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水を汲むのはあなただ!

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聖句 イザヤ58:10

今日の御言葉をもう一度お読みいたします。
「飢えている人に心を配り
苦しめられている人の願いを満たすなら
あなたの光は、闇の中に輝き出で
あなたを包む闇は、真昼のようになる」

ここから、わたしたちの克己週間のために3つのポイントを見たいと思います。第1は「心を配る」 第2は「願いを満たす」 第3は「光が輝き出る」です。わたしたちが心を配り、願を満たすとき、光が輝き出る、ということです。

1 まず「心を配る」ことをみてみましょう。

わたしたちはどうやって心を配ったらいいんでしょうか? ここで、カナの結婚式におけるマリアの姿を思い浮かべてみたいとおもいます。マリアこそ「心を配る」ということの模範です。

マリアは、あの結婚式の席で、ぼーっとしていたのではありませんでした。結婚式で何が起きていたのか、じーっと注意深く見ていたのです。問題が起きていたのに、お客さんはだれも気づきませんでした。問題が起きていたのに、同席していたイエス様の弟子もだれひとり気づきませんでした。じーっと注意深く見ていたマリアだけが、問題が起きたことに気付いたのです。「ぶどう酒がなくなった!」ということに。

ここでわたしたちは、反省してみなければなりません。この世界の中で、この日本の中で、この東京の中で、わたしたちの近隣社会の中で、問題が起きているのに、ぼーっとしているために、わたしたちは気づいていないんじゃないだろうか。

マリアは、注意深く観察し、思いめぐらす人でした。彼女はいつも、じーっと見ているのです。そして、問題を把握したとき、マリアは何をしたでしょうか?

イエスに頼んだのです。これを、祈りと言ってもいい。とりなしの祈りと言っていいでしょう。イエスに祈ったのです。「ぶどう酒がありません! あなたの助けが必要です!」

このマリアの心の態度に注意しましょう。わたしたちは、実は、できるだけ問題を見たくないから、見ないように、精神的に心の目をシャットアウトしているのではないですか? だって、問題に気づいてしまったら、このわたしが何か行動しなきゃいけないから。行動を起こすのは、大変なことだ。面倒には巻き込まれたくない。だから、見えているけど、見えていないことにしよう。

だが、マリアは、じーっと注意深く問題を見て、そして、何をしましたか? イエスに祈ったのです。祈りのうちに、問題をイエスのもとに持って行く。これがマリアのしたことです。これがマリアの取った行動です。

だから、わたしたちも目を大きく見開いて、世界を、日本を、東京を、わたしたちの近隣社会を、見つめましょう。注意深く見つめましょう。そこでどんな問題が起きているかを見つめましょう。そして、問題を把握したら、祈りのうちに、問題をイエスのもとに持って行きましょう。これが今日わたしたちが学ぶことのできる第一の点です。

2 その次は「願いを満たすこと」です。

マリアは「ぶどう酒が足りないのです! ぶどう酒を与えてください!」という願いを、祈りのうちにイエスのもとに持って行きました。

ところでイエス様は、十字架にかかり、復活し、人類の罪をあがなうためにおいでになったのです。別に、ぶどう酒のためにイエス様は来たのではない。これは本来のイエス様の使命とは関係ない。だからイエス様はマリアに「関係ないでしょ」と言いました。

しかし、イエス様は祈りを聴いてくださいました。わたしたちはどんな問題をイエスのもとに持って行くべきなんだろうか? ひとびとの霊が目覚め、魂が救われますように、という霊的な問題だけを持って行くべきなんだろうか? そうじゃありません。ひとびとが困っている問題であったら、どんな問題であっても、祈りのうちにそれをイエスのもとに持って行くべきなんです。

ここにわたしたちの祈り手としての召しがあります。この世界の願いを、たくさんのひとびとが抱える願いを、ひとびとの切実な願いをいったいだれがイエスのもとに持って行くことができるんですか? ひとびとの願いを、祈りのうちにイエスのもとに持って行けるひとは、どこにいるんですか?

このわたしたちをほかにして、それはないんです。イエスを信じ、イエスを愛し、イエスに結ばれているわたしたち。このわたしたちだけが、祈りのうちに、ひとびとの願いをイエスのもとに持って行くことができるんです。だから、わたしたちは、目を見開いて、立ち上がって、祈るべきです。とりなしの祈り手として、祈るべきです。「おお、イエスよ、この人の必要を、この人の願いを、満たしてください! お願いします!」と、とりなすことができるのは、わたしたちだけです。

すると、イエスは、願いをお聞きになります。イエスは、母マリアの願いをお聞きになりました。そして、「こうしてください」とイエスの願いをお示しになりました。ここに、イエスの願いが示されました。ひとびとの願いは、イエスによって聞き届けられました。そして、それへの応答として、イエスは、イエスの願いを示されるのです。

ここでは、具体的には、六つの水がめを水でいっぱいに満たす、というイエスの願いが示されました。

イエスの願いは、ひとびとの願いに対する直接的応答として出されたものです。ぶどう酒がほしいのか・それなら・水を汲みなさい。一見すると、全然結びつきがないように見える。水を汲むのと・ぶどう酒が与えられるのと・何の関係もないじゃないか? そう思ってしまう。

しかし、イエスは祈りの応答者として、主権をもってここでお命じになっている。あなたの祈りは聞き届けられた・ついては・このことをあなたはしなさいという。主権をもってイエスはお命じになるのです。

でも? しかし? どうして? なんで?と、わたしたちは思う。けれども、「わかりました。お言葉ですから、水を汲みます」というふうにならなきゃいけない。あの水汲みのしもべたちは、黙々と水を汲んだのです。水がめがいっぱいになるまで、黙々と汲んだのです。

わたしたちはこれから、克己週間の働きに入って行こうとしております。これは、水汲みのしもべの仕事ではありませんか? 水がぶどう酒に変わる瞬間が、わたしたちにはわからない。克己週間の働きをして集められたものが、南アメリカで、アフリカで、困っているひとびとの目の前で、まさに、ぶどう酒に変わる瞬間が、確かにあるんです。ああ、助かった、これで、わたしたちの切実な必要が、わたしたちの長年の願いが、これで満たされた、ハレルヤ!と、現地のひとびとが喜び叫ぶ瞬間があるんです。けれども、わたしたちはだれも、その瞬間、水がまさにぶどう酒に変わる瞬間を、この目で見ることはできない。わたしたちはそれを見れないが、ただ黙々と水を汲むのです。

3 しかし、わたしたちが水を汲み続けるならば、光が輝きでます。それが、今日の最後の点です。「光が輝き出る」という。

だれの光が輝き出るのか? わたしたちの栄光が輝き出るんだろうか? 水汲みのしもべの栄光が輝き出るんだろうか? 日本の救世軍の栄光が輝き出るんだろうか? そうじゃありません。わたしたちの主イエスキリストの栄光、主権者としての主イエスキリストの栄光が、輝き出るのです。

この栄光の目撃者は、だれですか? だれが、この栄光を目撃するのですか? 困っていたひとびとですか? 切実な願いを抱えていたひとびとですか? 困っていたひとびとは、ぶどう酒を手にすることで、ある意味、もう満足が与えられてしまいます。満足してしまう中で、彼らは、ぶどう酒が、どこから、だれによって、どのようにして来たのか、ということを問わないかもしれない。

だけれども、祈った人だけには、見えるのです。主の栄光が見えるのです。祈りが聞かれ、必要が満たされ、イエスキリストこそ生ける神であることが、この世界に目に見えて現された。その栄光を、祈った人だけが、目撃するのです。

そしてまた、水を汲んだ人も、見るのです。主の栄光を見るのです。だって、自分が汲んだのは、ただの水にすぎなかったということを、汲んだ人だけは知っているんですから。水汲みのしもべは、ひとびとの願いが満たされて喜ぶ姿のうちに、主イエスキリストの栄光を目撃するのです。

ひとびとが喜ぶ姿を、わたしたちはいろいろなところで目撃しました。ひとびとが喜ぶ姿のうちに、わたしたちは主イエスキリストの栄光を目撃しました。

だから、わたしたちは言うのです。「わが神、わが主よ」 そして「ハレルヤ、主よ、感謝します」と。その時はじめてひとびとは、気づくでしょう。「ところで、このぶどう酒は、いったいどこから来たのですか?」 すると、わたしたちは証しするのです。「それはイエスです。主イエスがそれをなさったのです」

むすびのことば

わたしたちは、もっと主イエスの栄光を見させていただきましょう。

そのために、祈る人が必要です。マリアのように、ものごとを注意深く観察して、問題を祈りのうちにイエスのもとに持って行く。祈る人が必要です。あなたは、祈る人として、今日献身を新たにすべきではありませんか?

さらに、水を汲む人が必要です。水がぶどう酒に変わる瞬間を、たといこの目で見ることができないとしても、これは主のお言葉だからと言って、ただ黙々とひたすら水を汲む働き人が必要です。あなたは、水を汲む人として、今日献身を新たにすべきではありませんか?

そうして、証しする人が必要です。主の栄光が現されたとき、それが、わたしたちの栄光ではない、だれの栄光でもない、それは主の栄光である、ということを認めて、「それはイエスです。それはイエスがなさったのです」と証しする人が必要です。あなたは、主の証し人として、今日献身を新たにすべきではありませんか?

お祈りいたしましょう。

マタイ受難曲 全曲

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カール・リヒターによる1971年の上演。

ラザロの復活

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『偉大な生涯の物語』より。イエスはエルサレム近郊のベタニヤ村で、友人ラザロをよみがえらせた。この事件は当局に大きな衝撃を与え、イエスの捕縛と処刑につながっていく。

マイナスを喜びに変えよう!

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聖句 黙示録1:4-9

はじめに


今年のバレンタインの翌日、2月15日にロシアのチェリャビンスクに隕石が落下し、4500軒の建物が被害を受けました。科学アカデミーの分析によると、隕石は直径15メートル、重さ10トン、マッハ44、秒速15キロメートルで大気圏に突入し、空気の摩擦で温度が6000℃となり、空中で爆発し、そのエネルギーは広島型原爆の30倍だったということです。その16時間後には直径45メートルの小惑星が地球のすぐ近くを通過しました。もし地表に落ちた場合は、東京都の面積の半分ほどが吹っ飛んだろうと考えられています。

わたしたちは、生活のあらゆる面で落ち度のないよう細心の注意を払っていても、こういう人間の力ではどうすることもできない出来事があります。これが人間の限界ではないでしょうか? 自分は、あれもできる、これもできる、なんでもできると思っていても、ここから先は入れない。人間の限界だ! そういうものがあるのです。

ヨハネの黙示録8:10以下に「第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃えている大きな星が、天から落ちて来て、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。この星の名は『苦よもぎ』といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ」とあります。苦よもぎはウクライナ語でチェルノブイリですが、まるで預言のようですね。ヨハネの黙示録は、全体におそろしげな感じがみちています。この、おそろしげな感じは、人間の力ではどうすることもできない、という感覚から来ています。人間の限界をつきつける。黙示録がおそろしげなのは、そういう理由からです。

しかし、イエスキリストを信じる者にとっては、そんな黙示録からよろこびのメッセージを受け取ることができるのです。ちょっとしたコツが要ります。しかし、もしあなたが黙示録からよろこびのメッセージを受け取ることができたら、人生最強です。なぜなら、あなたは人生のどんなマイナスの出来事からも、よろこびを受け取ることができるようになるからです。そこで今日は、黙示録からよろこびのメッセージを受け取る三つのポイントを見て行きましょう。

1 まず、わたしたちのアイデンティティーの問題です。

あなたは何者ですか? あなたはどういう者としてありますか? それがアイデンティティーですけれども、あなたのアイデンティティーが、マイナスに直面したときのあなたの行動を左右します。黙示録を書いたヨハネは、1:9で自分は何者であるかを宣言しています。アイデンティティーの宣言です。すなわち、「わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである」とあります。これがヨハネのアイデンティティーの宣言です。

わたしはイエスに結ばれている・ゆえに・イエスの苦難にあずかっている。それが自分なのだ。ヨハネは自分をそう見ています。わたしたちはいま、全世界のキリスト教会と共に40日間の受難節をすごしている最中ですけれども、受難節は、主イエスキリストが人類の救いのために十字架で尊い犠牲を払ってくださった、その苦しみを想い起す季節です。それが受難節です。イエスはわたしたちのために苦しんでくださった。そうして、わたしたちは、自分の人生に起きて来るマイナスの出来事を、例外なくすべて、イエスの十字架に結び合わせて考える、ということです。

わたしたちは、家庭で、学校で、職場で、近隣社会で受ける、いわれのない苦しみや、いわれのない仕打ちがあります。全部マイナスの出来事です。そんなこと、わたしの人生で起きなければいいのに、とどんなにか思うことでしょう! しかしわたしたちは、そういうマイナスの出来事全部が、あのイエスの十字架とつながって、ひとつになっているんだ、というふうに捉えることができるのです。イエス様の尊い愛の犠牲。苦しみ。そのイエス様の苦しみに、わたしたちは一緒にあずかっているのだ。わたしの人生の出来事は、どんなにマイナスであっても、全然意味のないことではない。いや、むしろ、意味があるのだ。このマイナスのことをとおして、わたしはイエスの十字架の愛とつながっているんだ。それは尊いこと、神聖なことなんだ。

こういう気持ちになれたら、わたしたちの人生は180度変わるのではありませんか! この気持ちをうたった歌が、救世軍歌集の233番に納められています。こうあります。
「まぼろしに見たる主が われをさしまねき
『重荷になやむわれを たすけよ』とのたもう
『汝が十字架にない われにしたがえ』と
み声はさやかなれば われはしたごう」

このマイナスの出来事は、イエスの十字架の愛につながっている。心からそう思えたら、わたしたちはマイナスと思える状況を、イエス様と一緒に「支配」していることになります。苦難があっても、イエス様と一緒に忍耐するなら、わたしたちは、奴隷としてマイナスに支配されているのではなく、むしろ、主人としてマイナスを支配しているのです。昨日の朝日新聞にノートルダム修道会の渡辺和子シスターが、誰かに腹を立てることは、その人の支配を受けることなのです。そうではなく、あなたが環境を支配する主になることが大切です、と書いていました。

ヨハネはこう言っています。「イエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである」 マイナスと思えることを、ただマイナスだと思って人生を悲観すると、わたしたちは主体性を失った奴隷になってしまいます。マイナスと思えることを、イエス様と一緒に忍耐することによって、わたしたちは主体性を持った主人として支配することができます。

「イエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである」 この「ヨハネ」のところに、わたしたちは自分の名前を書きこむことができるでしょうか?

2 次に、わたしたちのインスピレーションの問題です。

あなたは、何から霊感を受けて生きていますか? あなたは、どういう声、どういう考えに従って生きていますか? それがインスピレーションですけれども、わたしたちは何から霊感を受けて生きているか、ということが、マイナスに直面したときのわたしたちの行動を左右します。黙示録2:7にこうあります。「耳のある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう」

わたしたちの人生における判断や行動は、かならずしも深く考えてなされるわけではありません。ちょっとした考え、思いつき、その場の雰囲気、感覚で行動しているのではありませんか? そして、そういうわたしたちを左右するのが霊感です。インスピレーションです。インスピレーションと言っても、いろいろあります。ここを注意しなければなりません。人間的な思いつきや、この世的な思いつきのインスピレーションがあります。

しかし、黙示録は「聖霊の声に聞きなさい」と言っています。神様は、神の霊である聖霊をとおして、わたしたちの心に語りかけられます。これを「良心」(良い心と書く)と言いますが、わたしたちは良心をとおして示される聖霊の導きにしたがって判断し、行動したいのです。マイナスの出来事に直面したとき、怒りにまかせて攻撃しますか? 感情にまかせて落ち込みますか? 悲しみにまかせてふさぎ込みますか? そういうインスピレーションによって人生を左右されますか? それとも、マイナスの出来事に直面したとき、良心にしたがって反応しますか? 神様が、聖霊をとおして心に語りかけてくださる良心したがって反応しますか? 良心に従うなら、わたしたちは人生の勝利者になります。

3 そこで、最後に「勝利者」ということです。

マイナスの出来事に勝利した人は、永遠の命の木の実にあずかる、と黙示録は言っています。「勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう」

勝利しないままで永遠の命を手に入れたら、どうなってしまうでしょう? ロバート・ゼメキス監督の『永遠に美しく』という映画では、メリル・ストリープが演じるマデリーンという女性が、永遠の美を手に入れるために不老不死の薬を飲んで、死なない体になります。しかし、彼女の心は怒りと感情によって支配されていました。だから、女友達とののしりあい、喧嘩して、ついに銃で撃たれて、胸に大きな穴が開き、耳や鼻が欠けてしまいます。しかし、不老不死ですから死ぬことができません。仕方ないので、接着剤でつけて、ペンキをぬって、化粧して、ごまかします。こんな状態で生きていても全然幸せではありません。友だちのお葬式に出席したマデリーンは、自分が死ねない体になってしまったことを自ら呪いますが、お葬式で女友達と喧嘩になって、教会の階段から落ちて、からだがばらばらになってしまいます。それでも死ななくって、ののしり続けて、映画が終わります。

勝利しないままで永遠の命を手にしたら、こんなホラーコメディーみたいになってしまいます。今日、わたしたちはマイナスと思える出来事に直面します。そのとき、わたしたちは、怒り、どなり、わめき、悲しみ、失望し、絶望し、ふさぎこみますか? そうであるなら、わたしたちは勝利者ではありません。

今日、わたしたちはマイナスと思える出来事に直面し、このマイナスはイエスの十字架の愛につながっている、意味あることだ、と受け止めたら、どうでしょう? マイナスと思える出来事に直面しても、怒りにまかせたり悲しみに沈んだりせず、良心をとおして語られる聖霊の声、神の声にしたがって判断し行動したら、どうでしょう? その瞬間わたしたちは勝利者です。もう奴隷ではなく、主人です。もう支配されているのではなく、支配しているのです。もう地獄にいるのではなく、天国にいるのです。地上にいながらにして、すでに永遠の命を得るにふさわしいものとなっているのです。

最後にホセ・マリア・エクスリバー神父の言葉を紹介して、おわります。『「あの人には我慢できない」というな。「あの人は私を聖人にしてくれる」と考えよ』

衰退と成長を分ける愛

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聖句 マタイ16:15-19

夢を見ました。悪い夢でした。悪魔が出て来て、その部下である地獄の長官たちと会議をしていました。「教会を消滅させる方法」について、熱心に話し合っていました。その結果3つの方法が提案されました。クリスチャンを巧妙に誘惑して、3つの方法を行わせて、教会を衰退させ、消滅させてしまう計画です。

1 教会を消滅させる3つの方法

第1の方法は、祈らせないことです。

(1)祈祷会で祈らせないことです。わたしはすらすら立派な言葉で祈れない。祈祷会で祈るのは、だれそれさんに任せよう。祈るのは、だれそれさんの仕事だ。わたしは祈らなくてもいいや。そう思わせることです。みんなにそう思わせることです。やがて、教会から祈祷会が消滅してしまいます。
(2)家庭で祈らせないことです。テレビ、ブルーレイ、Wii、プレステ、iPhone、ネットのほうが面白いと思わせることです。家庭の祈りは、食前の祈りだけで、それもできるだけ短くさせることです。早口がいい。
(3)ひとりで祈らせないことです。朝は眠い、昼間は忙しい、夜は遅くまでいろいろやることがあるという理由で、ひとりで祈らせないことです。祈りは退屈だ、つまらない、効果がない、と思わせることです。自分が祈らなくても、だれか信仰深い人がかわりに祈っているだろう、と思わせることです。

こうしてクリスチャンがだれも祈らなくなります。すると、クリスチャンが祈らないから、教会は油の切れたランプのようになります。油がないので、やがて、火が消えてしまいます。クリスチャンが祈らないから、教会は、武器をもたない軍隊のようになります。みんな丸腰なので、戦いが始まって3分間で打ち負かされてしまいます。

第2の方法は、愛を冷やすことです。

(1)自分の目の中の丸太を忘れさせて、お互いに目のおがくずを取るようにさせることです。
(2)心を狭くさせ、忍耐力をなくさせ、お互いに口うるさく干渉するようにさせることです。
(3)表向きの顔と、裏向きの顔を持たせて、裏でいつでも陰口、悪口を叩き合うようにさせることです。

こうしてクリスチャンの交わりは、とっても居心地の悪いものとなります。特に、小さい子ども、未信者、初心者には特別に居心地の悪い場所となるように、念入りにつまずきの石を配置しておかなければなりません。玄関にも、廊下にも、第二ホールにも、台所にも、礼拝堂にも、つまずきの石を置いておきます。

第3の方法は、意欲を失わせることです。

(1)いままでいろいろやってきたが、どれもうまくいかなかった。だから、これからもきっとだめだろう、と信じ込ませることです。
(2)自分のような半端なクリスチャンは、何もできない。聖霊を受けていない、お祈りもできない、聖書も読めない、証しもできない、伝道なんて絶対できない。そう信じ込ませることです。
(3)夢、ビジョン、将来、可能性、希望、成長、リバイバルという言葉をクリスチャンの会話から消し去ることです。そのかわり、「昔は良かった」「昔はこうだった」「あっちの教会が良かった」「こっちの教会が良かった」「きっとだめだろう」「どうせまた失敗するだろう」という言葉を植え付けることです。

こうしてクリスチャンは夢を語らなくなり、ビジョンを抱かなくなり、将来を信じなくなり、可能性を排除するようになり、希望を捨てるようになり、成長ではなく縮むことを信じるようになり、リバイバルではなくサバイバルに目が行くようになり、こうして、地上から教会を消滅させることができるのです。

2 教会を成長させる3つの秘訣

ほんとうに恐ろしい悪夢ですね。しかし、わたしは悪夢から覚めました。悪夢を消し去るために、今度は教会が成長する3つの秘訣についてみることにしましょう。

イエス様は聖書の中で、なんとおっしゃっているでしょう。マタイ16:15-19をお読みします。
「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか』 シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる』」 
このみことばから、教会を成長させる3つの秘訣をみましょう。

第1の秘訣は、教会のかしらをみとめることです。


18節に注目しましょう。イエス様は「わたしが教会を建てる」と宣言しておられます。わたしたちの親方はだれですか? 教会の親方はだれですか? 50歳近い、白髪の出始めた、老眼の、いつも腰が痛いと言っている、説教のとき最低10回はかむ、たよりない牧師先生、神父様、小隊長が親方ですか。そうではありません。イエス様が親方です。イエス様が「わたしが教会を建てる」とおっしゃっているのです。ですから、わたしたちはイエス様に祈って、イエス様から夢を、ビジョンを、将来を、可能性を、希望を、成長を、リバイバルを与えていだだこうではありませんか!

第2の秘訣は、祈ることです。

18節でイエス様は、「陰府の力もこれに対抗できない」と宣言しておられます。地獄の力は教会に対抗できない、という宣言です。教会は地獄に打ち勝つのです。どのようにして打ち勝つのでしょう? 天国の力を祈りによって引き出すことによって、勝つのです。19節に「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」とあります。わたしたちが祈るとき、天国の力が引き出されます。それでもって、わたしたちは地獄に打ち勝つのです。わたしたちは教会で祈り、家庭で祈り、ひとりで祈り、いつでも祈らなければなりません。

マタイ17:20でイエス様は言われます。「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」
マタイ18:18-20で言われます。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」

このように、祈り求めれば与えられると約束されています。神様、もっと新しい人を与えてください、もっと集会出席者を増やしてください、もっと広い建物を与えてください。もっと、もっと、祈れば与えられる、というのです。でも、その一方でみことばは、こうも言います。「山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(コリント一13:2) 

そこで、わたしたちが第3に必要なのは、愛です。


熱心に祈り合い、熱心に語り合い、夢、ビジョン、将来、可能性、希望、成長、リバイバルを熱く求めても、いぜんとして、お互いに目のおがくずを取ろうとし、口うるさく干渉し、陰口をたたきあっていたら、どうでしょう? 玄関につまずきの石が置いてあるままだったら、前は3人入って来て3人つまずいていたのが、こんどは100人入って来て100人つまずくだけです。つまずきの石を取り除かなければなりません。

コリント一14:1に「愛を追い求めなさい」と言われています。イエス様は、お命じになりました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15:12)
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13:34)

イエス様は、わたしたちを愛するために、神様であるのに、わたしたちと同じ人間のすがたになってくださいました。どこまでも相手に合せる。それがイエス様の愛のすがたです。
イギリスの救世軍士官ジャック・ストーカー少佐は、サンダーランドの小隊長に着任して3か月の間に、多くの酔っ払いが回心したために、町にあった13の飲み屋が閉店したそうです。新会館の定礎式に3000人が出席し、そのために町の造船所や工場は従業員に休暇を与えなければなりませんでした。少佐は、町で犬を飼っている人をみると、「ずいぶん立派な犬を飼っているね? 逃げ出さないかい?」と話しかけて、ずっと犬の話ばかりして、「こんなところじゃなんだから」と言って、お酒を出さない店に連れて行って、ジンジャエールをおごって、相手の犬自慢の話をひたすら聞いて、聖書の話はひとこともしませんでした。こうして友だちになった人が、聖書の話を聴くために、犬を連れてたくさん小隊に来るようになりました。わたしたちは聖別会を犬と一緒にやる覚悟があるだろうか? そんな愛があるだろうか?

少佐は、小鳥好きの人の家に行くと、鳥籠をのぞきこんで、感動して、「いやあ、なんて立派な小鳥だろう。こりゃ自慢したくなるわけだ!」と叫んで、すぐ帰ったそうです。そのあと2回、3回、4回、5回と訪ねるたびに、ひたすら鳥の話ばかりして、お祈りもせず、聖書も読まず、信仰の話もしないで、6回目に、いつものように鳥の話をしたあと、ようやく救いの証しをして、その場で相手を信仰に導きました。その人は救世軍の下士官になりました。わたしたちは、人を救うために鳥好きになれるだろうか? そんな愛があるだろうか?

秘訣は、愛です。イエス様は、わたしたちを救うために、神様であるのにわたしたちと同じ人間のすがたとなってくださった。ここに愛があります。イエス様の愛で救われたわたしたちは、この愛を伝えるために、イエス様がしたように、相手に合せて伝道したいものです。最後にコリント一9:19-23を、現代の状況に引き合わせてお読みして、結びとします。

「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷となりました。できるだけ多くの人を得るためです。この街の市民に対しては、この街の市民のようになりました。この街の市民を得るためです。この国の習慣に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、この国の習慣に支配されている人のようになりました。この国の習慣に支配されている人を得るためです。また、わたしはこの国の習慣を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、この国の習慣を持たない人に対しては、この国の習慣を持たない人のようになりました。この国の習慣を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してはすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。アーメン」

むすびのことば

わたしたちはきょう、教会のかしら、教会の親方がイエスキリストご自身であることを認めて、このイエス様に祈って、イエス様から夢を、ビジョンを、将来を、可能性を、希望を、成長を、リバイバルを与えていただきましょう。そのために、わたしたちは教会で祈り、家庭でも祈り、ひとりでも祈り、いつでも祈りましょう。そして、愛が大切です。イエス様が愛してくださったように、わたしたちも相手に合せて、愛を伝えましょう。そうするならば、わたしたちは地獄の力に打ち勝ち、教会はけっしてなくなりません! ハレルヤ!

受難節の黙想

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「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた」(ルカ23:26)

「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(コロサイ1:24)

「わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています」(コロサイ1:29)

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)


1 この受難節のとき、わたしたちは主イエスキリストの十字架について黙想いたします。

2 とくに、主イエスが十字架を担って進まれた「悲しみの道」(ヴィア・ドロローサ)について黙想いたします。

3 ピラトのもとで死刑の判決を受けられた主は、鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、はずかしめを受け、十字架を背負わされ、カルバリへの道を、よろめきつつ進まれました。

4 全人類の過去・現在・未来の一切の罪を、いったいだれが身代わりに背負うことができるでしょう? わたしたちの主イエスキリストをほかにしては、だれもありません。

5 主は、父なる神と同一本質であって、その神性において父なる神とひとつであられます。同時に、主は、母マリアの本質から取られた血と肉において、全人類とわかちがたくひとつにむすびあっておられます。まことに主の人性は、全人類と同一本質であるがゆえに、全人類と主イエスとはひとつなのです。

6 この、まことに神にして・まことに人である・主イエスのみが、全人類の罪の責めを負って身代わりに死ぬ、ということがおできになるのです。

7 ところで、全人類の罪を背負うことのできる主イエスは、しかし、木の十字架を最後までご自分で運ぶことができませんでした。

8 ピラトの法廷で木の十字架を背負わされた主は、「悲しみの道」を、よろめきつつ、十字架を運ばれました。しかし、途中でお倒れになり、ご自分で最後まで十字架を運ぶことができませんでした。

9 それで、そこを通りかかったキレネ人のシモンが呼び止められ、彼は自分の意に反して、木の十字架を背負わされ、運ばされました。

10 霊的には、全人類の過去・現在・未来の一切の罪を、主イエスが身代わりに背負われるのです。

11 しかし、物理的には、木の十字架を、主イエスはご自分でカルバリまで運ぶことができませんでした。こうして、ここに、キリストの苦しみの「不足分」が発生することになります。

12 まことの人であるお方として、キリストは、その木の十字架を、カルバリまで運ぶべきでありました。運ぶことによって、人であるキリストは、それが与える分量の苦しみを、受けるべきでありました。

13 ですが、人であることの弱さのゆえに、キリストは、その木の十字架を運ぶことができなくなり、それゆえ、その分量の苦しみをご自分では受けることができなくなり、こうして、キレネ人のシモンが代わりに「不足分」を受けたのです。

14 さて、この「不足分」は、キレネ人のシモンによって、すべて充足されたのでしょうか?

15 主イエスは、この「不足分」を、あたかも聖餐式のパンのようにして、それを、キリストの弟子であるわたしたちに、分配してくださるのではありませんか?

16 わたしたちもまた、キリストの苦しみの「不足分」を、自分の身に受け取り、自分の身に担うことができるのではありませんか?

17 ここに、わたしたちキリスト者の「十字架の召し」があるのではありませんか? まさに聖パウロが言うように、キリストの苦しみの欠けたところを、わたしたちが自分の身をもって満たすことができるのではありませんか?

18 キレネ人のシモンは、自分の意に反して、木の十字架を無理やり負わされました。彼は、それを拒むことができませんでした。運んでいるあいだ、彼は、十字架の意味を理解することができませんでした。いやいや、不承不承で、運ばされました。カルバリまで運び終えて、十字架を地面におろしても、まだ彼は、その意味を理解できませんでした。目の前で主イエスが釘づけられ、十字架が高々とカルバリにかかげられたのを見ても、彼はなお、その意味を理解できませんでした。

19 しかし、復活の主イエスに出会った日に、キレネ人のシモンは、はじめて、自分が担った十字架の意味を悟ったのです。

20 わたしたちの場合も同様ではありませんか? わたしたちは、キリストの苦しみの「不足分」であるところの「わたしの十字架」を、与えられます。自分の意に反して、与えられます。ある日、突然、与えられます。その十字架を背負わされたとき、わたしたちには意味が理解できません。苦しみながらそれを運んでいるあいだも、わたしたちは意味が理解できません。運び終えて、十字架を肩からおろして、安堵の息をついても、なお、わたしたちは意味が理解できません。

21 しかし、わたしたちが復活の主イエスに出会うとき、わたしたちははじめて、自分が担ってきた「わたしの十字架」が、実に「主イエスの十字架」であったことを悟るのではありませんか?

22 そして同時に、わたしたちは次のことをも悟るのではありませんか? 「主イエスの十字架」を、わたしが「わたしの十字架」として担い、運ぶことができたのは、わたしがそれをしたからだろうか?

23 いや、そうではない。「わたしの十字架」であり「主の十字架」であるそれを、わたしにおいて担い、わたしにおいて運びたもうたのは、主だ! 主イエスご自身だ!ということを悟るのです。聖パウロが言うように、確かに、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって、わたしはそれを運んでいた、ということに気付くのです。

24 母マリアの本質からイエスがお取りになった血と肉において、わたしたちはイエスのペルソナの内にわかちがたくひとつにむすばれています。ゆえに、わたしが主のためにしたことは、主がわたしにあってしてくださったこと。主がわたしにあってしてくださったことは、わたしが主のためにしたこと。わたしたちと主イエスとは、同一本質であるからです。

25 さて、キリストの苦しみの「不足分」は、全能の神の証しとして、この世界に存在しているのではないでしょうか?

26 神は全能でありますが、神への反対者たちは、次のような疑問を投げかけます。「神は、なんでもできると言う。しかし、神は自分が運べない石を創造することができない。ゆえに、神は全能ではない。よって、神は存在しない」

27 しかし、まことの神である主イエスは、人としておいでになって、あの十字架を運ぶこができず、よろめき、倒れられました。そして、あの「不足分」が発生しました。あの「不足分」を満たすために、キレネ人のシモンが召されました。あの「不足分」を満たすために、わたしたちが召されました。そして、主イエスは、わたしたちにおいて働いておられます。主イエスは、わたしたちをとおして、「わたしの十字架」であり「主の十字架」である「不足分」を、今日も担っておられるのです。

28 ゆえに、「わたしの十字架」こそが、この世界における全能の神の証しなのだ、と言うことができるのではありませんか?

29 主イエスご自身、こう言われます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)

マタイ受難曲 第1曲

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カール・リヒターによる1971年の上演。

第1曲 合唱

来たれ娘たちよ、ともに嘆け。
見よ-誰を?-花婿を、
彼を見よ-どのような?-子羊のような!
見よ-何を?-彼の忍耐を、
見よ-どこを?-私たちの罪を
愛と慈しみゆえにみずから
木の十字架を背負われるあのお姿を見よ!

コラール(児童合唱)

おお、罪なき神の子羊よ
犠牲として、十字架に架けられた御方よ、
たとえ侮辱されようとも、
いつでも耐え忍ばれた。
すべての罪をあなたはお負いになった。
さもなければ私たちの望みは絶えていただろう。
私たちを憐れんでください、おおイエスよ!

歌詞対訳出典

日々の良心の糾明

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「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。御覧ください、わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしをとこしえの道に導いてください」(詩編139:23-24)

(1)わたしは忠実に日曜日の礼拝に出席して、心から神様を礼拝していただろうか?

(2)わたしは神様のお名前を軽々しく唱えたりすることがなかっただろうか?

(3)わたしは毎日心を神様に向けて、お祈りして、いつでも祝福を求めていただろうか?

(4)わたしは毎日聖書を読み、神様の御心を尋ね求め、神様の御心に従おうと努力を払っていただろうか?

(5)わたしは日々の生活の小さなことの中にも神様の愛とおめぐみを見出すようにして、ふさわしい感謝と賛美をささげていただろうか?

(6)わたしは自分に必要なものはなんでも与えられると信じて、神様に率直に祈り求めていただろうか?

(7)わたしは嘘をついたり、うわさばなしをしたり、ひとの陰口をたたいたりしていなかっただろうか?

(8)わたしはひとを裁いて、心に恨み深く思ったりしていなかっただろうか?

(9)わたしは身近な人を、しかりつけたり怒鳴りつけたりして、みじめな気持にさせていなかっただろうか?

(10)わたしの間違った振る舞いを見て影響されたひとが、それをそのまま真似るようなことがなかっただろうか?

(11)わたしはひとのものを盗まなかっただろうか?

(12)わたしは年上のひとに対してふさわしい尊敬の念を示していただろうか?

(13)わたしはひとや自分の家族が困っているときに、すぐに気付いて助けてあげることができただろうか?

(14)わたしは結婚生活から外れた間違った性的な振る舞いをしなかっただろうか?

(15)わたしは異性に対して、いつも尊敬の念をもって言葉を話し、尊敬の念をもって振る舞っていただろうか?

(16)わたしは自分の信仰をひとに対して積極的に証ししていただろうか?

(17)わたしは自分の命と健康を大切にし、ほかのひと、特に自分の家族の命と健康を大切にしていただろうか?

(18)わたしは自分の果たすべき務めを、なまけないできちんと果たしていただろうか?

(19)わたしは自分がするすべてのことを、利己心からではなく、神の愛に
に動機づけられた思いで行っていただろうか?

(20)わたしはアルコールや薬物を濫用したりしなかっただろうか?

(21)わたしは自分に与えられた能力や才能を無駄にしていなかっただろうか?

(22)わたしは自分の心と思いから悪いものを遠ざけ、いつも良いもので心と思いを満たしていただろうか?

(23)わたしは感情や気分に支配されないで、感情や気分をきちんとコントロールしようとしていただろうか?

(24)わたしは自分の時間とお金を無駄なことに用いていなかっただろうか?

(25)わたしはみだらなものを見たり、行ったり、空想にふけったりしていなかっただろうか?

(26)わたしが見たテレビや映画や雑誌は、悪いものではなかっただろうか?

(27)わたしは自分の生活や家族や地域社会に影響をもたらすような大事な出来事や、政治・文化・経済の動きに対していつでも関心を持って、ふさわしい理解を持てるように努力を払っていただろうか? 

黙示録21:18

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都の城壁は碧玉で築かれ、都は透き通ったガラスのような純金であった。

新しいエルサレムは、過去・現在・未来の贖われたすべての者が共に住む場所です。

贖われた者らは、新しい天と新しい地のそこかしこに船出して行って、離散して住むのではありません。

ひとつところに住むのです。その理由は、ひとつところで交わりをするためです。

21世紀のキリスト者が2世紀の殉教者と、キリストの十字架について語り合う光景。

14世紀の神学者が7世紀の修道女と、キリストの復活について語り合う光景。

時代と場所と人種と階級と性別と言語と年齢を超えた交わりが、新しいエルサレムで生起します。

その都は、ガラスのように透き通っているので、かくされているものは何ひとつありません。

わたしたちは、そこで、いっさいのことを、つつみかくさず、すべてわかちあうのです。キリストの愛のうちに。


イエス様を信じて生きる

黙示録21:17

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また、城壁を測ると、百四十四ぺキスであった。これは人間の物差しによって測ったもので、天使が用いたのもこれである。

新しいエルサレムの城壁は高さが144ぺキスとされます。

1ぺキスは1アンマと同じ約45センチで、144ぺキスの城壁は約65メートルの高さになります。

聖書の神聖数字144は、12と12をかけあわせたものです。

12という数字は、3と4をかけあわせたもので、3は三位一体の神を、4は被造物をあらわす、とされます。すなわち、父と子と聖霊の3、東西南北の4、四次元世界の4、神の御前にいる四つの生き物ケルビムの4などです。

3と4をかけあわせて12というのは、神と被造物が完全な和解に入る、ということを象徴的にあらわします。

さらに、12と12をかけあわせた144は、神と被造物が絶対的で最終的で完全な和解に至ることをあらわします。

都の城壁の高さが144ペキスであるのは、神と被造物との和解が、もはや永遠に破られないことを示します。

この和解をもたらしたのは、主イエスキリストの十字架の血潮です。


イエス様を信じて生きる

マタイ受難曲 第54曲

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カール・リヒターによる1971年の上演。

第54曲 コラール

おお、血と傷にまみれた御頭、
苦痛と、嘲笑に満ちた御頭よ、
おお、嘲笑され
いばらの冠をかぶせられた御頭よ。
おお、御頭よ、いつもなら立派に
最高の栄誉で飾られていたのに、
今やひどく辱められている。
私の心からの挨拶を受け入れてください。

気高き御頭よ、
いつもなら世の権威も
恐れ避けるものを、
あなたはかくも唾をかけられ、
なんと青ざめておられることか!
あなたの眼の輝きは、
いかなる光とも比べることができないのに、
だれが恥ずかしげもなく傷つけたのですか?

歌詞対訳出典

わたしの居場所はどこに?

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聖句 ルカ1:39-56

「ここがわたしの居場所だ」と思えるものを持っている人は、なんと幸いでしょう。晴れの日も、雨の日も、喜びの日も、涙の日も、ここに帰れば、いつもわたしの居場所がある。そう思える人は、なんと幸いでしょう。新世紀エヴァンゲリオンというテレビアニメが大変な人気を博しましたが、その最終回では、いろいろあったあげく、主人公の碇シンジという中学生がこう叫ぶのです。「ぼくはここにいていいんだ!」 その瞬間から主人公は、ほんとうに生き始めるのです。ここが自分の居場所だ、そう思えた瞬間に新しい世界が始まるのです。

教会は、みんなにとって「ここがわたしの居場所だ」と思える、そういう場所であってほしいですよね。教会には、あたらしい人がたずねてきます。あたらしい人は教会で、はじめてのことをいろいろ経験します。礼拝で立ったり座ったりする。「げに」とか「だに」とか平安時代みたいな言葉の讃美歌を歌わせられる。「主の祈り」というかけ声とともに、少しも乱れずみんなが文語のお祈りを始めて、あっけにとられているうちにアーメンになる。電話帳みたいに恐ろしくぶあつい聖書をみんな自由自在にあやつって、ぱっと目当てのページを開くので、胆をつぶす。「あがない」とか「あぶらそそぎ」とか「いさおし」とか「義とされる」とか、わからない言葉が出て来る説教をみんな忍耐深く聞いている。あれ、なんか、居眠りしているひともいるみたいだ・・・

教会は、よくわからないことばかりですね。あたらしい人は、なかなか教会にむすびつきません。残念なことです。でも、わたしたちは知っているんです。たいせつなのは、そんなところじゃない。「げに」とか「だに」とか、立ったり座ったりとか、文語調のお祈りとか、長い説教とか、それがたいせつなんじゃない。イエスさまだ。イエスさまに出会ってほしいんだ。目に見えないけれど、イエスさまがここにおられて、イエスさまは「わたしはあなたのために十字架にかかって、よみがえって、命を与えるために、ここにいるよ」と、あなたを待っておられる。イエスさまに出会うことが、たいせつなんだ。わたしたちは、それを知っているんです。

でも、イエスさまとの心と心の出会いは、教会に足を運んでも、そう簡単に起こるものではない、ということも、わたしたちは知っていますね。そりゃ、自分たちだって昔はそうだったんだから。ところで、考えてみてください。もし、教会に来たあたらしい人が、「ここはわたしの居場所だ」「わたしはここにいてもいいんだ」と、心からそう思えたら、どうでしょう? 教会には、あたらしい人が来つづけるんじゃないでしょうか?

今日お読みした聖書は、マリアがエリサベトのもとをたずねた、という箇所です。マリアは当時、十代の少女でした。そうであるのに、赤ちゃんイエスさまをみごもったことを、天使から告げられたのです。まだ結婚していない十代の少女が、妊娠し、出産する。それは、からだの面でも、こころの面でも、社会的な面でも、とほうもない悩み、苦しみをもたらすことでした。マリアは心細く、不安だったことでしょう。わたしたちの想像を超えていますね。

でも、マリアには、行くところがあったんですよ。それが、エリサベトのところでした。エリサベトはマリアの親戚で、年をとった女性でしたが、エリサベトもまた神様の奇跡的な力によって赤ちゃんをみごもっていました。洗礼者ヨハネとなる赤ちゃんをみごもっていたのです。マリアとエリサベトは似た境遇にありました。だから、お互いがお互いを理解できたんです。理解できるから、心をかよわせて、話をすることができたんです。心がかようから、自分をさらけだして、お互いにそれを受け止め合うことができたんです。それは、ふたりにとって、ものすごい喜びでした。聖書はこう言っています。「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った、『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています』」「マリアは言った。『わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます』」

マリアとエリサベトは、お互いがお互いの「居場所」である、そういう関係でした。そこに、よろこびがありました。マリアとエリサベトは、お互いを受け止め合うことができました。マリアは三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、家に帰りました。マリアは、エリサベトから勇気と励ましをもらったので、赤ちゃんイエスさまを産むための気持ちを整えることができました。

ここには、教会のまじわりの姿が示されているのではないでしょうか? 教会の中に「わたしの居場所」があるっていうのは、講壇の前から2番目のベンチの右端から4番目がわたしの座席だ、っていうことではないですよね? 教会に行くと、だれそれさんに会える。別に何か言うわけでもないんだけれど、だれそれさんがわたしのことを受け止めてくれる。そういう関係があるっていうことが「居場所」ではないでしょうか?

もちろん、わたしたちにとって究極の居場所は、イエスさまです。イエスさまとわたしたちとの関係。これが究極の居場所です。イエスさまは、わたしのことをすべて知っていてくださる。イエスさまは、わたしの罪を全部十字架で負って、ゆるしてくださった。イエスさまは、いつもそばにいてくださる。イエスさまは、わたしに永遠の命を与えてくださる。イエスさまとの関係は、永遠に続きます。イエスさまこそ、わたしたちにとって究極の居場所です。でも、それだけでいいんだったら、わたしたちは教会に来る必要がないかもしれませんね? パウロがアラビアの砂漠で14年間そうしたように、ひとりで洞窟に入って、ひとりでイエスさまと一緒にいればいいことになってしまう。でも、パウロは洞窟から出て来て、アンティオキアの教会に行って、そこで兄弟姉妹に仕えました。そこから、キリスト教会が世界に広がって行ったんです。

こう考えてみたらどうでしょう? わたしは、だれかのエリサベトになっているだろうか? わたしは、だれかのマリアになっているだろうか? お互いがお互いに対して「居場所」になっている関係。マリアとエリサベトの関係になるには、やはり、声をかけることからはじめましょう。イエスさまは、出会ったひとに声をおかけになりました。「あなたは何がしてほしいですか」とお尋ねになりました。そして、相手の求めに応えました。わたしたちも、イエスさまにならって、声をかけることをしていきたいですね。

イエスさまはまた、「飢えている人に食べさせ、渇いている人に飲ませ、裸の人に着せ、牢にいる人を訪ねなさい」とおっしゃいました。ひとりひとりのひとが、それぞれ違った求めをもっている、ということですよね。飢えている人に着せたら、どうでしょう? 裸の人に飲ませたら、どうでしょう? 渇いている人に食べさせたら、どうでしょう? なんだかちぐはぐで、「ああ、自分の求めが応えてもらえた」という気持ちは生まれないでしょう。ですから、わたしたちは、ひとりひとりの必要を見て、応えていく必要がありますね。

教会成長の権威であるピーター・ワグナー博士は、ひとりの牧師がひとりのひとの求めに応じられる限度は20人、どんなに多くても30人が限界だ、と言いました。日本の教会の多くは、30人ぐらいの礼拝出席の教会が90パーセントを占めているそうです。わたしにとっての居場所は、牧師先生だ、神父さまだ、そう思っているクリスチャンが多い、ということでしょう。セロテープ・テストというのをご存じですか? 教会でセロテープが見当たらないとき、あなたは、だれに聞きに行きますか? 「小隊長、セロテープどこですか?」 あなたが聞きに行ったひとが、教会におけるあなたの「居場所」となっているひとですよ。

もし、教会につどっているクリスチャンひとりひとりが、だれかの「居場所」になることができたら、どうでしょう? マリアにとってのエリサベト、エリサベトにとってのマリアになることができたら、どうでしょう? みなさんひとりひとりが、あたらしい5人のひとの「居場所」になることができたら、どうでしょう? きょうここに25人が出席しています。ひとりひとりが、あたらしい5人のひとの「居場所」になることができたら、125人ものひとが、「来週も教会に行こう。教会には、わたしの居場所があるから。だから、どんなことがあっても、来週も教会に行こう」と思えるようになるのではないでしょうか。どうか、神様がわたしたしたちをそのように導いてくださるように、お祈りいたしましょう。

裏切ってもなお

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聖句 マルコ14:27-31

イエス様の十字架の苦しみをおぼえる受難節の季節が近づいて来ました。

イエス様は、ご自分が十字架にかかる時が近いことを知り、弟子たちに、覚悟を決めるようにと、いろいろな言葉をもって、さとされました。それは、このような教えでした。

「わたしについて来たいと思う人は、自分を捨て、自分の十字架をしょって、わたしについて来なさい」

「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」

「自分の命を救おうとする者は、それを失い、自分の命を捨てようとする者は、かえって命を得る」

「人々の前でわたしを知らないと否むなら、わたしの父もまた、世の終りの裁きの時に、あなたのことを知らないと言うであろう」

なんと厳しいイエス様の教えでしょう。それは、まるで、弟子たちに何かを挑むような、イエス様の真剣なまなざしを、思わさせます。

このようなイエス様からの挑戦を受けて、弟子の中で一番自信と力にあふれて、たのもしい言葉を返したのが、ペトロでした。

ペトロは、こう宣言しました。「イエス様、たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」

ほかのところで、ペトロはこうも言っています。「イエス様、たとえどこであろうと、わたしは最後まであなたについて行きます。」

ペトロは自分に自信があったのでしょう。ペトロは、自分の強い信仰、なにごとにもイエス様を第一とし、イエス様のために本当に命を捨てる覚悟を決めている自分の信仰に、ものすごい自信があったのです。

ほかの弟子たちは、ペトロのそのような自信に満ちた姿を見て、すごいなあ、立派だなあ、さすがペトロだなあ、わたしたちには、あそこまで覚悟を決めることができない、ペトロの信仰は本物だなあ、と、恐れ入っていたかもしれません。

ペトロの自信に満ちた信仰こそが、本物の信仰だとしたら、わたしたちも、ペトロに見習って、揺らぐことのない自信や、勇気や、確信や、大胆さや、いつでも命を捨てる覚悟、そういったものを身につけて行く必要があるかもしれません。

しかし、自信に満ちた、揺らぎない確信に満ちたペトロの信仰が、実は、ペトロを救うことが出来ず、いざというときに役にすら立たない、ということを、イエス様のするどい目は、すでに見抜いておられたのです。

イエス様は、そのことを見抜いて、はっきりこうおっしゃいました。

「はっきり言っておくが、あなたは、今日、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」

まさか、そんな、一番自信に満ちた、一番強い信仰を持っている、一番大胆なペトロが、まさかイエス様を裏切るなんて、そんなことが、あるわけがない、と、弟子たちはみんな思ったことでしょう。

なによりも、そんなことをイエス様に言われて一番心外に思ったのは、ペトロ自身でした。

ですから、ペトロはすぐにこう反論しました。

「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは申しません。」

たしかに、そうであったでしょう。ペトロは、本当に、イエス様のために命を捨てる覚悟が出来ていたことでしょう。そうして、ペトロは、実際に命を捨てることが出来たでしょう。ペトロには、それだけの強い信仰がありました。

しかし、その強さは、「神の恵み」から静かにあふれ流れ出てくる強さではありませんでした。それは、むしろ、ペトロ自身が生まれながらに持っていた、性格的な強さでした。

イエス様はすべてご存知でした。人間の強さは、人間を救うことが出来ない、ということを。ペトロ自身の強さは、ペトロを救うことが出来ない、ということを。ペトロが強ければ強いほど、そうして、ペトロが自分の強さというものを誇りに思い、それを頼りにし、それを確信していればいるほど、一番大事なときに、その強さが、ペトロ自身を裏切ることになるのだ、ということを、イエス様は、静かに見抜いておられたのです。

わたしたちがみな知っているように、イエス様が捕らえられた晩、ペトロは、三度、イエス様のことを知らない、と言って、イエス様を裏切ってしまいました。

ペトロは、自分の強さを信じていました。その強さ、ペトロ自身の強さが、その夜、ペトロを裏切ったのでした。ペトロがイエス様を裏切ったのではありません。ペトロはそのようなことをまさか自分がするとは思っていなかったのです。むしろ、ペトロ自身の強さが、ペトロ自身を、三度、裏切ったのです。

わたしたちは、信仰とはなんであろうかと、たびたび、自分自身に問いかけます。それは、最後まで疑わずに信じ抜く、心の強さなのであろうか。それが、信仰なのであろうか。暗闇の経験の中で、少しも揺らぐことのない、心の強さ、それが、本物の信仰なのであろうか。イエス様のために、命を捨てる覚悟が出来ており、また、いつでもそれが実行できるほどの心の強さ、それが、本物の信仰なのであろうか。

そのような、強さが、信仰であるとしたら、それはまさに、ペトロ的な強さであろうと思います。そのような強さを、わたしたちも持つことが出来るでしょうか。出来るかもしれません。わたしたちも、ペトロのように強い人となり、自分にゆるぎない自信と確信を持てるようになれるかも知れません。

しかし、わたしたちは、ひとつの事実を知っています。あの受難日の夜、まさにそのペトロの強さが、ペトロ自身を裏切ったのです。そうであるならば、わたしたちもまた、いつの日にか、自分自身の強さに裏切られる経験を、必ずするに違いありません。

イエス様は言われました。

「わたしについて来たいと思う人は、自分を捨て、自分の十字架をしょって、わたしについて来なさい」

しかし、その夜、ペトロは、自分を捨てることが出来ませんでした。ペトロは自分の十字架をしょうことが出来ませんでした。ペトロは、イエス様について行くことが出来ませんでした。

イエス様は言われました。

「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」

しかし、その夜、ペトロは、鋤に手をかけて、そうして、後ろを振り返り、自らを神の国にふさわしくない者としたのでした。

イエス様は言われました。

「自分の命を救おうとする者は、それを失い、自分の命を捨てようとする者は、かえって命を得る」

しかし、その夜、ペトロは、三度も「イエスなど知らない」と言って、自分の命を守り、自分の命を救おうとしたのでした。ペトロは、自分の命を救おうとしたことにより、かえって、霊的な命、永遠の命を失ってしまいました。

イエス様は言われました。

「人々の前でわたしを知らないと否むなら、わたしの父もまた、世の終りの裁きの時に、あなたのことを知らないと言うであろう」

しかし、その夜、ペトロは大勢の人々の前で、「イエスなど知らない」「イエスなど知らない」「イエスなど知らない」と、三度もイエス様を否んでしまったのでした。こうして、ペトロは、世の終りの裁きの日に、父なる神様から「わたしはあなたのことなど知らない」と言われる他はない、裏切り者となってしまったのでした。

自分自身の強さを信じていたペトロは、その夜、自分自身の強さを徹底的に砕かれてしまいました。そうして、イエス様の教えに照らしたときに、ペトロは、「神の国にふさわしくない者。永遠の命を得られない者。父なる神様から、知らない、と言われてしまう者。裏切り者」となってしまったのです。ペトロは、「救われない者」となってしまったのです。

自分自身の強さに三度裏切られたペトロ。

ペトロは、出て行って激しく泣きました。いったいペトロは、イエス様のために泣いたのでしょうか。そうではなかったかもしれません。ペトロは、自分自身のことを泣いたのかもしれません。信じていた自分に自分を裏切られた衝撃と絶望のために、ペトロは自分自身がまるで死んだように感じて、自分自身を葬るために、泣いたのかもしれません。

こうして、ペトロの強さは粉々に砕かれてしまいました。ペトロは「救われない者」「裏切り者」「神にふさわしくない者」「神の国に入れない者」となってしまいました。

このようにして、ペトロは、「イエス様の恵みの世界」に足を踏み入れることが出来たのでした。ペトロを待っていたのは、「恵みの世界」でした。

恵みの世界。それは、人間の強さが尽き果てるところから、はじまります。

恵みの世界。それは、わたしたちが、自分に裏切られたところから、はじまります。

恵みの世界。それは、わたしたちが、「救われない者」であることを、自覚したところから、はじまります。

ガリラヤの湖のほとりで、復活したイエス様はペトロに会われました。

イエス様は、ペトロに言われました。

「ペトロよ、あなたはわたしを愛するか」 

ペトロは、もう自分を信じることが出来ませんでした。ペトロは、自分がイエス様を裏切った者であることを知っていました。ですから、ペトロはもう、自分を頼りにすることは出来ませんでした。ペトロはただ、イエス様の、深く、やさしい、愛のまなざしに、すべてをゆだねて、イエス様の恵みにすべてをゆだねて、こう言うほかありませんでした。

「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」

こうして、イエス様はペトロの裏切りの罪を赦してくださいました。

イエス様は、さらにペトロに言われました。

「ペトロよ、あなたはわたしを愛するか」 

ペトロは、自分が「救われない者」、「神の国にふさわしくない者」「永遠の命を得られない者」「父なる神から知らないと言われるほかない者」であることを、いやというほど、思い知らされていました。ですからペトロは、イエス様の、愛のまなざしにすべてをゆだねて、こう言うほかありませんでした。

「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」

こうして、イエス様はペトロの裏切りの罪を、二度、赦してくださいました。


さらに、イエス様はペトロに言われました。

「ペトロよ、あなたはわたしを愛するか」 

ペトロは、心を痛めました。ペトロは、以前のように自分を信じることは出来なくなっていました。自分の強さを頼みとして生きていくことは、もうペトロには出来なくなっていました。ペトロにとって、自分の強さはすでに終ってしまっていました。ですから、ペトロは、イエス様の愛と、イエス様の恵みに、すべてをおまかせしてこう言うほか、ありませんでした。

「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」

こうして、イエス様はペトロの裏切りの罪を、三度、赦してくださいました。

自分自身の強さが終らされて、自分の手の中にもはや頼みに出来るものがなにひとつなくなってしまったときに、ペトロは自分が、恵みの世界に生きているのを見出しました。からっぽになったペトロの手は、あたたかいイエス様の赦しの愛で満たされていました。もうペトロは、自分の強さや、自分の弱さや、自分の長所や、自分の短所や、自分自身のことからは、解き放たれてしまっていました。ペトロにとって、強いペトロはもう終っていました。そして、その終った場所に、ペトロを全身全霊で受け止めてくださるイエス様の愛が待っていたのでした。

こうして、ペトロは、ガリラヤの湖のほとりで、イエス様との本当の出会いを体験したのです。

これ以降、ペトロは「恵みの世界」に生きる者に変えられました。

恵みの世界。それは、「救われるに価しない者」が、イエス様の愛によって救われる世界です。

恵みの世界。それは、「神の国にふさわしくない者」が、イエス様の愛によって神の国に入れられる世界です。

恵みの世界。それは、「永遠の命を失った者」が、イエス様の愛によって永遠の命を受ける世界です。

恵みの世界。それは、裏切り者、放蕩息子、神に背を向けていた者が、父なる神様によって抱きしめられ、神の子どもとして、ふところに迎え入れられる世界です。

ペトロは自分が強かった時は、まさか、このような恵みの世界が存在するとは、想像することすら出来なかったでしょう。

イエス様は、ペトロを強いペトロから救い出し、恵みの世界に引き入れるために、十字架にかかり、復活し、ガリラヤの湖のほとりで、ペトロと出会ってくださいました。

その同じ復活のイエス様が、今日、わたしたちとも出会ってくださいます。わたしたちもペトロのように、イエス様との本当の出会いを体験することが出来ます。恵みの世界は、今日、わたしたちの目の前で、扉を開いて、わたしたちを待っています。わたしたちは、恵みの世界に、今日、一歩足を踏み入れさえすればよいのです。

自分自身を信じることをやめましょう。ペトロがそうであったように、自分の強さは自分を救うことはできず、自分の強さは自分を裏切ります。

むしろ、どうすることもできない弱さ、たよりなさ、無力感の中で、自分をすべてイエス様の愛におゆだねしましょう。

裏切り者のペトロをイエス様は無条件に受け入れて下ったように、今日もイエス様は、わたしたちを愛して、受け入れてくださいます。恵みによって、受け入れてくださいます。

ただ心を開いて、イエス様に自分をゆだねしましょう。その瞬間、イエス様がわたしたちと出会ってくださいます。わたしたちは、恵みの世界に生き始めています。そうして、わたしたちもペトロのように、新しい人に生まれ変わっているのです。

(2003年3月1日初出)

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木を切り倒すと不幸になる、なんて、土地の古老がよく言うじゃありませんか。あれって、ぼく、ほんとうなのかもしれないなあ、って、思うんですよ。え? 迷信深いって? そうなのかなあ。ほら、古木を切って、怪我したとか、病気になったとか、仕事が急につまづいたとか。いや、ね、別に、統計なんか取ったわけじゃないですよ。木を切ったひとみんなに、そんな、なにか、説明不能な災いが、いつも必ず起きるって、統計論的に明らかだとか、そういうことを言ってるんじゃないんですよ。

それはねえ、ぼくのおじいちゃんが、むかーし、不思議な話をしてくれたからなのかもしれない。きっとそのせいなんだなあ。今もって、木を切るのに反対なのは。

実家の庭には、木が何本か生えていましてねえ。柿の木とか、松の木とか、椿の木ね。金木犀とか、ツツジもあったのかなあ。とにかくなんだか、いろいろ、鬱蒼と生えていたんですよ。兄弟従弟みんなでグルになって、ジャングル探検隊ごっこが出来るぐらいだったからねえ。ええ、もちろん、夏なんか、藪蚊がすごかったですけどねえ。

でね、おじいちゃんは、絶対に、木を切らせようとしなかったの。うん。うちのおやじなんか、気が短いほうだからね。なんでもすぐ、切る切るって言うんだ。あるときなんか、のこぎりで、おやじが勝手に梅の枝を一本落としちゃったもんだから。怒ったなあ。おじいちゃん。しばらくは、おやじと口、きかなかったもん。

でねえ。ある日、ぼくが六歳ぐらいの頃だったのかなあ。おじいちゃんに聞いたんだ。「ねえ、なんでおじいちゃんは、木を切ると怒るの?」ってねえ。

そうしたらね。不思議な話を聞かせてくれたんだなあ、おじいちゃんが。隠居の三畳の間の小さなこたつに、一緒にあったまりながらねえ。おじいちゃんの好きな黒飴だの落雁だの砂糖せんべいだの食べさせてもらいながらね、聞いたんだ。その不思議な話を。もうだいぶ、記憶から薄れ始めてはいるんですけどね。


そらそら、落雁の粉が落っこちてるじゃないか。もっと、ぐっと、こたつに寄りなさい。ぐっと。そうそう、それで、こたつの布団を下に引っ張りおろして。そうそう、それでいい。こぼすと、おじいちゃん、また、おばあちゃんに怒られちゃうからね。

どこから話をしたらいいかな。おじいちゃんが、木を切らないのはね、わけがあるんだよ。

あれは、日中戦争がひどくなり始めた頃のことだったなあ。わからないだろうねえ。戦争だなんて言ったって。小学校に上がって、だいぶお兄ちゃんになったら、少しは勉強するようになるかな、戦争のことを。

戦争っていうのは、人と人が殺し合うことだよ。悲しいことだねえ。その頃、日本はおとなりの中国にまで出かけていって、鉄砲を撃ったり、大砲を撃ったりして、戦争をしていたんだよ。おじいちゃんは、兵隊さんではなかったんだけど、お仕事で北京に行っていたんだ。北京っていうのは、中国で一番大きな町だよ。冬はとっても寒いところだったねえ。

あの頃は、男はだれでもみんな、兵隊さんにならなきゃいけなかったんだけど、おじいちゃんは、若い頃から痔がひどかったんだよ。痔っていうのは、おしりが痛くなって、座っていられない病気だね。で、男はだれでもみんな、徴兵検査というのを受けさせられたんだ。ちゃんとへこたれずに兵隊さんをやれるかどうか、テストされたんだね。おじいちゃんも、テストを受けたんだけど、それがねえ。騎兵隊のテストだったんだ。騎兵隊っていうのはねえ、お馬さんに乗って戦争する兵隊さんのことだよ。おじいちゃんは、おしりの病気だったから、馬の上に座っていることができなかったんだよ。おしりが痛くて痛くて、とても馬になんか、乗っていられなかったからねえ。だから、兵隊さんのテストに不合格になっちゃったの。それで、おじいちゃんは、とうとう戦争に行かずに済んでしまったんだねえ。

兵隊さんになれなかったから、おじいちゃんは、碍子っていう石を売っている会社で、サラリーマンをしていたの。碍子って、ほら、電信柱の上の方に、白い石がくっついているでしょう。あれが、がいし、だよ。電気がびりびりっ、と流れて、人が感電してしまわないように、電気を止めてくれる大切な石が、碍子なんだね。

おじいちゃんは、その碍子の会社の出張で、中国の北京まで行って、お仕事をしていたんだよ。中国人のお友達もたくさんできたよ。だけれども、だんだん戦争がひどくなってきて、おじいちゃんは中国を引き上げて、東京に戻ってきたの。とっても寒い冬の日のことだったなあ。おじいちゃんが東京に戻って来たのは。そのときに、とっても不思議なことが、起きたんだよ。


省電の駅を降りると、商店街を抜け、狭い路地の近道を通り、しばらくして、家がまばらな、立ち木のある、畑などもまだ残っている住宅地に出た。この辺は近頃、東京のホワイトカラーがどしどし越して来て、昨日まで畑だったところに、今日はもう、小さな和洋折衷の、つつましい家が建っているほどに、急に開けて来ている土地だ。

楠木などは、落ち葉がたいへんだし、日陰になっては洗濯物が乾かなくて、しょうもないから、新築前にすっかり切り倒してしまう家が多い。たばこ屋の角に、まだだいぶ大きな木が、このあいだまで立っていたのに、ひさしぶりに帰ってきてみると、あとかたもなくなっている。

そんなことは別に、なんとも思わない。国がどんどん改造されつつある御時世だから、切らねばならいものは、なんでも、どんどん切ってしまうより、仕方がない。ちょっと待て、なんて、言ってられない。そんなことをしていたら、「バスに乗り遅れてしまう」というんだから。まったくどうしようもないことだ。なんと思ったって、どうしようもない。だれがどう言おうったって、どうしようもない。

そんなことを考えながら、ふと、道の先の方に目をやると、まことに不思議な光景が映ったのだ。一瞬わが目を疑った。数間先の道路端の立ち木の根元あたりに、背の丈五センチメートルほどの「ひとのかたちをしたもの」が、なにやら一生懸命、荷物を運んで、難儀している様子ではないか。その場に立ち尽くし、息を呑んで見つめていると、おやおや、とうとう重荷に耐えかねて、地べたにへたり込んでしまった。なんだか途端に気の毒に思えて、急いでそばに近づき、手を差し伸べて、「小さな人」を今にも押しつぶしそうな荷物を、つまみ上げてやろうとした。その途端、目の前が暗くなり、意識が深いトンネルに、奈落の底に、すいーっと、吸いこまれて行って、それきり何も、わからなくなった。


「宙覧台の天使が言っていたように、時間きっかりにやってきましたね。一分と違いがない」

「北京からやって来たこの男が、今日の午後、自分の家の庭の楠木が気に入らなくて、庭師を呼んで、切り倒してしまうのだ」

「切り倒してしまう動機については、すでに報告を受けている通りです。この時代の重苦しい閉塞感のためが八割、仕事の重荷が一割、家族と上手く行かないことが残りの一割です」

「楠木を切り倒したら、大変なことになりますね」

「それが、今日の午後、起こるのです」

「きっかり、そうです。そうなるはずになっています。しかし、それを阻止するために、こんな乱暴な方法しか、なかったのでしょうか?」

「宙覧台の天使は、いろいろ試みたようだが、どれも失敗してしまったのだ。不確定性原理を一時的に変更して、こちらの都合に確定させてしまうための多重連立重力方程式が、ちっとも上手く計算できなかったのだ。わたしもかつて、何度か試みたことがあるのだが、あれは、手に負えぬ代物だ」

「そうしますと、この目の前に横たわっている男を、どうします?」

「眠っているままに、語りかけるのだ。その、心の耳に、透き通った、暗く、深い、青色の声で、語りかけるのだ、われわれの『木』の秘密を」

「その準備は、万端整っています。昨日からもう百遍は練習済みですから」

「じゃあ、諸君、さっそく取り掛かろう」


御仁。よく聞かれよ。深き眠りの、そのままに、心の耳で、聞かれよ。

その昔、造物主は、そなたらの宇宙の前に、もうひとつの宇宙を、お造りになられた。その古き宇宙は、星々の住人の「悲しみ」のために、押しつぶされて、滅びてしまった。地は形なく、空しくなり、混沌となり、深き闇が淵のおもてを覆うに至った。

そこで、造物主は、新しき宇宙を、お造りになられた。だが、二度の轍を踏まぬために、主は策を講じられた。造物主はまず光を造り、地を造り、そうした上で、「木」をお造りになられたのだ。

この「木」が、新しき宇宙の、無数の星々の住人の「悲しみ」を、すべて残らず吸い取るようにさせて、もはやふたたび、宇宙が滅びることがないようにと、お定めになられたのだ。

造物主は、どういうわけだか、そなたら人間に、自由意志をお授けになられた。人間が、自由な意志を持たないならば、永遠不変に、単一の意志を持って、機械的に、隷属的に、絶対的に、神の御意志に沿うて歩んだであろうものを。しかし、造物主は、われら天使の理解をはるかに超えた御経綸をもって、事を定められたのだ。すなわち、自由な意志からのみ、真実の愛が発露するのであり、そのような愛のみが、造物主のお心に、唯一適うものなのだ。

さすれば、たとえ、そなたら人間が、自由意志を誤って用い、神に反逆し、地上に幾多の痛みと悲しみをもたらす事態が生起しようとも、なおそれらを越えて、造物主は、真実の愛の発露を、忍耐深く待つこととされたのだ。

そのためには、重き悲しみに耐えかねて、宇宙が押しつぶされぬよう、手立てが要ったのだ。そうして、それがためにこそ、「木」が、必要であったのだ。

御仁よ、そなたは知らぬまいが、この宇宙のすべての木は、その葉の一枚一枚が、われら無数の天使の化身であるのだ。われら天使は、緑深き葉に姿をやつして、じっと「風」に身をまかせ、待つのだ。風を、待つのだ。風は、地の四方のあちらから、こちらから、そなたら人間の、痛みと、悲しみと、怒りと、嘆きとを、運んでやって来る。重い重い風となって、やって来る。葉となりし、われら天使は、その痛みと、悲しみと、怒りのすべてを、この身に、溢れるまでに吸い取って、ついには病み、衰え、枯れて、枯れ果て、落葉するのだ。

そのままであるならば、われら天使は、すべて、死なねばならぬであろう。滅びねばならぬであろう。だが、造物主は、もうひとつの手立てをも、お備えになられた。

葉となりし、われら天使が吸い取った、すべての痛みと悲しみは、枝を通して集められ、幹を運ばれ、地に集められ、小人たちの手で、瓶に詰められて、「時間の穴」へと送り出される。あらゆる時代の、あらゆる場所の、あらゆる人の、あらゆる悲しみを詰めた、無数の瓶が、重い重い瓶が、無数の時間の穴を通って、運ばれて行く。運ばれて行く。ただひとつの場所に、運ばれて行く。

御仁。そなたも、その場所の名を、一度ならず耳にしたことがあろう。「されこうべ」と呼ばれる、その「悲しみの集まる場所」を。

宇宙のすべての悲しみ、そなたら人間のすべての悲しみは、空いっぱいに枝と葉を広げた「木」によって、集められ、瓶詰めされて、「されこうべ」へと、送られるのだ。その「されこうべ」で、造物主は、十字架にかかりたもうた。造物主おんみずからが、十字架にかかりたもうた。そうして、宇宙から絶えず集められる、すべての痛みと悲しみとを、十字架の上で、残らず吸い取ってくださった。時を越えた「されこうべ」で、造物主は、今も、十字架の上におられ、そなたら人間の悲しみを、吸い取り続けておられる。造物主は、吸い取り続けておられる。そなたらの悲しみが、果てしのない、無限の悲しみであろうとも、造物主は、それを残らず吸い取ってしまうことが、おできになる。なぜなら、造物主は、無限のお方であられるから。

御仁。それで、わかったであろう。そなたが今日の午後、切ることになっていた「木」は、切ってはならぬのだ。葉となりし、われら天使は、すでに隣りの国で、殺された多くの者たちの痛みと悲しみを吸い取って、枯れ果て、「されこうべ」へと、送り出した。しかし、悲しみはそれで、終わることはない。そなたの住む東京、そなたの住む町の界隈は、もう何年かすれば、空から降り注ぐ滅びの炎で灰燼と帰すであろう。そなたの隣人、そなたの同胞の多くが殺され、痛みと悲しみとが、この地に満ちるであろう。そうして、そなたの切り倒そうとしている「木」が、その時来たりなば、すべてを吸い取って、「されこうべ」の十字架へと、送り出さねばならぬのだ。これは、何者によっても妨げられてはならぬ、大切なわれら天使の使命なのだ。それが出来ぬとあらば、そなたの住む宇宙は、悲しみの重荷に押しつぶされて、次の瞬間にも、滅び去り、混沌に帰すであろう。

それゆえに、切ってはならぬ。


そりゃあね、おじいちゃんが、本当にそんな不思議なことを体験したのかどうか、ぼくにはわからない。だけれども、もしそうだったら、どんなにか、いいだろうと思うんですよ。なんだかこうね、救われる気がするんだ。ああやって、木が空いっぱいに、伸びている。広がっている。枝を広げている。その枝のひとつひとつが、その葉の一枚一枚が、この町の人たちみんなの、悲しみだの、怒りだの、憤りだの、痛みだのの、すべてを残らず吸い取っていてくれるのだとしたら。

だからねえ、ぼくは、どんな木でも、切る気がしないんですよ。

(初出:「詩の小箱」

ゲッセマネ

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涙の祈りを終えたイエスが

弟子たちに 近づくと

だれもかれも 気持よさそうに

寝息をたて 眠っていた

 

イエスは ひとり 祈っている

そして

苦しむイエスのために 祈る者は

今夜も だれも

いない

 

涙の祈りを終えたイエスが

私たちに 近づくと

私もあなたも 気持よさそうに

寝息をたて 眠っている

 

イエスは また ひとり 祈りにもどる

そして

わたしたちに 安らぎを与えるために

今夜も ひとり 

目覚めて いる


(初出:「詩の小箱」

受難週の黙想

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棕櫚の日曜日 (マタイ21:1-11)

メシアの来臨について、昔のラビたちはこのように預言しました。

人々が心の備えが出来ていたなら、メシアは「光る雲」に乗って、来られる。

人々が心の備えが出来ていなかったら、メシアは「ロバの子」に乗って、来られる。

「ロバの子」は、心を冷たく閉ざしているわたしたちへの、主の哀れみのしるしです。



月曜日 (マタイ21:12-17)

祈りの家が、商売のために占領されていました。

柔和なイエスは、お怒りになり、鞭でもって商人を追い出してしまわれました。

イエスは、今日も、わたしたちの心の中に、鞭をもって入られます。

わたしたちの心の中をきよめて、生きた神殿、祈りの家としてくださいます。



火曜日 (マタイ22:34-40)

「神を愛しなさい。そして、隣人を自分のように愛しなさい」

イエスは、わたしたちの隣人となってくださいました。

イエスは、ご自身を愛する以上に、隣人であるわたしたちを愛されます。

その愛の極みのゆえに、命まで捨てて、愛のあかしをくださるのです。



水曜日 (マタイ25:31-40)

飢え、渇き、宿がなく、裸で、病気で、牢にいる人々。

イエスはご自身を、それらの人々と、ひとつに結び合わされました。

「彼らの中に、わたしがいる」と、宣言されたのです。

イエスは十字架の苦しみにおいて、小さき者たちと、痛みを共にされます。



木曜日 (マタイ26:26-30)

過越の食卓上の「苦菜」は、わたしたちの苦悩の象徴です。

神の小羊であるイエスが、わたしたちの苦悩をすべて取り、担ってくださいます。

過越の食卓上の「四つの杯」は、イエスが身代わりに飲み干す犠牲の杯です。

イエスは、頭から、右手から、左手から、足から、血を流されます。



聖金曜日(受難日) (マタイ27:32-44)

イエスは、神に捨てられ、打たれ、傷つけられました。

神に見捨てられた「神」。神に裁かれた「神」。神に罰せられた「神」。

十字架の上で、イエスは、わたしたち呪われた罪人と完全に一体となられました。

神に見捨てられ、裁かれ、罰せられた、その底の底で、わたしたちと結び合うイエス。



土曜日 (1ペテロ3:18-19)

死んだイエスの霊は、黄泉の底へ、地獄へと降下して行きました。

内から固く閉ざされている地獄の中へすら、イエスは入って行かれました。

捕らわれの霊たちを、恵みと赦しをもって、救い取るために。

わたしたちの心が、たとえ地獄であっても、イエスは入って来ることが出来ます。



復活の日曜日 (マタイ28:1-10)

天使は言います、「十字架につけられたイエスを捜しているのか?

あの方はもう、ここにはおられない」

罪のつぐないは完了し、イエスはもう十字架の上におられません。

わたしたちの罪はすでに、すべて、赦されました。主がすでに復活されたからです。



─受難週のための詩─

「釣浮草」
「苦痛」
「わが神、わが神、なぜ…」
「過越しの食卓」
「ルオーの絵」
「聖餐式」

恐ろしかったからである ・・・宣教する実存としてのマルコ

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「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる』と。婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(マルコ16:7-8)

マルコによる福音書には、「長い末尾」と呼ばれる終わり方と、「短い末尾」と呼ばれる終わり方と、二通りが知られています。これは、写本によって異なっておるのです。わたしたちの新共同訳聖書では、長い末尾を「結び一」として収めており、ちょうど16:9-20がそれにあたります。一方、短い末尾は「結び二」として収められております。

ところが、そもそもマルコが書いた福音書の本文には、「結び一」も「結び二」も、付いていなかったであろう、ということがわかっています。これは、古い写本の比較研究から明らかになったことです。

そうしますと、マルコがインク壷に筆を浸しつつ羊皮紙に書き進めた福音書は、わたしたちが先ほど読んだ16:8のところで終わっていた、ということになります。その最後の言葉は、こうです。「だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」

「恐ろしかったからである」 この言葉をもって、マルコは福音書を終わろうとするのです。実に奇妙な終わり方です。福音書とは、ユーアンゲリオン、すなわち、喜びの訪れを伝える書、ということであります。喜びの訪れを伝える書が、「恐ろしかったからである」という言葉で閉じられている。これほど奇妙なことが、あるでしょうか?

ひとつの考え方として、主イエスキリストの復活という出来事が、人間の理解を超えた、畏怖すべき出来事であった。常識的な世界に生きているわたしたちを、骨の芯まで戦慄させるほどの、異常な出来事であった。その恐ろしさを伝えるために、マルコは「恐ろしかったからである」という言葉で福音書を閉じたのだ。そういう考え方が出来るでありましょう。

しかし、わたしたちはむしろ、この福音書を書いたマルコが、どういう人であったかを考えることによって、この奇妙な終わり方の謎が、解けるのではないかと思うのです。いったい、マルコは、どういう人であったのでしょうか?

マルコによる福音書の成立については、西暦四世紀の教会史家エウセビオスが残した『教会史』という書物の中で触れられております。このエウセビオスという人は、ローマ帝国によるキリスト教会への激しい迫害が一転して、キリスト教が公認され、さらにはローマ帝国の国教になるという、激動の時代を生きた人です。西暦325年に、皇帝コンスタンティヌスの召集により、ニケア公会議が開催され、そこにおいて「神人二性一人格」という正統教会の教義が決定されたわけですが、エウセビオスはこの会議で、皇帝の右に着席し、開会の挨拶を述べております。これほどの光栄に与ったのは、エウセビオスが教会の中でもっとも博識な人であり、当時の教会の中でも最も名が知られた著作家であったからでありました。

そのエウセビオスは、マルコによる福音書の成立について、次のように述べております。
「神への敬虔の光は、使徒ペトロの言葉を聞く者たちの精神を深く照らした。そこで彼らは、神の教えを一度聞くだけでは、あるいは、書かれていない教えだけでは、満足せず、ペトロの同伴者だったマルコに、言葉を用いて自分たちに伝えられた教えの要約を、文書に書いて残してくれるようにと、あらゆる手だてを尽くして頼み込み、その願いをマルコが承知するまで、やめなかった。
こうして彼らは、『マルコによる福音書』と呼ばれる文書を誕生させたのである。使徒ペトロは、聖霊の啓示を受けて、マルコの作品を知るや、この者たちの熱意を喜び、そして、その文書が教会で朗読されるのを承認した、と言われる。クレメンスは『ヒュポテポセイス』第六巻でこの話を紹介し、ヒエラポリスの司教パピアスも、同じくそのことを証ししている。パピアスはまた、ペトロの第一の手紙の中で、マルコのことが触れられている、と指摘している。ペトロは、第一の手紙をローマで書いたと言われる。そのことは、ペトロ自身が、『共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています』と言って、ローマをバビロンに譬えたことによって示している。
このマルコは、自分自身が書いた福音書を宣べ伝えるためにエジプトに遣わされた最初の者であり、また、アレキサンドリアに教会を建てた最初の者と言われる。エジプトでの最初の宣教の試みによって信者になった男女の数は極めて多かった」

初代教会の初めの頃、主イエスキリストの福音は、ただ、口で伝えられているだけでありました。しかし、耳で聞くだけではもの足りず、なんとしても、文字に記された教えを手に入れたい、と願った人々がいたのです。この人々は、ペトロの同伴者であったマルコに、しつこく頼み込み、とうとうマルコは根負けするかたちで、福音書を書くに至った。それからマルコは、エジプトへ出かけて行って、福音を宣べ伝えた。第四世紀の教会史家エウセビオスは、そのようにわたしたちに告げております。

マルコは、福音書記者聖マルコとして今日、エジプトの守護聖人とされているわけですが、しかし、マルコには、そのようになる以前の「過去」があったのでありました。この過去については、エウセビオスは『教会史』では触れておりませんけれども、わたしたちが聖書を読みますと、マルコが、どのような過去を歩んだ人であったのかが、手に取るように、わかるのです。

まず使徒言行録第12章を見てみましょう。そこでは、ヘロデ大王が、ユダヤ人たちの歓心を買うために、使徒ペトロを逮捕し、牢屋に投げ込んだことが記されています。しかし、主がお送りになった天使によって、ペトロは奇跡的に牢屋から解放されたのでした。夜遅く脱出したペトロが帰って来たのが、ヨハネと呼ばれていたマルコの家でした。マルコの母マリアの家、つまり、マルコの実家には、大勢の弟子たちが集まって、獄中のペトロの解放を願って、徹夜の祈祷会を行っている最中でした。

この記事を見ますと、マルコの実家は、エルサレムでも相当大きなお屋敷であったことがわかります。あのペンテコステの聖霊降臨の時に、120人もの弟子たちが集まって十日間の祈祷会をした「二階座敷」と呼ばれる場所もまた、相当に大きなお屋敷でした。ですから、聖書学者の中には、この二つを結び付けて、二階座敷はきっとマルコの家だったに違いない、と考える人もおります。二階座敷と言いますと、それはまた、最後の晩餐が行われた場所でもあります。そうだとしますと、最後の晩餐、ペンテコステ、ペトロの解放という三つの大きな出来事が、いずれもマルコの家で起きたことになり、当然マルコは、それらすべてを、自分自身で間近に目撃していた、ということを、わたしたちは考えなければなりません。

そういうマルコでありますなら、主イエスキリストの公生涯、十字架の死、復活、昇天、ペンテコステ、初代教会の設立と、すべてについて、マルコ自身が直接体験した、生き証人ということになります。主の死と復活を間近に見た、ということが、使徒として立てられるための条件でありましたから、そうしますと、マルコは使徒に準じる者、準使徒だ、と言うこともできるでありましょう。

そのようなマルコが、主イエスキリストの筆頭の弟子であるペトロの助手となって、宣教旅行のお伴をして各地を回った、というのは、自然に納得できることです。そうして、わたしたちは、使徒言行録に記された宣教旅行の記事において、マルコの「過去」に触れることになるのです。

マルコは初めは、ペトロの助手として、宣教旅行のお伴をしていたのですが、使徒言行録第13章を見ますと、今度はパウロとバルナバの助手となって、お伴をして行ったことがわかります。コロサイの信徒への手紙によれば、マルコは、バルナバのいとこである、と言われています。ペトロのもとで、多少とも宣教旅行の経験と訓練を積んだ、いとこのマルコを、バルナバは、自分の助手、また、パウロの助手として、宣教チームに迎え入れたいと願った。その願いが聞き届けられて、マルコはペトロのもとから、バルナバとパウロのもとへ、移ったのでありましょう。使徒言行録13:4にこう言われています。「聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた」 このヨハネが、ヨハネと呼ばれていたマルコであります。

マルコは、パウロとバルナバの助手として、宣教旅行のお伴をしていたのですが、途中でホームシックにかかり、エルサレムのお母さんのもとへ逃げ帰ってしまいます。13:13にこう言われています。「パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった」

マルコは、途中で宣教チームから離脱してしまったのです。マルコは、とんだ意気地無しだったのでしょうか? 

しかし、マルコが抜けても、そのまま宣教にまっしぐらに進んで行ったパウロとバルナバが、行った先々で、どんな目に遭ったかを見ますと、ある意味、マルコの「逃げる」という判断、「逃げる」という選択は、合理的でもあり、当然でもあったように思われるのです。マルコが抜けて、進んで行ったパウロとバルナバは、ピシデヤのアンテオケで迫害を受け、イコニオンで石を投げられ、リストラでも石を投げられ、パウロは死んだような状態になってしまいます。いや、ほんとうに死んだのかもしれません。そこからパウロは、奇跡的に起き上がって、怒り狂った群集の中から脱出し、なおも宣教し続けたのです。

生きる、ということは、危険を冒すことであり、あえて危険を冒す決断をすることが、ほんとうに生きることである。このような決断に生きる人のことを、「実存」と言いますけれども、危険をかえりみずにつき進んで行ったパウロとバルナバの姿は、まさに「宣教する実存」とでも言うことが出来るのではないでしょうか。

そうして、マルコという人は、「宣教する実存」でありたいと願いながらも、「宣教する実存」になり得なかった。後ろを向いて、逃げ出してしまった人だ、と言うことができるでありましょう。

宣教する実存そのもの、あるいは、宣教する実存の燃える塊のようであったパウロからしてみれば、当然、マルコは、許すこのとできない卑怯者です。パウロは、自分の手紙の中で、「わたしは死んでもかまわない」「キリストのためなら死んでも本望だ」ということを、何度か述べています。手紙で書いているぐらいですから、宣教旅行の途上の会話の中で、パウロはそんな言葉を何度となく口にしたはずでありましょう。マルコは、そんなパウロの言葉を、どんな気持ちで聞いていたのでありましょうか? おそらく、聞くたびに、ぞっとして、自分には出来ない、自分には無理だ、お母さんのもとへ帰りたい、と思い詰めていたのではないでしょうか?

第一回の宣教旅行を終えて、エルサレム教会での会議に出席したパウロとバルナバは、会議を済ますと、自分たちの本拠地であるアンテオケ教会に戻り、小数日滞在した後、第二回の宣教旅行に出発いたしました。このとき、バルナバは、あの途中で逃げ帰ってしまったマルコを、「今度こそ」という思いをもって、連れて行こうとしたのです。しかし、パウロは、どうしてもマルコを許すことが出来ませんでした。使徒言行録15:37-39にこう記されています。「バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきではないと考えた。そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになった」

二度目のチャンスをマルコに与えてやりたい。そうバルナバが考えたのに対して、パウロは、一度つまずいた者に二度目のチャンスを与えようとは考えませんでした。バルナバには「慰めの子」という意味がありますが、パウロが宣教に命がけで燃えて、燃え尽きるタイプであったのに対して、バルナバは、どこまでもやさしく、包み込むような、優れた牧会者のタイプであったようです。

パウロの判断は、あまりに気の短い、頑固な判断だったのでしょうか? わたしたちはここで、パウロを批判したくなるかもしれません。しかし、マルコの参加を拒否して宣教へとつき進んで行ったパウロが、その後、行った先々でどんな目に遭ったのかを見てみますと、いや、むしろ、パウロは本当はマルコのことを心配して、参加を拒否したのではあるまいか、とすら思われるのです。フィリピで、パウロの一行は投獄され、何度も鞭で打たれます。テサロニケでは、暴動を起こした群衆に襲われます。アテネでは、教養人たちに鼻で笑われ、無視されます。コリントでは、口汚くののしられ反対されます。もしマルコがお伴に加わって、そこに一緒にいたら、と想像したら、どうでしょう? マルコが、それらの試練に耐えることが、出来たでしょうか? 大いに疑問だと言わねばなりません。それゆえ、バルナバがマルコを心配して、一緒に連れて行こうと思ったのと同じぐらい、あるいはそれ以上に、パウロはマルコを心配して、一緒に連れて行くのに反対したのです。

さて、宣教チームへのマルコの参加を拒否したパウロは、燃え上がるような「宣教する実存」として、第二回の宣教旅行に出発して、各地で苦難に遭いながらも、教会の基礎を固めて、戻って来ました。パウロが語る報告を聞いて、あの、拒絶され、おいてけぼりにされたマルコは、どんなふうに感じたことでしょう? つくづく自分のことを、意気地の無い弱虫、卑怯者、信仰の薄い者、というふうに感じたのではないでしょうか?

そのマルコは、しかし、「宣教する実存」であろうとすることを、やめてしまったわけではありませんでした。教会史家エウセビオスの述べるところによれば、マルコは、その後、再びペトロのお伴となって、一緒に宣教旅行をし、ローマにまで行ったことが、わかります。そうして、そこへ、ローマへ、皇帝の裁判を受けるために、使徒パウロも遅れて到着するのです。皇帝の裁判が開始されるまで、ローマで軟禁状態に置かれたパウロは、いわゆる獄中書簡と呼ばれるエフェソ書、フィリピ書、コロサイ書を、ローマで書いたわけですが、この獄中書簡には、マルコの名前が出てまいります。コロサイの信徒への手紙4:10に、こう記されています。「わたしと一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコが、そしてバルナバのいとこマルコが、あなたがたによろしくと言っています。このマルコについては、もしそちらに行ったら迎えるようにとの指示を、あなたがたは受けているはずです」

わたしたちは、ここを読むときに、なんだか嬉しくなるのではないでしょうか。ここには、パウロから任務を委ねられて、ひとりでローマからコロサイへと、今まさに旅立とうとしているマルコ、まさに「宣教する実存」として、生き生きと活動しようとしている、わたしたちのマルコの姿を、見ることができるからです。

そうしますと、マルコという人は、ひとたびは「宣教する実存」として生きようと決意したにもかかわらず、恐ろしくなって、背を向けて、逃げ出してしまった人であります。逃げ出してしまったのだけれど、それでも「宣教する実存」として生きたい、という願いを持ち続けた人であります。その願いは、パウロによって、ぴしゃりと冷水を浴びせられるように拒絶されてしまうのです。しかし、マルコは、ついには「宣教する実存」として、パウロと肩を並べて、一緒に福音を宣べ伝える、というふうにまで、なった人なのです。

ひとたびは「宣教する実存」として生きようと決断していながら、恐れのために、そこから逃げ出してしまう。この逃亡を、「宣教する実存からの退落」とでも言うことができるでありましょう。そうして、マルコが、ひとびとからうるさくせがまれて、しぶしぶ福音書を書いてみる気持ちになったとき、彼の心の中にふつふつと沸き起こって来たテーマは、「宣教する実存」そうして「宣教する実存からの退落」であったのではないでしょうか?

そのように考えて、マルコによる福音書を見てみるならば、その冒頭、いきなり洗礼者ヨハネが、荒れ野で宣教している姿を、わたしたちは見させられます。その姿は、まさに、命がけで「宣教する実存」であります。そうして、すぐ、わたしたちは、主イエスがヨルダン川で聖霊を受ける姿を見させられます。イエスは、荒れ野の誘惑に打ち勝たれて、すぐに、宣教に出て行かれます。そうして、ガリラヤ湖のほとりで、漁師たちに会い、彼らを弟子としてお召しになります。すなわち、「あなたがたも『宣教する実存』になりなさい」という召命を、お与えになるのです。弟子たちは、すぐ、イエスに従います。そうして、イエスは、町から町、村から村とめぐり歩いて、宣教されるのです。1:38で、主イエスはこのように言われます。「わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」

これだけのことが、わずか第一章において、すべて、わたしたちに見させられるのです。まさに、宣教することが、生きることである。マルコは、主イエスキリストを「宣教する実存」として、捉えておりました。マタイは、第一章を、系図に費やしました。ルカは、第一章を、マリアとエリサベトの物語に費やしました。ヨハネは、第一章を、深遠なキリスト論に費やしました。しかしマルコは、ただ「宣教する実存」に、関心があったのです。

そうして、マルコは、福音書において、「宣教する実存」が遭遇するところの苦難について、記すのです。洗礼者ヨハネは、逮捕され、投獄され、首を切られます。主イエスキリストは、人々の手に引き渡され、殺されます。「宣教する実存」が遭遇するところの苦難を見て、イエスの弟子たちは、次々に、逃げ去ります。あのガリラヤ湖のほとりで、「あなたがたも『宣教する実存』になりなさい」との召命を受けて、主イエスに従った弟子たち。ペトロに至っては、「先生と共に死なねばならないのなら、死にます」とまで宣言していました。確かに、弟子たちは、召命の原点において、命がけで「宣教する実存」になろう、という決断をした人たちでありました。しかし、主イエスは捕らえられました。主イエスは殺されようとしております。その時、弟子たちはみな、恐れたのです。主イエスを見捨てて、逃げ出したのです。まさに「宣教する実存からの退落」が、弟子たちに起きていたのです。

マルコは、「宣教する実存からの退落」を、実によく理解することができました。なぜなら、マルコ自身が、そのように、逃げた者、背を向けた者、宣教する実存から退落した者であったからです! それゆえ、主イエスがゲッセマネの園で捉えられた、暗い夜の描写の中に、裸になって逃げて行く若者の姿が差し挟まれていることに、わたしたちは注目させられるのです。わたしたちは、これはおそらく、マルコ自身の姿であろう、と考えざるを得ないのです。14:51にこう記されています。「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった」

イエスについて行きたい。「宣教する実存」として生きたい。そう願いながらも、恐ろしくて、逃げ出してしまったマルコ。マルコは、自分自身の姿を、この、裸になって逃げた若者として、ゲッセマネの園に置いたのではなかったでしょうか?

このようにして、マルコは、宣教から逃げ出した自分の裏切りを、主の十字架の前における、あのペトロの裏切りの中に、重ね合わせて、見ているのです。あの暗い夜、ペトロは、「わたしはイエスなど知らない」と三度も誓って、主を裏切ったのでした。その裏切りの罪の恐ろしさ、苦しさ、悲しさについて、ペトロは、マルコに、何度も何度も、涙ながらに語ったことがあるに違いありません。ペトロとマルコが宣教旅行で寝起きを共にする、その生活の中で、ペトロは、自分がどのような「過去」を歩んできたのかを、マルコに、つぶさに語ったことでありましょう。

しかしまた、マルコは、そのペトロから聞かされて、知ったのです。「宣教する実存」が、恐れのために、逃げ出し、退落することがあるとしても、主イエスキリストは、再び、お招きになる。それでも「宣教する実存」になりなさいと、二度目の召命をお与えになる。実に、この二度目の召命があればこそ、いまペトロは使徒として、マルコの目の前に立っているのでした。

主イエスが復活されて、ガリラヤのほとりでお与えになった、二度目の召命について、ペトロは、つぶさにマルコに語ったに違いありません。主を裏切ってしまったペトロに対して、復活の主イエスは、「おまえはわたしを愛するか」と問いかけられて、再びペトロを弟子として、「宣教する実存」を生きる者として、お召しになったのです。これが、二度目の召命であります。

主イエス・キリストが再びお会いくださる。それは、原点において、すなわち「召命の原点としてのガリラヤ」において、であります。一度目に、主イエスは、ガリラヤにおいて、「宣教する実存」になるようにと、弟子たちをお召しになりました。二度目に、主イエスは、やはりガリラヤにおいて、「宣教する実存」になるようにと、失敗した弟子たちを、お召しになりました。

この、二度目のガリラヤへと、主イエスキリストは、わたしたちを招いておられます。主イエスは、わたしたちに先立ってガリラヤへ行かれ、この、二度目のガリラヤにおいて、すなわち、わたしたちの召命の原点において、わたしたちを待っておられます。

福音書記者マルコは、このように記します。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる」

「先に行って待っておられる」という主の約束。この約束に対する信頼のうちに、ペトロは、弟子たちは、ふたたび、献身と服従の決断をいたしました。失敗、裏切り、逃亡、それにもかかわらず、再び「宣教する実存」として生きることを、決断したのです。

主は「先に行って待っておられる」と、いまや、告げられております。この、召命の原点に帰るようにとの招き。この、再献身への招きが、いま、なされております。しかし、それを聞くマルコは、恐れるのです。かつては自分も「宣教する実存」であったが、ひとたびそこから退落し、いまは主体性を失って、失望のうちに沈んでいる。しかし、マルコは、再献身の招きを受けるのです。「それでもなお宣教する実存たれ」と、主イエスキリストから呼ばれるときに、マルコは、恐れおののかざるを得ないのです。

福音書記者マルコは、記します。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる』と。婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」

かつて「宣教する実存」として生き、そうして失敗し、逃げ去った者たちはみな、「宣教する実存」として生きる者に、何が待ち受けているかを、自らつぶさに見て、知っております。すなわち、反対する者たちが「口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」「二人に乱暴を働き、石を投げつけようとした」「パウロに石を投げつけ、死んでしまった」「何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込んだ」「足に木の足枷をはめておいた」「暴動を起こし」「家を襲い」「あざ笑い」「法廷の前で殴りつけ」「パウロを殺そうとしていた」 こういうことが、「宣教する実存」として生きる者たちを、待ち受けているのであります。

それらを知っているゆえに、マルコは、逃げ出したのです。そうして、主イエスキリストは、そこへ、そういうことの中へ、「宣教する実存」として生きることの真ん中へ、戻って行くようにと、再びマルコをお呼びになっているのです。だれが、恐れおののかずにおられましょうか! しかも、この恐れおののきの中に、決断することが、わたしたちに、求められているのです。

この「決断」を迫られる者は、すべてみな、恐れおののきます。マルコは、恐れおののきました。マルコはまた、その同じ恐れおののきのうちに決断することを、福音書の読者すべてに、迫ろうとしているのです。

この「決断」が、今日、わたしたち、マルコの福音書を読むひとりひとりに、求められている決断であります。

わたしたちは、この恐れおののきのうちに、いかなる決断をするのでしょうか? わたしたちの二度目のガリラヤにおいて、わたしたちは、いかなる決断をするのでしょうか?

この二度目のガリラヤにおいて、「はい、主よ、わたしをお遣わしください」という決断をする者たちには、次のような結論が、待っております。すなわち、マルコ自身が書いたのではないが、マルコの精神の要約として最も適切なるものとして、マルコではない誰かが福音書の末尾に付けた、あのもうひとつの「結び」であります。「その後、イエス御自身も、東から西まで、彼ら(すなわち「宣教する実存」としての彼ら)を通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン」

実に主イエスキリストは、「宣教する実存」として生きる決断をした者たちの中で、その者たちを通して、その者たちの内に、その者たちと共に、生きて、働きたもうのであります。「宣教する実存」として生きる者たちを通して、主イエスご自身が、宣教のみわざを行いたもうのです。

その時、世界の中心は、もやは、エルサレムには、ありません。世界の中心は、アンテオケにも、ありません。世界の中心は、ローマにも、ありません。世界の中心は、「宣教する実存」として生きる者たちのうちに生きたもう、主イエスキリストご自身に、あるのです。

わたしたちの二度目のガリラヤにおいて、主イエスキリストは、わたしたちを待っておられます。主イエスキリストは、わたしたちをお呼びになります。当然のことながら、わたしたちは、マルコと共に恐れおののくのです。わたしたちは、どのような決断をするのでしょうか? 祈りましょう。


祈り

わたしたちの主イエスキリストの父なる神。あなたは、宣教という愚かさを通して、人間を救うこととされました。実に、神の愚かさは、人間の知恵に優っております。
主イエスキリスト。あなたは「宣教する実存」として、生きられました。「宣教する実存」として、死なれました。「宣教する実存」として、復活なさいました。そのあなたが、わたしたちをお召しになります。「あなたも、宣教する実存として、生きなさい」と、わたしたちをお召しになります。
わたしたちは今日、わたしたちの二度目のガリラヤに戻って来ております。わたしたちの召命の原点に、帰って来ております。今日、あなたの召しに対するわたしたちの決断を、恐れおののきのうちに、なすことができますように。「宣教する実存」として生きる者に、何が待っているのか。わたしたちはみな、それぞれが、つぶさに経験してまいりました。それゆえに、わたしたちは恐れおののきます。
この恐れおののきのうちに、どうかわたしたちが、「はい」と応答することができますように。「主よ、ここにわたしがおります。わたしをお遣わしください」という祈りをすることができますように。
そのように決断した結果、主イエスご自身が、東から西まで、わたしたち、すなわち「宣教する実存」として生きるわたしたちを通して、主ご自身が、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広めたもうということを、身をもって経験させてください。
主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

裁判のお知らせ

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2013年4月3日(水)午前11時から東京地裁602号法廷で「クリスチャントゥデイ対山谷裁判」の第28回公判が行われます。ぜひ傍聴においでください。

詳細案内:裁判日記

今回の裁判は、5月20日(月)に予定されている人証尋問(証拠となる証人への尋問)直前の公判として、原告クリスチャントゥデイ前代表取締役の高柳泉氏が人証尋問に応じるかどうかを見極める機会となります。

みなさまのお祈りとご支援をよろしくお願い申し上げます!

経緯:「偽キリストとの闘いを回想する」

まさしくわたしだ!

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聖句 ルカ24:1-12・36-43

イエス様が十字架につけられたのは金曜日のことです。

ユダヤ教では、金曜日の日没と同時に、安息日が始まります。安息日には、いかなるものも運んではならない掟です。ましてや、死んだ人のからだを運ぶなど、もってのほかのことです。

ですから、十字架につけられて死んだイエス様のおからだを、どうしても日が暮れてしまう前に、急いで墓に収めなければなりませんでした。イエス様が息を引き取られたのは、金曜の午後3時頃のことです。そこから日没まで、3時間ほどしかありません。

アリマタヤのヨセフという、たいへん勇気のある人が、イエス様のおからだの引き取りを申し出ました。ほうむりをするためには、ほんらいでしたら、防腐剤である乳香や没薬をご遺体に十分にすりこんでから包帯を巻くのです。それが、ほんらいの御弔いの仕方です。

ところが、日没がどんどん迫っています。とりあえず、イエス様に包帯だけ巻いて、急いで運んで、墓に収めてしまいました。墓の扉を閉めると同時に、日が暮れて、安息日が始まったのです。

イエス様を心から慕っていた女の弟子たちは、安息日が明けたならば、まっさきにお墓に行って、イエス様のおからだに乳香と没薬をすりこんで差し上げたい。そう願いました。それができないとしたら、御弔いは半分しかできないことになるからです。

ほんとうの御弔いをするために、女の弟子たちは墓を訪ねました。すると、墓はからっぽでした。そして、天使が彼女たちに出会って、こう告げたのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(ルカ24:5-6)

女の弟子たちは、息せき切って走って行きました。「イエス様が復活なさった! ほんとうに復活なさった!」 このときの言葉を、ギリシャ正教やロシア正教の人たちは、今日もイースターの合言葉の挨拶として使っています。正教では、キリストのことを「ハリストス」と言います。こういう挨拶です。「ハリストス復活! 実に復活!」

しかし、男の弟子たちは、ちっとも信じようとしませんでした。むしろ、女の弟子たちは、悲しみのあまり、頭がおかしくなってしまったのだと考えました。「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(ルカ24:11)と聖書にあります。

イエスキリストの復活。それは、当のキリストの弟子たち、使徒たちすら、信じることのできない、人間の理解を超えた出来事でありました。男の弟子たちは、キリストの復活をどう考えるべきか、集まって議論しました。男とは、そういうものです。何事も簡単には飲み込めない。まず集まって議論しなければならない。

そうしていると、その真ん中に、復活のキリストご自身が出現して、こう言われたのです。「なぜ、うろたえているのか? どうして心に疑いを起こすのか? わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ!」(ルカ24:36・38)

主イエスキリストは、今日もわたしたちに語りかけられます。「なぜ、うろたえているのか? どうして心に疑いを起こすのか?」 

わたしたちは今日、小隊(教会)の墓地の前に集まって、墓石を見つめています。ここに納められている人たちのために、十分な御弔いが出来ただろうか? ここに収められている人たちは、ほんとうに聖書に約束されているとおりに、終わりの日によみがえるのだろうか? そういう心の疑いがわたしたちにもあります。

だから、今日も主イエスはおっしゃるのです。「なぜ、うろたえているのか? どうして心に疑いを起こすのか? わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ!」 

この墓に納められた人たちはみな、信仰を通して主イエスキリストに結ばれている人たちですから、主がよみがえられたごとく、この人たちも終わりの日によみがえるのだと、わたしたちは信じて、待っています。終りの日に、彼らは、新しいからだ、新しい手、新しい足、新しい顔を与えられて、わたしたちの目の前に出現するでしょう。彼らは言うでしょう。「わたしだよ! まさしくわたしだよ! あなたのもとに帰って来たよ!」

復活された主イエスキリストは、驚いている弟子たちの前で、焼いた魚を召しあがりました。主イエスは、弟子たちと共に食事の交わりをなさいました。

この墓に収められている人たちが、終わりの日に復活して帰って来るとき、彼らは何か空気のような存在、精神的な存在、観念的な存在として帰って来るのではありません。一緒に焼き魚を食べることができるような、リアルな人間、ほんものの人間として帰って来るのです。そんなことがあるだろうか? 男の弟子たちが疑ったように、わたしたちもそんなことは、なかなか信じることができないのです。

しかし主イエスは今日もおっしゃいます。「なぜ、うろたえているのか? どうして心に疑いを起こすのか? わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ!」 

この主のお言葉に促されて、わたしたちは復活の信仰に今日ふたたび固く立ち直したいと思います。祈りましょう。

復活の日

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不思議なラッパが青空に鳴り響き

イエスが

降りて来られる

数え切れないほどたくさんの

聖徒たちを従えて

 

なんて長い行列

天国に先に行った

あのひとが

このひとが

光輝く白いローブを身にまとい

喜びのダンスのステップで

降りて来る 降りて来る

ぼくたちの主の

あとからくっついて

 

ゆっくり ゆっくり

近づいて来る

地上に向かって

ぼくたちに向かって

イエスは笑っている

聖徒たちも笑っている

ひとあし ひとあし

近づいて来る

喜びのダンスのステップで

 

なんて長い行列

すべての聖徒たちが

地上に到着するまで

踊りは続く 何十時間も

地上は聖徒たちで大混雑

ぼくたちは 天国から戻って来た

あのひとや このひとと

手と手を取り合い 

肩と肩を抱き合い

泣き 笑い 歌い 踊る

死は二度とぼくたちを引き裂くことなく

永遠の復活の国で

よみがえりの主イエスの王国で

ぼくたちは一緒にすむ

いつまでも いつまでも

一緒に 

ずっと一緒に

ずっと永遠に一緒に


(初出:「詩の小箱」
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