分、厭世的気分、悲観的気分を焚き付けるだけに奔って、信者に安易に日常細事の義務を放棄させるがごとき「終末預言」というのは、これはずいぶん考えものだ、というのが小生の立場であります。

では、われらの主イエスキリストご自身は、この「終末預言」の問題について、何とおおせられているのであるか?

これについては新約聖書正典の中でもマタイ伝第24章に詳しく記されていますから、それをお読みいただいたら良いのだけれども、特にそこの文意で最大注意すべきは、第6節の「慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」という主のお言葉であります。

この主のお言葉を正当に解釈するなら、これこれこういうことが起こっても、まだ世の終わりではないんだから、慌てちゃいかんよ、ということであります。

で、「これこれこういうこと」というののリストが次の第7節から第14節にかけて展開されているのでありまして、それをいまここに整理して掲げるとするなら、こういう具合になります。すなわち

1.民は民に、国は国に敵対して立ち上がるが、まだ世の終わりではない。
2.方々に飢饉や地震が起こるが、まだ世の終わりではない。
3.信者は苦しみを受け、殺されるが、まだ世の終わりではない。
4.主イエスの御名のゆえに、信者はあらゆる民に憎まれるが、まだ世の終わりではない。
5.多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになるが、まだ世の終わりではない。
6.偽預言者が大勢現れ、多くの人を惑わすが、まだ世の終わりではない。
7.不法がはびこり、多くの人の愛が冷えるが、まだ世の終わりではない。
8.主イエスキリストの福音が全世界に宣べ伝えられて、ようやく終わりのきざしが見えてくる。

こういうふうに、この世界にどんだけ悲惨かつ悲観的な惨事が連続的に起きたとしても「まだ世の終わりではないんだから、慌てちゃいかんよ」というのが、主のお言葉の文意であるわけでして、これは、現実的楽観主義とでも言うべきものであります。すなわち、悲惨かつ悲観的な惨事が全然起きないと言うておるんではない。むしろ、悲惨かつ悲観的な惨事が連続的に起きるんだ、と言うてるんである。だから夢想的ではない。悲惨な現実を直視している。それを見てしかもなお「まだ世の終わりではない」とするわけですから、これは夢想的楽観主義でなくして、現実的楽観主義であります。

問題は、第14節の解釈次第でありますけれども、ここへ「福音が全世界に宣べ伝えられて」とあるもんだから、ひとの中には「インターネットや衛星放送で世界へ隈なく福音が宣教されている現今こそ終わりの時である」と言う向きがあります。確かにそうなんですけれども、しかし、そのこと自体は、終わりのしるし、というよりはむしろ、「終わりの始まりのための前提条件」というべきでありましょう。すなわち、世界宣教の達成イクオール終わり、というのではなくってして、世界宣教の達成イクオール終わりの始まり、ということであります。

でもって、じゃあ、いよいよ本当に「世の終わり」が到来するという段になったら、いったいどういうことが起こるのか。主イエスは、それについては第29節以下第34節までで述べておられます。いまそれらを整理して提示するならば、こういうふうになります。すなわち

1.太陽が暗くなる。
2.月が光を放たなくなる。
3.星々が空から落ちる。
4.天体が揺れ動く。
5.主イエスキリストが大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来られる。
6.天使らが合図のラッパを吹き鳴らして、主につける者らを世界から呼び集める。

という、これらの「しるし」を全部目にしたら、その時こそ、いよいよ本当に「世の終わり」が来たんですよ、ということであります。

われらはこの主のお言葉を真面目に受け取らなければならないんでありまして、もし今年、誰かがわれらに近づいて来て、「もう世の終わりが来ているんだから、勉強することも、仕事することも、社会保険を払うことも、人生計画を立てることも、全部無駄だ。すべて引き払って、山に篭って、ひたすら祈って、終わりを待つしかないんだ」というふうに警告する人がいるか知れない。

そういう時には、われらはこう切り返してやらなきゃならんのです。すなわち

「おお、君よ。空を仰いでごらんなさい。おてんとうさまが暗くなったかね? おつきさまが光らなくなったかね? おほしさまが落っこちてきたかね? 夜空の星という星がグラグラ揺れているかね? イエスさまが光る雲に乗って大勢の聖徒と天使らを従えて空から降りて来るさまが君の目に見えるかね? 見えないだろう。見えないんだったら、君は、しっかり勉強せんきゃならない。懸命に仕事して金を稼がなきゃならない。社会保険も税金も遅滞なく払わなきゃならない。人生計画をしっかり立てて老後をどうするか熟慮せんきゃならない。それが信者としての君の義務だ!」

つまり、この2011年に世界にどんなに悲惨かつ悲観的な惨事が連続的に起きたとしても、われらは、われらの日常細事の義務を精精続行しなきゃならないんでありまして、なんとなれば、主イエスご自身がおっしゃったとおり「まだ世の終わりではないんだから」ということであります。

ひとつ例話を申し上げれば、第二次世界大戦が起こってロンドンが空襲により焦土と化し、救世軍の万国本営もまた瓦礫となったんですけれども、「これはハルマゲンドンの戦いであって世の終わりだ」と思う信者が全然無かったわけではない。しかし当時の救世軍の大将は何と言うたかというと、「事務は平常通り」ということでありました。これすなわち、あらゆるものが破壊され焼け落ちるというふうに物事が悲観的に進んだとしても、なおわれらは日常細事の義務を、あたかも何事もなかったかのごとく忠実に励行するんだ、という行き方であります。そうしてわれらは、ただこの「忠実」という一点だけにおいて、主イエスキリストのご再臨に対する全き備えが出来ていることになるんだ、というんであります。ご再臨の主が注視していたもうのは、「汝は忠実なる僕でありしや否や」というただ一点だけであります。槍が降り、爆弾が降ったから、何もしないでじっとしてました、という僕ではない。槍が降り、爆弾も降ったが、それでも事務は平常通りやりました、という僕であります。

もちろん、われらが勉強も仕事も納税も人生設計も放り出してよいという「時点」が、無いわけではない。それがすなわち、太陽が暗くなり、月が光を失い、星が落ち、天体が揺れ動き、主イエスが光る雲に乗って降りて来られるという、その「時点」であります。その時点にわれらが立ち居合わせるならば、確かにわれらはもう勉強どころではない、仕事どころではない、納税どころではない、人生設計どころではない。ただ主の栄光のお姿にあっけにとられ、ただ随喜の涙を流すばかりでありましょう。

だがそれは、そういう「時点」が来る前までは、われらは絶対に何でも放り出しちゃいかん、ということなのであります。

<以上全部再掲>

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