聖句 イザヤ58:10
今日の御言葉をもう一度お読みいたします。
「飢えている人に心を配り
苦しめられている人の願いを満たすなら
あなたの光は、闇の中に輝き出で
あなたを包む闇は、真昼のようになる」
ここから、わたしたちの克己週間のために3つのポイントを見たいと思います。第1は「心を配る」 第2は「願いを満たす」 第3は「光が輝き出る」です。わたしたちが心を配り、願を満たすとき、光が輝き出る、ということです。
1 まず「心を配る」ことをみてみましょう。
わたしたちはどうやって心を配ったらいいんでしょうか? ここで、カナの結婚式におけるマリアの姿を思い浮かべてみたいとおもいます。マリアこそ「心を配る」ということの模範です。
マリアは、あの結婚式の席で、ぼーっとしていたのではありませんでした。結婚式で何が起きていたのか、じーっと注意深く見ていたのです。問題が起きていたのに、お客さんはだれも気づきませんでした。問題が起きていたのに、同席していたイエス様の弟子もだれひとり気づきませんでした。じーっと注意深く見ていたマリアだけが、問題が起きたことに気付いたのです。「ぶどう酒がなくなった!」ということに。
ここでわたしたちは、反省してみなければなりません。この世界の中で、この日本の中で、この東京の中で、わたしたちの近隣社会の中で、問題が起きているのに、ぼーっとしているために、わたしたちは気づいていないんじゃないだろうか。
マリアは、注意深く観察し、思いめぐらす人でした。彼女はいつも、じーっと見ているのです。そして、問題を把握したとき、マリアは何をしたでしょうか?
イエスに頼んだのです。これを、祈りと言ってもいい。とりなしの祈りと言っていいでしょう。イエスに祈ったのです。「ぶどう酒がありません! あなたの助けが必要です!」
このマリアの心の態度に注意しましょう。わたしたちは、実は、できるだけ問題を見たくないから、見ないように、精神的に心の目をシャットアウトしているのではないですか? だって、問題に気づいてしまったら、このわたしが何か行動しなきゃいけないから。行動を起こすのは、大変なことだ。面倒には巻き込まれたくない。だから、見えているけど、見えていないことにしよう。
だが、マリアは、じーっと注意深く問題を見て、そして、何をしましたか? イエスに祈ったのです。祈りのうちに、問題をイエスのもとに持って行く。これがマリアのしたことです。これがマリアの取った行動です。
だから、わたしたちも目を大きく見開いて、世界を、日本を、東京を、わたしたちの近隣社会を、見つめましょう。注意深く見つめましょう。そこでどんな問題が起きているかを見つめましょう。そして、問題を把握したら、祈りのうちに、問題をイエスのもとに持って行きましょう。これが今日わたしたちが学ぶことのできる第一の点です。
2 その次は「願いを満たすこと」です。
マリアは「ぶどう酒が足りないのです! ぶどう酒を与えてください!」という願いを、祈りのうちにイエスのもとに持って行きました。
ところでイエス様は、十字架にかかり、復活し、人類の罪をあがなうためにおいでになったのです。別に、ぶどう酒のためにイエス様は来たのではない。これは本来のイエス様の使命とは関係ない。だからイエス様はマリアに「関係ないでしょ」と言いました。
しかし、イエス様は祈りを聴いてくださいました。わたしたちはどんな問題をイエスのもとに持って行くべきなんだろうか? ひとびとの霊が目覚め、魂が救われますように、という霊的な問題だけを持って行くべきなんだろうか? そうじゃありません。ひとびとが困っている問題であったら、どんな問題であっても、祈りのうちにそれをイエスのもとに持って行くべきなんです。
ここにわたしたちの祈り手としての召しがあります。この世界の願いを、たくさんのひとびとが抱える願いを、ひとびとの切実な願いをいったいだれがイエスのもとに持って行くことができるんですか? ひとびとの願いを、祈りのうちにイエスのもとに持って行けるひとは、どこにいるんですか?
このわたしたちをほかにして、それはないんです。イエスを信じ、イエスを愛し、イエスに結ばれているわたしたち。このわたしたちだけが、祈りのうちに、ひとびとの願いをイエスのもとに持って行くことができるんです。だから、わたしたちは、目を見開いて、立ち上がって、祈るべきです。とりなしの祈り手として、祈るべきです。「おお、イエスよ、この人の必要を、この人の願いを、満たしてください! お願いします!」と、とりなすことができるのは、わたしたちだけです。
すると、イエスは、願いをお聞きになります。イエスは、母マリアの願いをお聞きになりました。そして、「こうしてください」とイエスの願いをお示しになりました。ここに、イエスの願いが示されました。ひとびとの願いは、イエスによって聞き届けられました。そして、それへの応答として、イエスは、イエスの願いを示されるのです。
ここでは、具体的には、六つの水がめを水でいっぱいに満たす、というイエスの願いが示されました。
イエスの願いは、ひとびとの願いに対する直接的応答として出されたものです。ぶどう酒がほしいのか・それなら・水を汲みなさい。一見すると、全然結びつきがないように見える。水を汲むのと・ぶどう酒が与えられるのと・何の関係もないじゃないか? そう思ってしまう。
しかし、イエスは祈りの応答者として、主権をもってここでお命じになっている。あなたの祈りは聞き届けられた・ついては・このことをあなたはしなさいという。主権をもってイエスはお命じになるのです。
でも? しかし? どうして? なんで?と、わたしたちは思う。けれども、「わかりました。お言葉ですから、水を汲みます」というふうにならなきゃいけない。あの水汲みのしもべたちは、黙々と水を汲んだのです。水がめがいっぱいになるまで、黙々と汲んだのです。
わたしたちはこれから、克己週間の働きに入って行こうとしております。これは、水汲みのしもべの仕事ではありませんか? 水がぶどう酒に変わる瞬間が、わたしたちにはわからない。克己週間の働きをして集められたものが、南アメリカで、アフリカで、困っているひとびとの目の前で、まさに、ぶどう酒に変わる瞬間が、確かにあるんです。ああ、助かった、これで、わたしたちの切実な必要が、わたしたちの長年の願いが、これで満たされた、ハレルヤ!と、現地のひとびとが喜び叫ぶ瞬間があるんです。けれども、わたしたちはだれも、その瞬間、水がまさにぶどう酒に変わる瞬間を、この目で見ることはできない。わたしたちはそれを見れないが、ただ黙々と水を汲むのです。
3 しかし、わたしたちが水を汲み続けるならば、光が輝きでます。それが、今日の最後の点です。「光が輝き出る」という。
だれの光が輝き出るのか? わたしたちの栄光が輝き出るんだろうか? 水汲みのしもべの栄光が輝き出るんだろうか? 日本の救世軍の栄光が輝き出るんだろうか? そうじゃありません。わたしたちの主イエスキリストの栄光、主権者としての主イエスキリストの栄光が、輝き出るのです。
この栄光の目撃者は、だれですか? だれが、この栄光を目撃するのですか? 困っていたひとびとですか? 切実な願いを抱えていたひとびとですか? 困っていたひとびとは、ぶどう酒を手にすることで、ある意味、もう満足が与えられてしまいます。満足してしまう中で、彼らは、ぶどう酒が、どこから、だれによって、どのようにして来たのか、ということを問わないかもしれない。
だけれども、祈った人だけには、見えるのです。主の栄光が見えるのです。祈りが聞かれ、必要が満たされ、イエスキリストこそ生ける神であることが、この世界に目に見えて現された。その栄光を、祈った人だけが、目撃するのです。
そしてまた、水を汲んだ人も、見るのです。主の栄光を見るのです。だって、自分が汲んだのは、ただの水にすぎなかったということを、汲んだ人だけは知っているんですから。水汲みのしもべは、ひとびとの願いが満たされて喜ぶ姿のうちに、主イエスキリストの栄光を目撃するのです。
ひとびとが喜ぶ姿を、わたしたちはいろいろなところで目撃しました。ひとびとが喜ぶ姿のうちに、わたしたちは主イエスキリストの栄光を目撃しました。
だから、わたしたちは言うのです。「わが神、わが主よ」 そして「ハレルヤ、主よ、感謝します」と。その時はじめてひとびとは、気づくでしょう。「ところで、このぶどう酒は、いったいどこから来たのですか?」 すると、わたしたちは証しするのです。「それはイエスです。主イエスがそれをなさったのです」
むすびのことば
わたしたちは、もっと主イエスの栄光を見させていただきましょう。
そのために、祈る人が必要です。マリアのように、ものごとを注意深く観察して、問題を祈りのうちにイエスのもとに持って行く。祈る人が必要です。あなたは、祈る人として、今日献身を新たにすべきではありませんか?
さらに、水を汲む人が必要です。水がぶどう酒に変わる瞬間を、たといこの目で見ることができないとしても、これは主のお言葉だからと言って、ただ黙々とひたすら水を汲む働き人が必要です。あなたは、水を汲む人として、今日献身を新たにすべきではありませんか?
そうして、証しする人が必要です。主の栄光が現されたとき、それが、わたしたちの栄光ではない、だれの栄光でもない、それは主の栄光である、ということを認めて、「それはイエスです。それはイエスがなさったのです」と証しする人が必要です。あなたは、主の証し人として、今日献身を新たにすべきではありませんか?
お祈りいたしましょう。