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Channel: Major Mak's Diary
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音楽祭で朗読した詩

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Who is it praying for me?

わたしのために祈っているのはだれ?
その方は、もだえ苦しんでゲッセマネで祈っている
ああ、わたしのために祈っているのはだれ?
イエスさまが
柔和で謙遜な救い主が
いのちをかけて、わたしのために祈ってくださる

わたしのために死んでくださったのはだれ?
その方は、痛みのうちにカルバリで死んでくださった
ああ、わたしのために死んでくださったのはだれ?
イエスさまが
贖い主が死んでくださった
自ら進んで、わたしのために死んでくださった

作:R.L.ルスト中佐 
出典:The Musical Salvationist, vol.LX, p.10.


On the Cross of Calvary

カルバリの十字架でイエスは死なれた
あなたとわたしのために
そこにて主は、尊い血を流してくださった
わたしたちが罪から解き放たれるために
ああ、罪をきよめる川が流れる
雪のように白く洗う流れが
このわたしのために、イエスは死なれた
カルバリの十字架の上に
カルバリに カルバリに
このわたしのために
イエスは死なれた
カルバリの十字架の上に

ああ、なんと驚くべき愛だろう
わたしはイエスの足もとにひれふす
ああ、死んでくださるほどの愛のゆえに
完全な犠牲が求められている
ここにいま自分自身をあなたにささげます
身も心もすべて、あなたのものです
このわたしのために、あなたは血を流してくださった
カルバリの十字架の上に
カルバリに カルバリに
このわたしのために
イエスは死なれた
カルバリの十字架の上に

作:セーラ・ジーン・グレアム
出典:The Song Book of The Salvation Army, #128.


Here at the Cross

どうしたらあなたに、より良くお仕えできるでしょう、主よ?
あなたはこんなにもわたしに、良くしてくださいました
わたしの働きは、弱く、よろめくものですが
ああ、わたしの生き方であなたの証しができますように!
いまこの聖なる時に
十字架のもとに立っています
生ける力の源である十字架のもとで
わたしは力なく立っています
助けを求めていま立っています
主よ、あなたにお仕えできるように
わたしを変えてください

わたしの耳は鈍くなって、あなたの御声が聴けません
わたしの手は弱くなって、あなたの仕事が果たせません
わたしは足を重く引きずり、カルバリへと続く道に
一歩進み出すことができません
いまこの聖なる時に
十字架のもとに立っています
生ける力の源である十字架のもとで
わたしは力なく立っています
助けを求めていま立っています
主よ、あなたにお仕えできるように
わたしを変えてください

作:ハーバート・ブース、W.A.ウイリアムズ
出典:The Song Book of The Salvation Army, #488.


クリスマスの準備をしよう!

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聖句 イザヤ9:1-6

クリスマスが近づいて来ました。来週はいよいよアドベント~待降節の第一週です。クリスマスの楽しみは、クリスマスを準備することそのもののうちに、あるのではないでしょうか?

アメリカにターシャ・チューダーという、とても素朴な暮らしをしていた作家がおります。ひとりで自給自足の生活をしながら80冊以上の本を書いた人で、2008年に92歳で天国に召されました。彼女は毎年クリスマスが近づくと、ツリーの飾りが入った箱を取り出して、準備に取りかかります。箱の中には、彼女のお父さん・お母さんの代からずっと使っているツリーのガラス玉やリボンが大切にしまってあります。ガラス玉がどんなにこわれやすいか! リボンがどんなによごれやすいか! でも彼女は100年前のツリーの飾りを大切に大切に使い続けていたのです。彼女はとっても心をこめてクリスマスの準備を楽しんでいたんですね。

わたしたちも、来週のアドベント第一週に向けて、ツリーを飾ることを始めたいと思います。そこで、今日はツリーについて3つのことを考えてみましょう。

1 ひとつめは、ツリーの光です。

16世紀のことです。ドイツの宗教改革者マルチン・ルターが、クリスマスの近づいたある晩のこと、夜空をながめながら散歩しておりました。闇の中にきらきらと輝く星を見て、ルターは、その輝きをツリーの上に移すことができないものかと考えました。家に帰るとツリーの枝にキャンドルをとりつける工夫をしました。点々とまたたくロウソクの光で黄金色に輝くツリーが、その晩、生まれたのです。

聖書のヨハネによる福音書第1章4節と5節にこう言われています。

「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている」

わたしたちの生活、わたしたちの将来は、この先どうなってしまうんだろう。そういう不安が心を覆っていて、心が暗くなってしまいますね。自分のダメさ加減に失望したり、自分の心の醜さに嫌気がさしたりして、いよいよ心が暗くなってしまいますね。まさに暗闇です。

でも、暗闇の中にあって、わたしたちに命を与えるために輝いている光があるのです。それが、クリスマスにお生まれになった方、イエス・キリストです。キリストは十字架につけられたが、三日目によみがえって、わたしたちに永遠の命の希望を与えてくださいました。命を与えてくださるキリスト。このお方こそ、闇の中に輝く光です。ツリーに使われるのは、常緑樹と決まっています。厳しい冬の中にあっても、緑の色を失うことなく、枯れることなく、寒さを耐え抜いて、復活の春を迎える。それが常緑樹です。わたしたちは、イエス・キリストを心の中にお迎えするとき、常緑樹のように、永遠の命を生きるものとされるのです。

2 ふたつめは、ガラスの玉です。

ツリーには赤いガラスの玉をつりさげますが、もともとは、赤く熟したリンゴをつるしていました。いまでもドイツの古い教会では、ほんとうのリンゴをツリーにつるすところがあります。

ツリーにつるされた赤いリンゴは、永遠の命の実をあらわしています。

わたしたちの最初の父と母であるアダムとエバは、エデンの園で、神様から食べてはいけないと言われていた「善悪の知識の木」になっていた実を食べてしまいました。そして、エデンの園から追われてしまいました。

歴史に「もし」はありませんけれど、もしアダムとエバが、神様のお言いつけのとおりまもっていたら、どうなっていたのでしょうか? 実は、エデンの園には、もうひとつ大切な木が生えていました。それが「永遠の命の木」です。もしエデンの園を追われることがなかったら、アダムとエバは「永遠の命の木」の実を食べて、大きな恵みと祝福を受けていたことでしょう。

「永遠の命の木」の実は、大きな恵みと祝福を表しています。それは、わたしたち人間が、神様とまったく何のへだてもない心のまじわりをして、大きな恵と祝福を心に深く味わうことができる。それを表しています。

いまのわたしたちの心はそうではありませんよね? わたしたちの心は「善悪の知識の木」の実を食べたので、いつもこんな具合です。「こうなったのは、あいつのせいだ」「ああなったのは、こいつのせいだ」「いつも、あいつがわるいんだ」「あいつさえいなければ」「こいつさえ死んでしまえば」 ぜんたい祝福を恵みを感じるどころではありませんね。

こんなわたしたちの心を救ってくださるのが、イエス様です。イエス様は十字架に身代わりにかかって、わたしたちの罪深さ、愚かさを、すっかり全部ゆるしてくださいました。だから、おまえたちも互いに赦しあいなさい。わたしが赦したように、おまえたちも赦し合いなさい。そうイエス様はおっしゃっておられます。

何のわだかまりもない心。それが欲しいですよね。大きな恵みと祝福を深く実感できる心。「永遠の命の木」の実を、イエス様がわたしたちに食べさせてくださいます。

3 みっつめは、ツリーのてっぺんの星です。

今年のクリスマスは、世界中でいったい何本のツリーが飾られるのでしょう。しかし、どのツリーにも、てっぺんには必ず大きな星がつけられています。

この星こそは、三人の博士たちを赤ちゃんイエス様のところにまで導いた、ベツレヘムの星を表しています。

聖書のマタイによる福音書第2章9節にこうあります。

「彼ら(三人の博士たち)が王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子(イエス)のいる場所の上に止まった」

三人の博士たちは、古代における最高の天文学者であり数学者でありました。その卓越した知識と能力でもって、三人の博士は、救い主となる幼子がユダヤの国に生まれることを割り出しました。

しかし残念ながら、幼子イエス様と、どこでどうしたら会うことができるのか、最後の最後のつめをすることが三人の博士たちには、どうしてもできませんでした。天文学の限界。数学の限界。知識と能力の限界ですね。そういうわけで、博士たちはラクダに乗って幼子を探す旅を始めたものの、正確な場所はわからないままの見切り発車だったのです。ですから、博士たちはエルサレムに寄って、ヘロデ王にまみえて、幼子はどこですか、と質問しなければならなかったのです。

人間を照らす光であるイエス様。暗い闇のようなわたしたちの心をあかるく照らすことのできるイエス様。どうしたらそのイエス様に会えますか? 

大きな祝福と恵みの経験を。「永遠の命の木」の実を味わう幸せを、わたしたちに与えることのできるイエス様。どうしたらそのイエス様に会えますか?

世界には頭のいい人たちがたくさんおります。頭が切れる人たちがたくさんおります。しかし、人間の知識、人間の能力では、最後の最後のつめをすることがどうしてもできません。

わたしたちが、ほんとうに真実にイエス様に出会うためには、わたしたちはどうしても、ベツレヘムの星によって導いてもらわなければなりません。

聖書はこう言っています。

「彼ら(三人の博士たち)が王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子(イエス)のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた

神様は、わたしたちの心に光を照らし、わたしたちの心をとらえ、思いをとらえて、イエス様のもとへと導いてくださいます。すると、わたしたちはなぜだか素直な思いになって、単純な思いになって、イエス様を心の中へお迎えすることができるようにされるのです。「ああ、ほんとうだ。ほんとうにイエス様はわたしのために十字架にかかって、よみがえってくださった。イエス様こそわたしの救い主だ」 そのことがほんとうにわかって、わたしたちの心は喜びにあふれます。これが、ベツレヘムの星の奇跡です。ベツレヘムの星は、わたしたちの心に働いてくださる不思議な聖霊のみわざを表しておりましょう。

むすび

わたしたちの心の中へ幼子イエス様をお迎えするために、クリスマスの準備を始めましょう。ツリーにキャンドルをともし、ガラス玉をつるし、ベツレヘムの星をつけましょう。わたしたちの心にも、神様のみちびきの光、聖霊の光をいただいて、イエス様をみつけ、イエス様を心の真ん中にお迎えすることができますように。そのようにして、ほんとうのクリスマスをお祝いできるようになりたいものです。お祈りいたしましょう。

イザヤ9:1-6「クリスマスの準備をしよう!」

百倍楽しいクリスマスの過ごし方

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聖句 テサロニケ一4:13-18

かつらを売っていないアデランス。中華料理のない横浜中華街。大島優子のいないAKB48。想像することができますか?

しかし、想像できないことが毎年日本で起きています。それは、イエス・キリストのないクリスマスです。クリスマスは、英語でクライスト・マスと書きます。クライストはキリストのこと。マスはミサ、礼拝のことです。クライスト・マス。クリスマス。それは、キリストを礼拝する日、という意味なんです。

クリスマスはとても楽しいですね。ツリーにカロルにケーキにプレゼントがあります。でも、そのすべての真ん中にイエス・キリストを置くならば、クリスマスは百倍、千倍、楽しくなります。

そこで、今日はクリスマスを何倍も楽しむ秘訣をご一緒に考えてみましょう。クリスマスを何倍も楽しむ秘訣。ツリーをもう一本買うことですか? ケーキをもう一個買うことですか? プレゼントを奮発することですか? そうではありません。クリスマスを何倍も楽しむ秘訣は、わたしたちの心の持ち方にかかっています。

クリスマスを何倍も楽しむのに大切な、心の持ち方。それは、待ち望む姿勢です。

待ち望む姿勢を持つことです。クリスマスの季節をキリスト教会では「アドベント」と言います。アドベントとはラテン語で、おいでになる、という意味です。イエス様がおいでになるのを待ち望む。それがアドベントです。

イエス様がおいでになるのを待ち望む。これには実は二重の意味があるのです。
基本的には、12月25日にイエス様がユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶にお生まれになるのを待ち望む。これがアドベントです。

もうひとつの意味は、世の終わりにイエス様がふたたびおいでになる。その日を待ち望む。その日のことをキリスト再臨の日と言いますけれど、再臨の日を待ち望む。これもアドベントです。

今日お読みいただいた聖書、テサロニケの信徒への手紙一第4章13節から18節は、キリスト再臨の日の様子を描いています。

やがて世の終わりの日に、イエス様が王の王、主の主として、再びおいでになります。そのとき、天使たちが合図のラッパを宇宙全体に鳴り響かせます。クリスマスのツリーやケーキの飾りに、ラッパを吹く天使の人形があるでしょう? これは、世の終わりの日に天使が吹くラッパのことを意味しているんです。

合図のラッパが鳴り響くと、わたしたちはみんな集められて、イエス様の前に立たされます。そして、ひとりひとり、自分に与えられた人生をどのように生きたか、イエス様に申し開きしなければなりません。

自分の人生をどのように生きたかを申し開きする。このことを英語でアカウンタビリティーと言います。会計報告をする、という意味もあるんです。

いまでこそすべての企業は会計報告をしますけれど、中世の初めころは全然そうじゃなかったんです。中世の初めのころは、企業会計と家計とがいっしょくたになっていて、どんぶり勘定だったんですね。

でも、中世の中ごろになって、人々はキリスト再臨の日のことを真剣に考えるようになりました。世の終わりの日が来たら、自分に与えられた人生、自分に与えられた時間をどう使ったのか、イエス様に全部説明しなくちゃいけない。イエス様に説明するためには、いまから、きちんと記録をつけて、帳尻を合わせておかないといけない。こうして人々は、どんぶり勘定をやめて、企業会計と家計をきちんと分けて、会計報告書を作成し、日記をつけるようになりました。この会計報告書はドゥームズデー・ブックと呼ばれることがありました。ドゥームズデー・ブックとは、キリスト再臨の日の報告書、という意味です。

中世の中ごろに、エリギウスという、とても腕の立つ金細工師がいました。フランク王国のクロタールという王様が、この金細工師に黄金のかたまりを預けまして、王座をひとつ作るように注文しました。エリギウスは預かった黄金で王座をひとつ作りましたが、黄金が余ったので、同じ王座をもう一つ作って、王様に納品しました。王様はとても驚きました。余った黄金をふところに入れて黙っていても、わからないはずなのに、なんてこの金細工師は馬鹿正直なのだろう! そう思ったのです。

だれも見てないと思っていても、イエス様はちゃんと見ている。そのイエス様が再び来られる日に、わたしたちは、自分に預けられたものをどう使ったか、全部申し開きしなくちゃいけない。エリギウスは、そう信じていたんです。だから、毎日仕事をするときに、イエス様を待ち望む姿勢で、仕事をしていたんです。だから、嘘やごまかしをしなかったんです。このエリギウスは後に聖人にあげられて、今日では、仕事をするすべての人の守護聖人とされました。

王様は金細工師エリギウスを心から信頼できると思ったので、彼を宮廷の顧問官に取り立てました。フランク王国の宮廷顧問官になったエリギウスは、何をしたと思いますか? クリスマスに歌う「もろびとこぞりて」というカロルの中に、「とりこをはなつと主は来ませり」とあります。イエス様が来られたのは囚人たちを解放して自由にするためだ、という意味ですね。当時、フランク王国はいつも戦争していて、国の中には捕虜がたくさん留め置かれていて、奴隷として市場で売られる捕虜たちもいました。エリギウスは、そうした捕虜を自由にするために、自分の財産を売って、身代金を肩代わりして、捕虜を解放してあげました。

なんでそこまでしたんでしょう? エリギウスは、自分が神様の前に罪深いものだ、という自覚を持っていました。そして、救い主イエス様は、この自分をゆるすために、身代わりに十字架にかかってくださった、そして、よみがえってくださった、そうエリギウスは心から信じていました。

イエス様は、罪の奴隷、悪魔のとりこ、囚人であったわたしを、自由にしてくださった。だから、わたしもほかの人を赦してあげないといけない。わたしも捕虜や囚人を自由にしてあげないといけない。

キリスト再臨の日に、わたしたちはイエス様の前に立たされます。イエス様はおっしゃいます。わたしはあなたを赦すために、身代わりに十字架につきました。わたしがあなたを赦したように、あなたもほかの人を赦しなさい。そう言っておきました。ところで、あなたは、どのように生きてきましたか?

エリギウスがもうひとつしたことは、フランク王国の村々をめぐって、そこかしこに打ち捨てられている死刑囚の遺体を、きちんと葬って、丁寧におとむらいをすることでした。犯罪人の遺体は、そのへんに放っておけばよい、と当時の多くの人は考えていたのに、エリギウスは違っていました。

神のひとり子、王の王、主の主であるイエス様が、十字架にかかり、よみがり、わたしたちの罪をつぐなってくださった。このイエス様に望みを置くならば、どんな人でも救われる。死刑になるような犯罪人といえども、まったく希望がないわけではない。死刑になる直前に、心から自分の罪を悔いて、イエス様にすがる気持ちになっていたなら、イエス様は必ず救ってくださるはずだ。キリスト再臨の日には、彼らもまたよみがえるにちがいない。

そう信じて、エリギウスは犯罪人の遺体を丁寧におとむらいしたのです。

エリギウスの生き方は、どこから来たのでしょうか? イエス様のおいでを待ち望む。待ち望む姿勢から来ていたのです。エリギウスの生き方は当時の多くの人々の心を打ちました。だから彼は平信徒であったのに、ノヨン・トゥルネーの司教に任命されるに至りました。

クリスマスは、一年の終わりの喜びのときです。一年の終わりにあたって、わたしたちは、自分に与えられた人生、自分に与えられた時間を、どのように使ってきたか、考えてみましょう。たくさん罪や、失敗や、恥ずかしいことがあったかもしれません。だから、わたしたちの身代わりに十字架にかかって、ゆるしてくださったイエス様に、おすがりしましょう。自分の愚かさや足りなさを、イエス様に告白して、悔い改めのお祈りをいたしましょう。そして、ゆるしていただけることを喜びましょう。これがクリスマスにすべきことの第一です。

第二は、自分がゆるしてもらったのなら、同じようにほかの人のこともゆるさないといけない、ということです。この一年に、自分を傷つけた人、いやなことを言った人、自分を裏切った人、敵対して来た人が、たくさんいるでしょう。キリストがわたしをゆるしてくださったのだから、わたしもこの人をゆるします。そういう心になれるように、お祈りいたしましょう。これがクリスマスにすべきことの第二です。

そうすることによって、わたしたちは晴れ晴れとした心になって、イエス様がおいでになる日、キリスト再臨の日を迎えることができるはずです。これが待ち望みの姿勢です。イエス様を待ち望む姿勢を持つことによって、わたしたちは百倍も千倍も楽しいクリスマスを迎えることができます。どうか今年のクリスマスが、そのようなクリスマスとなりますように!

テサロニケ一4:13-18「百倍楽しいクリスマスの過ごし方」

カロル・サービス

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ロンドンのロイヤル・アルバートホールで救世軍のカロル・サービス(礼拝)が行われました。カロルとは、クリスマスに歌われる讃美歌のことです。

礼拝の模様は、英国各地のBBC地方局でラジオ放送される予定です。

ユーロビジョン・スイス代表に救世軍が選ばれる

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ヨーロッパの歌の祭典「ユーロビジョン・ソングコンテスト」2013年大会に、スイス代表として救世軍のボーカルグループが出場することになりました。

スイス代表最終選考会で37.5パーセントの得票で選ばれました。

ボーカルグループの名前は「救世軍」(ドイツ語でHeilsarmee、フランス語でArmée du Salut)で、全員がスイスの救世軍人(キリスト教会の信者に相当)です。

ウッドベースを担当しているエミル・ラムゾイヤは、なんと94歳です(!)

ユーロビジョンの本大会は2013年5月にスウェーデンのマルメで開催され、そこで優勝者が決定します。スイス代表が優勝したのは1988年のセリーヌ・ディオン(カナダ人)が最後となっています。


スイス代表最終選考会で歌っている「救世軍」です。

ウェストミンスター寺院でのカロル・サービス

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ホワイトホール・カロル・サービスが12月19日夜にウェストミンスター寺院で開催されました。

「ホワイトホール」はロンドンの官庁街で、そこで働くキリスト者の政治家と役人のためのカロル・サービス(クリスマスの讃美歌を歌う礼拝)が毎年ウェストミンスター寺院で行われています。

ウェストミンスター寺院聖堂参事会長ジョン・ホール博士が開式の辞を述べました。

救世軍万国総督リンダ・ボンド大将が説教しました。

地方自治省事務次官ボブ・カースレーク卿が創世記2章4節から9節と15節から25節を朗読。
文部大臣マイケル・ゴーヴ下院議員がイザヤ書9章1節から7節を朗読。
厚生省事務次官ユナ・オブライエン氏がマタイ福音書1章18節から23節を朗読。
影の内閣の雇用担当大臣ステファン・ティムズ下院議員がマタイ福音書2章7節から12節を朗読。
年金担当大臣スティーブ・ウェッブ下院議員がヨハネ福音書1章1節から14節を朗読。

ウェストミンスター寺院聖堂参事会員アンドリュー・トレムレット師が祈りを導き、イングランド・ウェールズ法務長官ドミニク・グリーブ閣下、法務省事務次官ウルスラ・ブレナン氏、外務省政務次官アリステア・バート下院議員らが連祷を唱えました。

近衛歩兵第一連隊ラッパ手がファンファーレを奏で、ウェストミンスター寺院の特別聖歌隊が歌いました。

歌われた讃美歌の中には「ダビデのまちの」「ああベツレヘムよ」「オー・ホーリーナイト」「かみのみこは」「あめにはさかえ」など、日本でもなじみのあるカロルも歌われました。

礼拝式次第(英語)

一年の生活を反省しよう

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聖句 ヨハネ一1:5-10

はじめに

神様のおめぐみによって一年間の歩みが守られたことを感謝いたしましょう。それにしても、からだの調子が今年はちょっと悪かったな、という人もあるかもしれません。まあ、新ビオフェルミンSを飲んでるから大丈夫だろ、という気楽な考え方をするのもよいでしょうけど、思い切って人間ドックに入って、血を取って、レントゲンを撮って、からだのどこが悪いかはっきりさせることも大切ですね。

わたしたちの霊魂についても同じではないでしょうか。イエス様を信じているんだけれども、なんとなくめぐまれないんだ。そういう霊魂の状態というものがございます。めぐまれないことの原因はどこにあるんだろう。この一年の最後のご聖日にあって、その原因をみきわめて、反省いたしまして、神様からすっかり赦していただいて、新しい心持ちになって、新年を迎えたいものです。

反省するポイント

わたしたちの霊魂の状態を探るにあたって、大切な聖書のおことばがあります。旧約聖書の詩編139編23節と24節をお読みいたします。

「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。御覧ください、わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしをとこしえの道に導いてください」

いまどうか神様がわたしたちの心を探ってくださって、わたしたちの霊魂の状態を光の中において明らかにしてくださるように願いましょう。その上で、これから上げるひとつひとつのポイントについて、静かに反省することにいたしましょう。1から27まであります。

(1)わたしは忠実に日曜日の礼拝に出席して、心から神様を礼拝していただろうか?

(2)わたしは神様のお名前を軽々しく唱えたりすることがなかっただろうか?

(3)わたしは毎日心を神様に向けて、お祈りして、いつでも祝福を求めていただろうか?

(4)わたしは毎日聖書を読み、神様の御心を尋ね求め、神様の御心に従おうと努力を払っていただろうか?

(5)わたしは日々の生活の小さなことの中にも神様の愛とおめぐみを見出すようにして、ふさわしい感謝と賛美をささげていただろうか?

(6)わたしは自分に必要なものはなんでも与えられると信じて、神様に率直に祈り求めていただろうか?

(7)わたしは嘘をついたり、うわさばなしをしたり、ひとの陰口をたたいたりしていなかっただろうか?

(8)わたしはひとを裁いて、心に恨み深く思ったりしていなかっただろうか?

(9)わたしは身近な人を、しかりつけたり怒鳴りつけたりして、みじめな気持にさせていなかっただろうか?

(10)わたしの間違った振る舞いを見て影響されたひとが、それをそのまま真似るようなことがなかっただろうか?

(11)わたしはひとのものを盗まなかっただろうか?

(12)わたしは年上のひとに対してふさわしい尊敬の念を示していただろうか?

(13)わたしはひとや自分の家族が困っているときに、すぐに気付いて助けてあげることができただろうか?

(14)わたしは結婚生活から外れた間違った性的な振る舞いをしなかっただろうか?

(15)わたしは異性に対して、いつも尊敬の念をもって言葉を話し、尊敬の念をもって振る舞っていただろうか?

(16)わたしは自分の信仰をひとに対して積極的に証ししていただろうか?

(17)わたしは自分の命と健康を大切にし、ほかのひと、特に自分の家族の命と健康を大切にしていただろうか?

(18)わたしは自分の果たすべき務めを、なまけないできちんと果たしていただろうか?

(19)わたしは自分がするすべてのことを、利己心からではなく、神の愛に
に動機づけられた思いで行っていただろうか?

(20)わたしはアルコールや薬物を濫用したりしなかっただろうか?

(21)わたしは自分に与えられた能力や才能を無駄にしていなかっただろうか?

(22)わたしは自分の心と思いから悪いものを遠ざけ、いつも良いもので心と思いを満たしていただろうか?

(23)わたしは感情や気分に支配されないで、感情や気分をきちんとコントロールしようとしていただろうか?

(24)わたしは自分の時間とお金を無駄なことに用いていなかっただろうか?

(25)わたしはみだらなものを見たり、行ったり、空想にふけったりしていなかっただろうか?

(26)わたしが見たテレビや映画や雑誌は、悪いものではなかっただろうか?

(27)わたしは自分の生活や家族や地域社会に影響をもたらすような大事な出来事や、政治・文化・経済の動きに対していつでも関心を持って、ふさわしい理解を持てるように努力を払っていただろうか? 

反省したあと

以上27のポイントに沿って、わたしたちは今年一年の歩みを反省いたしました。心が痛むことばかりですね。

心が痛む、つまり、良心が痛むということですけれども、わたしたちは、良心に痛みや曇りがあるならば、それによって、気分は沈み、神様のおめぐみを感じるのが難しくなります。神様のおめぐみが消えてなくなるわけではありません。良心というのは、天井の窓ガラスのようなものです。天井の窓が透明だと、太陽の光がさんさんと注ぎます。でも、天井の窓が汚れていると、光は入ってこないで、部屋の中は真っ暗です。太陽が消えたわけではありません。太陽はかがやいています。でも、窓が汚れていると、暗くなるのです。良心もそれと同じです。良心に痛みや曇りがあると、神様のおめぐみをわたしたちは感じ取れなくなってしまいます。

わたしたちがするべきことはヨハネの手紙一第1章9節に明瞭に示されています。それはこれです。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」

神様に感謝しましょう。わたしたちの今年一年のいろいろな弱さや失敗や愚かさや罪を、イエス様はすべて受け取ってくださいます。イエス様はそれらをすべてご自分の身の上に担って、十字架で死んでくださいました。三日目に復活してくださいました。わたしたちは、イエス様の十字架によって、すべて赦していただくことができます。わたしたちの礼拝の場所の中心にいつも十字架がかかげられているのは、このためです。

こうして、わたしたちは、良心の痛みと曇りから解放されて、透明な良心を持つことができます。神様のめぐみの光を心にいっぱいいただくことができるようになります。

わたしたちは今日27のポイントに沿って反省いたしました。そして、自分の間違いをイエス様によって、すべて赦していただきました。赦していただいたことについては、心を新たにして、来年同じ過ちを繰り返さないように気を付けなければなりません。

わたしはあるとき、めいちゃんという小さな女の子がお口をもぐもぐさせているので、「あんた、おいしそうにもぐもぐしているねえ。なに食べてるの? みせてごらん」と言いましたら、舌をべーっと出して、その上に安全ピンがのっていました。

神様は愛と赦しの神様ですから、神様はこう言うでしょうか。「あら、安全ピン食べてたの? いいよ、いいよ、見なかったふりしてあげるから。そのままもぐもぐしてらっしゃい。だいじょうぶ、だいじょうぶ」 そうおっしゃる神様でしょうか? そうじゃありませんね。「だめじゃないか、べーって吐き出しなさい。べーって」そうやって吐き出させるでしょう? そうして「二度と安全ピンなんか食べちゃあだめだよ」と言うでしょう?

わたしたちは、今年一年の間違いを全部神様に赦していただくことができます。すっかり、全部、残らず赦すために、イエス様は十字架にかかって、尊い命でもってつぐないをしてくださいました。

すっかり赦していただけるからといって、新しい年に平気で同じ間違いを繰り返してはいけません。「二度と安全ピンなんか食べちゃあだめだよ」ということであります。

むすびのことば

どうかわたしたちは心と思いを新たにされて、新しい気持ちで、新しい一年に取り組んでまいりましょう。もちろん、わたしたちは自分の力でそれができるわけではありません。そのために神様は聖霊の力をわたしたちに授けてくださっています。いつでもお祈りして、聖霊の力をいただいて、そうして、間違いや誘惑に対して勝利させていただきましょう。そうして、神様のおめぐみにより来年の最後の日曜日を迎えたときには、自分が今年と比べてみて、どれぐらい進歩することができたか、再びかえりみる時を持ちたいものです。お祈りいたしましょう。

救世軍問答8

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問い 天国にはどなたがおられますか?

答え 天国には神様と、天のみ使いたち、その他、この世で心から神様を愛して仕えていた人たちがいます。

≪解説≫

天国には父なる神、子なる神イエスキリスト、聖霊なる神がおられます。

また、天使たちがいます。天使は目には見えませんが、神様のもとからつかわされて、いつもわたしたちのことを見守ってくれている超自然的な存在です。

そして、神を愛して地上の人生を歩み、死んだ人たちが、天国に永遠に住んでいます。

天国にいない人たちは、だれでしょうか? 悪魔は天国にはいません。また、神を憎んで地上の人生を歩み、悪を行い、少しも悔い改めることなく死んだ人たちは、天国にはいません。

イエス様を信じて生きる

昨年の私的十大ニュース

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第十位 英国国教会総会、女性主教叙階を否決。

第九位 マヤ暦で世界、滅びず。

第八位 ビリー・グラハム伝道協会、モルモン教をカルト名簿から除外。

第七位 ダビデ張のオリベット大学、ベタニー大学購入に失敗。

第六位 オリベット大学、グロリエタ・カンファレンスセンター購入に失敗。

第五位 韓国基督教総連合会と韓国教会連合の分裂が決定的に。

第四位 韓国福音主義協会(KEF)が韓国基督教総連合会から脱退。

第三位 米福音派月刊誌クリスチャニティトゥデイがダビデ張の再臨キリスト疑惑の詳細な調査報道を掲載。

第二位 カトリック、英国国教会の属人区を設置。

第一位 教皇、ツイッターを開始。

謹賀新年

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「マヤ暦が切れても失せぬ社会鍋」

という俳句を詠んで終えた2012年でしたけれども、新年にあたってご挨拶を申し上げるに際して、わたくしは2011年の新年のご挨拶をまったくここへ再掲することといたしました。

なんとなれば「状況」は、まったく変わっておらないためであります。

そういうわけで、わたくしどもはどうか2013年におきましても、主イエスキリストの再臨の希望にまっすぐ顔を向けながらも、地に足をつけて、何時でも平常心でもって、国家と社会と隣人に対する自己の責務を精々怠らず果たして行きたいものです。

<以下全部再掲>

謹んで新年の賀詞を申し上げ、皆様にこの一年ご多幸あらんことをお祈りいたします。

さて、2011年は所謂「終末預言」というのが教界においてブームになるような気がいたしますが、いつでも絶えず常に主イエスキリストのご再臨に対して準備万端整っているということは信仰者として是非とも必要なことでありますけれども、かえって、ただいたずらに終末的気分、厭世的気分、悲観的気分を焚き付けるだけに奔って、信者に安易に日常細事の義務を放棄させるがごとき「終末預言」というのは、これはずいぶん考えものだ、というのが小生の立場であります。

では、われらの主イエスキリストご自身は、この「終末預言」の問題について、何とおおせられているのであるか?

これについては新約聖書正典の中でもマタイ伝第24章に詳しく記されていますから、それをお読みいただいたら良いのだけれども、特にそこの文意で最大注意すべきは、第6節の「慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」という主のお言葉であります。

この主のお言葉を正当に解釈するなら、これこれこういうことが起こっても、まだ世の終わりではないんだから、慌てちゃいかんよ、ということであります。

で、「これこれこういうこと」というののリストが次の第7節から第14節にかけて展開されているのでありまして、それをいまここに整理して掲げるとするなら、こういう具合になります。すなわち

1.民は民に、国は国に敵対して立ち上がるが、まだ世の終わりではない。
2.方々に飢饉や地震が起こるが、まだ世の終わりではない。
3.信者は苦しみを受け、殺されるが、まだ世の終わりではない。
4.主イエスの御名のゆえに、信者はあらゆる民に憎まれるが、まだ世の終わりではない。
5.多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになるが、まだ世の終わりではない。
6.偽預言者が大勢現れ、多くの人を惑わすが、まだ世の終わりではない。
7.不法がはびこり、多くの人の愛が冷えるが、まだ世の終わりではない。
8.主イエスキリストの福音が全世界に宣べ伝えられて、ようやく終わりのきざしが見えてくる。

こういうふうに、この世界にどんだけ悲惨かつ悲観的な惨事が連続的に起きたとしても「まだ世の終わりではないんだから、慌てちゃいかんよ」というのが、主のお言葉の文意であるわけでして、これは、現実的楽観主義とでも言うべきものであります。すなわち、悲惨かつ悲観的な惨事が全然起きないと言うておるんではない。むしろ、悲惨かつ悲観的な惨事が連続的に起きるんだ、と言うてるんである。だから夢想的ではない。悲惨な現実を直視している。それを見てしかもなお「まだ世の終わりではない」とするわけですから、これは夢想的楽観主義でなくして、現実的楽観主義であります。

問題は、第14節の解釈次第でありますけれども、ここへ「福音が全世界に宣べ伝えられて」とあるもんだから、ひとの中には「インターネットや衛星放送で世界へ隈なく福音が宣教されている現今こそ終わりの時である」と言う向きがあります。確かにそうなんですけれども、しかし、そのこと自体は、終わりのしるし、というよりはむしろ、「終わりの始まりのための前提条件」というべきでありましょう。すなわち、世界宣教の達成イクオール終わり、というのではなくってして、世界宣教の達成イクオール終わりの始まり、ということであります。

でもって、じゃあ、いよいよ本当に「世の終わり」が到来するという段になったら、いったいどういうことが起こるのか。主イエスは、それについては第29節以下第34節までで述べておられます。いまそれらを整理して提示するならば、こういうふうになります。すなわち

1.太陽が暗くなる。
2.月が光を放たなくなる。
3.星々が空から落ちる。
4.天体が揺れ動く。
5.主イエスキリストが大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来られる。
6.天使らが合図のラッパを吹き鳴らして、主につける者らを世界から呼び集める。

という、これらの「しるし」を全部目にしたら、その時こそ、いよいよ本当に「世の終わり」が来たんですよ、ということであります。

われらはこの主のお言葉を真面目に受け取らなければならないんでありまして、もし今年、誰かがわれらに近づいて来て、「もう世の終わりが来ているんだから、勉強することも、仕事することも、社会保険を払うことも、人生計画を立てることも、全部無駄だ。すべて引き払って、山に篭って、ひたすら祈って、終わりを待つしかないんだ」というふうに警告する人がいるか知れない。

そういう時には、われらはこう切り返してやらなきゃならんのです。すなわち

「おお、君よ。空を仰いでごらんなさい。おてんとうさまが暗くなったかね? おつきさまが光らなくなったかね? おほしさまが落っこちてきたかね? 夜空の星という星がグラグラ揺れているかね? イエスさまが光る雲に乗って大勢の聖徒と天使らを従えて空から降りて来るさまが君の目に見えるかね? 見えないだろう。見えないんだったら、君は、しっかり勉強せんきゃならない。懸命に仕事して金を稼がなきゃならない。社会保険も税金も遅滞なく払わなきゃならない。人生計画をしっかり立てて老後をどうするか熟慮せんきゃならない。それが信者としての君の義務だ!」

つまり、この2011年に世界にどんなに悲惨かつ悲観的な惨事が連続的に起きたとしても、われらは、われらの日常細事の義務を精精続行しなきゃならないんでありまして、なんとなれば、主イエスご自身がおっしゃったとおり「まだ世の終わりではないんだから」ということであります。

ひとつ例話を申し上げれば、第二次世界大戦が起こってロンドンが空襲により焦土と化し、救世軍の万国本営もまた瓦礫となったんですけれども、「これはハルマゲンドンの戦いであって世の終わりだ」と思う信者が全然無かったわけではない。しかし当時の救世軍の大将は何と言うたかというと、「事務は平常通り」ということでありました。これすなわち、あらゆるものが破壊され焼け落ちるというふうに物事が悲観的に進んだとしても、なおわれらは日常細事の義務を、あたかも何事もなかったかのごとく忠実に励行するんだ、という行き方であります。そうしてわれらは、ただこの「忠実」という一点だけにおいて、主イエスキリストのご再臨に対する全き備えが出来ていることになるんだ、というんであります。ご再臨の主が注視していたもうのは、「汝は忠実なる僕でありしや否や」というただ一点だけであります。槍が降り、爆弾が降ったから、何もしないでじっとしてました、という僕ではない。槍が降り、爆弾も降ったが、それでも事務は平常通りやりました、という僕であります。

もちろん、われらが勉強も仕事も納税も人生設計も放り出してよいという「時点」が、無いわけではない。それがすなわち、太陽が暗くなり、月が光を失い、星が落ち、天体が揺れ動き、主イエスが光る雲に乗って降りて来られるという、その「時点」であります。その時点にわれらが立ち居合わせるならば、確かにわれらはもう勉強どころではない、仕事どころではない、納税どころではない、人生設計どころではない。ただ主の栄光のお姿にあっけにとられ、ただ随喜の涙を流すばかりでありましょう。

だがそれは、そういう「時点」が来る前までは、われらは絶対に何でも放り出しちゃいかん、ということなのであります。

<以上全部再掲>

テラピムを地に埋めよ

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聖句 創世記35:1-15

わたしたちは聖潔の恵みをいただいて前に向かって進み続けているお互いです。「前に」と言うよりは「上に」と言った方が良いかしもれません。上に向かって進み続けている者。今日の聖書に「ベテルに上ろう」という言葉が言われておりました。いまいる地点から出発してベテルに上って行く。上に向かって行く動きです。わたしたちはみんな、主イエスに似た姿に完成されるというゴールを目指して、上に向かって行く霊的な巡礼の旅を旅しております。

今日の聖書でヤコブとその一行は、旅に向かって出発するにあたり「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい」と言われております。霊的な巡礼の旅を進むわたしたちにとって、これはぜひとも耳を傾けなければならない大切な言葉でありましょう。

「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい」とは、どういう意味でありましょうか?

「身を清める」とは、主イエスキリストの十字架の血潮によって、すべての罪を清めていただくことでありましょう。「衣服を着替える」とは、古い自分・古い行いという古い服を脱ぎ棄てて、上からキリストという新しい衣を着ることでありましょう。

それでは「身に着けている外国の神々を取り去れ」とは、どういうことでありましょうか?

口語訳聖書では、身に着ける守り神としての偶像をヘブライ語の原語のまま「テラピム」と表現しています。今日の説教題「テラピムを地に埋めよ」は、口語訳から取らせていただきました。

わたしたちが身に着けている偶像。これにはいったい、どういうものがあるでしょうか?

わたしたちはここで、わたしたちにとって一番やっかいな偶像、すなわち、精神的な偶像というものを考えるべきではないかと思います。あるいは、わたしたち自身の「思い」と言ったらいいかもしれない。自分の「思い」という偶像であります。

わたしたちの最初の父祖であるアダムが、神様に背を向けて罪に落ちたのは、禁断の木の実を食べるという行為によることはもちろんですが、しかし、禁断の木の実を食べるという行為に先立って、アダムの「思い」というものがあったことを、わたしたちは考えなければなりません。

エデンの園で起きたことは、こうです。創造されたその美しい姿において、アダムの「思い」は神様の「思い」と完全に溶け合って一つになっていました。聖潔の探求においてわたしたちが目指しているのは、まさにこれでしょう。わたしの「思い」と神様の「思い」が完全に溶け合って一つになっている。わたしたちは、そういう者になりたい。それが、わたしたちの最終的な目標地点です。

その完全な一致からアダムは落ちてしまった。原因は「思い」にありました。「それを食べたなら死ぬよ。だから、食べてはいけない」 そういう神様の「思い」を、アダムはよく知っておりました。そこに、別の「思い」が吹き込まれました。「食べても決して死ぬことは無い。だから、食べても大丈夫だよ」 この「思い」を吹き込んだのは、ヘビのかたちをしたサタンですけれども、ヘビは、きっかけを作ったにすぎません。きっかけを与えられて、アダムは自分自身の「思い」を持つようになりました。神様の「思い」とは明らかに異なる、自分自身の「思い」を持ったのです。

アダムが迫られた試練は、神の「思い」か・自分の「思い」か・どちらを選ぶか? という試練でありました。

アダムは、神の「思い」を退けて、自分の「思い」を選びました。人生の祭壇というものを考えるとしたら、その祭壇の真ん中に置かれるべきはずの神様をアダムは取り除いて、自分の「思い」という偶像を、祭壇の中心に据えたのです。自分の「思い」という偶像であります。そして、この偶像、自分の「思い」という偶像に奉仕するために、アダムは禁断の木の実をもぎとって、祭壇の上にささげました。自分の「思い」という偶像の神に食べさせるために、禁断の木の実をもぎとったのです。

すべての人間は、何らかの超自然的な世界を信じています。そういう超自然的な世界に対して、自分自身をひれ伏させる。これが礼拝ですけれども、その礼拝の場所が祭壇です。すべての人間が、何からのかたちで、人生の祭壇というものを持っているでありましょう。

その人生の祭壇の真ん中に祭られているのは、何であるのか? これが、わたしたちの聖潔の旅路において、決定的に重要なことです。

アダムがそうしたように、わたしたちの祭壇の真ん中にも、自分の「思い」という偶像が据えられているのではないだろうか? そうして、アダムにかたどられたカインが、彼自身の人生の祭壇に畑の実りを供えたときに、その祭壇の中心に据えられていたのは、アダムがそうであったのと同じように、カイン自身の「思い」という偶像が、祭壇の中心にあったではなかったか? カインの捧げものは、自分の「思い」に奉仕するためにささげられたものであったと考えるなら、神様がアベルの捧げものだけ受け取られたとき、なぜカインが激怒し、弟を殺すまでしたのか、理解できる気がいたします。カインは、神に奉仕していたのではなく、自分の「思い」に奉仕していたのです。

わたしたちは、自分の「思い」に奉仕するために、自分が良いと思ったいろんなものを運んできて、祭壇の上に並べます。自分の「思い」という偶像の前に並べます。そうしてもしかしたら、わたしたちは、イエスキリストすらをも便利な道具として、偶像のために使っていないだろうか? この危険性を考えてみなければなりません。すなわち、道具としての神、ということであります。

何年か前にゲストの説教者が、こういうふうに言われました。
「四種類のキリスト者がいる。第一、私は私の思いを行なう、というキリスト者。第二、私は私の思いのために神を使う、というキリスト者。第三、私は神の御心を行なう、というキリスト者。第四、神よ、御心を私に行なってください、というキリスト者」

福音書の中に、イエスの名によって病気を癒し、悪霊を追い出し、目覚ましい働きをした人たちが、再臨の主イエス様のもとへやって来ますが、イエス様からは「おまえたちのことをまったく知らない」と言われてしまう。そういう終末論的な場面が出てまいります。なぜなのだろうか? 彼らの人生の祭壇の中心にあったのは、自分の「思い」だったからではないだろうか。彼らは、自分の「思い」を実現するための道具として、イエスの御名を便利に使ったのです。その結果、たしかに病気は癒され、悪霊は追い出されました。しかし、それによって満足せられたのは、自分の「思い」という偶像の神だったのであって、イエス様の「思い」ではなかった、ということではないでしょうか。

こう記されています。マタイ7:21-23の御言葉です。「わたしに向かって『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」

聖潔の旅路において、さらに上に向かって進んで行くために、「身に着けている外国の神々を取り去れ」とわたしたちは言われております。

わたしたちは、自分の人生の祭壇の中心を占めている偶像の神、自分の「思い」という偶像の神を取り除いて、地面に埋めてしまわなければなりません。「テラピムを地に埋めよ」であります。このことは、はっきり意識して行われなければなりません。

主イエスキリストは、まことに神にして・まことに人として、わたしたちのもとへおいでになりました。この主イエスのご人格のうちに「思い」が二つあった、ということが、教会の神学的な議論の中で明らかにされてきております。

それがすなわち正統教義としての「両意論」でありまして、キリストのご人格は単一、ただひとつであるけれども、そのひとつの人格の中に、神としての意志・神としての思いと、人としての意志・人間としての思いと、二つの意志があったのだ、と観るのが「両意論」であります。これは680年から681年にかけて開催された第三コンスタンティノポリス公会議、これは第六全地公会議とも呼ばれますけども、そこにおいて決定された正統教義であります。

主イエスの単一の人格の中に、神の意志と人の意志と、二つの意志があった。すると、主イエスキリストが歩まれた人生、その人生の祭壇の中心を占めていたのは、神の「思い」か・人の「思い」か・どちらが中心にあったのだろうか?

主イエスキリストご自身、このことを、はっきりと自覚的にお決めにならなければなりませんでした。わたしたちはその場面を、洗礼者ヨハネの洗礼において、荒野の誘惑において、ペトロとの対決において、ゲッセマネの園において、四回目撃することになります。

まず、洗礼者ヨハネの洗礼でありますが、イエス様ご自身は罪の無いお方であり、罪を一度も犯したことが無いお方ですから、洗礼者ヨハネが授ける「罪の悔い改めの洗礼」をイエス様が受ける必要はまったく無かったことになります。

ところが、父なる神の「思い」は、罪の無いイエス様が、全人類の身代わりを引き受けて、身代わりに悔い改め、身代わりに洗礼を受け、身代わりに苦しみの杯を飲み、身代わりに十字架につけられ、身代わりに死ぬという、これが父なる神の「思い」でありました。

父なる神の「思い」を知ったイエス様は、自分の「思い」をわきへ置いて、父なる神の「思い」に従うことをお選びになりました。その結果が、主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼をお受けなった、という行為になります。

このことを通して主イエスは、祭壇の中心に神の「思い」を置き、自分の「思い」をわきへとり下ろして、父なる神の「思い」への完全な服従を表されたのです。父なる神はそれをご覧になって、おおいにお喜びになり、こう言われました。マタイ3:16「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」

人生の祭壇の中心から、自分の「思い」を取り下ろして、わきへ置き、祭壇の中心に神の「思い」を置かれた主イエス様。父なる神の「思い」に対する、まったき服従。これに対して父なる神は、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と喜びをもって応答されました。

主イエスはしかし、その後、たびたび誘惑をお受けになりました。それが荒野における誘惑です。荒野において主イエスは、ご自分が持っている神としての力を、自分自身の「思い」のために使うようにと、悪魔から誘惑されました。

もし石をパンに変える力を持っていて、しかも、飢えて死にそうな状況にあったとしたら、その力を使ってパンを食べたところで、何が悪いんだろう? 別に何も悪くないじゃないか? わたしたちならそう考えるでしょう。

しかし、誘惑の焦点は、人生の祭壇の中心を占めるものは何か、ということにあるのです。悪魔はささやきかけます。あなたは、あなたに与えられた力を、自分の「思い」の実現のために使うべきであって、父なる神の「思い」がどうであるか、神の御心がどうであるかは、いちいち考える必要は無い。人生の祭壇の中心にあるのは、自分の「思い」であるべきだ。自分の「思い」の実現のために持てる力をすべて尽くすべきだ。これが、悪魔の誘惑であります。悪魔の誘惑は、なんと甘美な響きをもっていることでしょうか!

わたしたちには、自分の「思い」があります。自分の感情、自分の気分、自分の願望、自分の夢、自分の主義、自分の主張、自分の計画、自分の立場、自分の好み、自分の都合があります。わたしたちはそれを優先し、それを第一とするべきだ。こうしてわたしたちは、人生の祭壇の真ん中に自分の「思い」という偶像を据えて、これに仕えているのです。しかし、主イエスは、どうされたでありましょうか? イエスは常に、父なる神の「思い」を祭壇の中心に置かれました。

父なる神の「思い」は、自分が十字架にかかって死ぬことである。そのことをイエス様は明確に理解しておられました。イエス様はある時期から弟子たちに、「過越祭になると、人の子は十字架につけられるために引き渡される」と、はっきりお語りになるようになりました。その一方で、十字架で死ぬことは、イエス様にとって悲しく、つらく、恐ろしいことであり、できることならそれを避けたいという人間としての「思い」が、イエス様の中にありました。神の「思い」か・自分の「思い」か・その選択をめぐる葛藤をイエス様が経験しておられたことが、福音書を読むとわかります。その葛藤する心の中にペトロが手をつっこんでひっかきまわしたのです。「人の子は十字架につけられる」という主イエスの言葉を聞いたペトロは、「先生、先生が十字架にかかって死ぬだなんて、そんなことがあってはなりません!」とイエスをいさめ始めました。

これはペトロとの対決ですが、しかしそれはまた、ペトロを通してイエス様の心の中に手をつっこんでひっかきまわす悪魔との対決でもありました。悲しいんでしょう? つらいんでしょう? 怖いんでしょう? だったら十字架にかからないでも済む別の道を行けば良いじゃないか? 父なる神の「思い」より自分の「思い」を大事にするべきじゃないか? 誘惑の言葉は、なんと甘美で、なんと優しいことでしょう! この誘惑に対してイエス様は、「サタンよ、引き下がれ。あなたは神のことではなく人のことを考えている」と言って、打ち勝たれました。

しかし、誘惑はゲッセマネの園において、なおもイエス様にやって来ます。ゲッセマネの園において主イエスは、滝のように汗をしたたらせながら葛藤し、ついには、「わたしの思いではなく御心のままになさってください」と父なる神に祈ることによって、誘惑に打ち勝たれました。

主イエスキリストがなさったこと。それは、人生の祭壇の中心から、自分の「思い」を取り下ろして、わきへのけて、父なる神の「思い」をいつも祭壇の中心に置き続けようとすることでありました。

「イエスのようにしてください」 それがわたしたちの歌です。「イエスのようにしてください」 それが、わたしたちの祈りです。わたしたちがイエスのようになりたいのであれば、当然、わたしたちの人生の祭壇の中心を何が占めているのか、という挑戦をわたしたちは受けることになります。

わたしが奉仕し、わたしが仕えているのは、自分の「思い」に対してだろうか?  
自分の感情、自分の気分、自分の願望、自分の夢、自分の主義、自分の主張、自分の計画、自分の立場、自分の好み、自分の都合。それらがわたしのすべてであり、第一にすべきものであり、わたしの礼拝の対象・関心の対象・崇拝の対象であり、奉仕の対象であり、自分の「思い」の実現のためなら、イエスキリストさえも便利な道具として使おうとしていないだろうか? このことを、わたしたちは今日、静かに自分に問うてみたいのであります。

最後に、宗教改革者マルチン・ルターに対して大きな影響を与えた、匿名のドイツ騎士修道会士による『ドイツ神学』の第二章から抜粋したものを読んで、このメッセージを終わりにいたします。これは、ルターが序文をつけて1516年に出版したものです。お読みします。なお、括弧内は山谷による補足です。

「アダムはリンゴを食べた故に破滅し堕落した、と言われる。しかし私はこう言う。そうなったのは、神のものであるものを、アダムが思い上がって我がものにすることによってであり、そして彼の「私は」、彼の「私の」、彼の「私に」、彼の「私を」などによってである、と。もし、アダムがリンゴを七個食べても、それを我がものとすることがなかったならば、彼は堕落しなかったであろう。しかし、この我がものにすることが起こるやいなや、アダムは、リンゴをたとえ一個もかじっていなくとも、堕落したのである。

ところで、私はアダムより百倍も深く堕落し、百倍も遠く離反したのである。そして、アダムの堕落と離反を、どの人間も改めたり、償ったりすることは出来なかった。では、私の堕落は、いかにして改められ得るのであろうか?

それは、アダムの堕落同様に、そして、アダムの堕落が改められたのと同じ御方によって、しかも、同じ方法で、改められなければならない。

この改めは誰によって、いかなる方法で行なわれたのであろうか?

人間は神なしにはそれが出来なかったし、神は人間なしにはそれをしようとはされなかった。それ故、神は人間の自然的本性ないし人間性をわが身に引き受けて人間化され、そして、人間は神化された。(それが、まことに神にして・まことに人である主イエスキリストである)まさにそこにおいて、改めがなされたのである。

このようにして、私の堕落も改められなければならない。私は神なくしてはそれが出来ず、神は私なくしてはそれをなさるべきではなく、また、それをなそうとも思われない。というのは、そのことがなされるべきであるならば、神が、私の内にあるものすべてを内からも外からもわが身に引き受けられるように、そして、神に逆らう、または、神の業を妨げるものが、何一つ私の内になくなるように、神も私において人間化されなければならないからである。

神が、ありとあらゆる人間をわが身に引き受けられ、彼らにおいて人間化なされ(それがイエスキリストである!)そして、彼ら人間が神において神化されても(それが信者の聖化である!)それが私においてなされるのでなければ(私という個人の決心によってなされるのでなければ)私の堕落と離反は決して改められないであろう。

そしてこの償いと改めにおいては、私は何一つ付け自分の力を付け加えることはできず、そうする立場にもなく、あるいは、そうするべきではなく、神だけが行なわれ、神だけが働かれ、私は、神をそして神の働きと神の意志を受け容れるというように、単に純粋に受け容れるだけである。

そしてそれ故、私がそれを受け容れようとしないで、むしろ「私の」や「私は」や「私に」や「私を」を持ちたいと思うことが、神の働きを妨げ、そのため神は神だけで何の妨げもなく働かれるということが出来ない。そのためにまた、私の堕落と離反は改められないままである。見よ、これはすべて、私の「我がものにする」働きの仕事である」

以上であります。

どうか、わたしたちは今日、「私の」「私は」「私に」「私を」という偶像。自分の感情、自分の気分、自分の願望、自分の夢、自分の主義、自分の主張、自分の計画、自分の立場、自分の好み、自分の都合という偶像、これらのテラピムを、主イエスキリストのお力を頂いて、人生の祭壇の真ん中から取り除いて、わきへのけて、できることならば土に埋めてしまうことができますように。それが、キリストと共に古い自分が死んで、キリストと共に墓に葬られる、ということでありましょう。そうして、人生の祭壇の真ん中に、神の「思い」を据えることができますように。それが、キリストと共に復活して、神に対して生きるようになる、キリストが新しいわたしを生きてくださるようになる、ということでありましょう。そのようにして、聖潔を求めるわたしたちの霊的な巡礼の旅が、さらに上に、さらに上に、主イエスキリストに似た完成された姿に向かって、さらに上に進んで行くことができるように、祈ります。

青年の孤独を癒す三つの処方箋

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聖句 コヘレトの言葉11:9-12:2

現代の青年が一番恐れるもの。それは、孤独ではないでしょうか? 病気より戦争より世界の終りより恐ろしいもの。それは、孤独ではないでしょうか? 友達が出来ると思って学校に入ったのに、ひとりも出来なかった。お昼の弁当を一緒に食べてくれる友達がいない。でも、校庭のベンチでひとりで食べるのも恥ずかしい。だからトイレで食べた。これは珍しい話ではないそうです。友達を作る上でコミュニケーションの能力が大切です。会って話す、電話で話す、メールで話す、ツイッターで話す、フェイスブックで話す。100年前に比べたらコミュニケーションの便利さは100倍になっているでしょう。でも、気持ちが上手く伝えられない。そもそも自分の気持ちが相手に伝わるとは思えない。どうせ伝わらないんだから、あきらめてしまう。

どうしたら、青年の孤独は癒されることができるでしょう? 答えは、聖書の中にあり、イエスキリストのグッドニュース、福音の中にあります。そこで、今日わたしたちが聖書の中から読み取りたい孤独を癒す三つの処方箋があります。

その第一は、教会の交わりに加わる、ということです。

教会の敷居は高いです。教会に行くと敬虔そうなおじいちゃん、おばあちゃんばかりいます。教会に行くと、よくわからない讃美歌を歌わせられます。「げに」「だに」「あなうれし」「うたわでやあるべき」とか、平安時代の言葉みたいです。教会に行くと牧師の話がつまらないです。ご主人が教会の礼拝を終えて、帰宅ました。奥さんが尋ねました。「今日のお説教はどうだった?」「今日はちっとも眠くならなかったよ」 奥さんは皿を落として叫びました。「それは奇跡だわ!」

しかし、教会の交わりの中に孤独を癒す処方箋があります。これは、すぐ効く薬ではありません。漢方薬のように、じわじわ効く薬です。ですから最低一年間このお薬を続けていただく必要があります。一年間通い続けていると、だんだんあることが見えて来ます。見えてくるもの。それは、教会は「みじめさ・恥ずかしさでつながれた共同体だ」ということが、見えてきます。

ヨハネによる福音書第19章25節から27節をお読みします。「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です』 そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」

イエス様の十字架のもとに一緒に立っている人たち。これが新しい家族だ。この人たちが、新しい絆で結ばれた「教会」という家族だ。それを聖書は言っています。イエス様は、わたしたちの身代わりに十字架にかかってくださいました。わたしたちの愚かさ、弱さ、汚さ、ずるさ、みにくさ、みじめさ、恥ずかしさ。それらを全部吸い取って、イエス様は十字架にかかって死んでくださいました。そして言うのです。「わたしはおまえをゆるす。わたしがおまえの代わりに死んだからだ。だから、ゆるされた者として新しい家族と共に生きなさい」

イエス様の十字架のもとに一緒に立っている人たち。これが教会の人たちです。なんで十字架のもとに立っているんですか? 自分の愚かさ、弱さ、汚さ、ずるさ、みにくさ、みじめさ、恥ずかしさが、もう死んでしまいたいほどわかったから、そして、そのみじめさは自分ではどうすることもできないほど酷いものだということがわかったから、だから十字架のもとに立っているんです。これが公然の教会の秘密です。

遠藤周作という作家は『白い人・黄色い人』『毒薬』『沈黙』『深い河』など、キリスト教信仰について深く迫る純文学を書きました。でも『狐狸庵シリーズ』という、おかしなエッセイ集を書き続けた人でもあります。狐狸庵先生・遠藤周作は、自分の死んでしまいたいほど恥ずかしいエピソードをこれでもか、これでもか、というほど書いて爆笑を誘います。彼は青年時代、夜布団で横になっても全然眠れず、自分の愚かさ・みにくさ・ずるさ・みじめさに耐えきれなくなって、大声で叫んだそうです。

あなたは夜布団の中で叫び出したい人ですか? もしそうだとしたら、あなたも一緒にイエス様の十字架のもとに立つことができます。あなたはどこを向いているんですか? イエス様が十字架の上で招いているのは、あなたのことなんです。わたしのもとに来なさい。叫び出したいほど恥ずかしいその重荷を、わたしのところにおろしなさい。わたしがあなたに代わって死んだ。あなたはゆるされて、新しくなれるんだ。

第二の処方箋は、天国の希望に顔を向ける、ということです。

青年の孤独は、青年の不安との相乗効果で100倍ひどく感じられます。不安の原因は、将来が見えないということにあります。大学で博士号を取って200社に履歴書を送っても正社員になれない。コンビニでバイトするしかない。そういう先が見えない時代。わたしの学校? でも、三年後につぶれるって聞いた。わたしの会社? でも、今年の夏ごろ危ないって聞いた。わたしの故郷? でも、人口減少で町村合併になるって聞いた? わたしの国? わたしの国に未来はあるんだろうか?

不安の原因は、大きな視野、長い視野の欠如にあります。経営学の神様と言われたピーター・ドラッガーは、救世軍を世界で最も効率の高い組織だと評価しました。なぜそう言えるのか? キリスト教団体は自分を超え、その団体を超え、時代を超え、宇宙すら超える大きな視野、長い視野を持っていて、そこから生きる意味を引っ張ってくることができるからです。教会は、天国の希望に顔を向けて生きています。

黙示録第21章24節をお読みします。「諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る」

トンネルの向こうに光の中を歩く人々が待っているのです。黙示録は、その大部分は暗い話ばっかりです。病気があり、飢饉があり、大地震があり、天変地異があり、戦争があり、悪の帝国、悪の独裁者があり、クリスチャンがどんどん死んで行きます。世界は暗いトンネルの時代を通る、というのが大筋の話です。でも、最後は明るいのです。トンネルは永遠に続かない。トンネルから抜け出る日が来る。神の都、新しいエルサレムがそこに待っている。光の中を歩く人々が待っている。そして、あなたも光の中を一緒に歩くんだ。

自分の人生で努力して、自分で光を輝かせることができたら、ほんとうに素晴らしいですね。わたしもぜひ、そうなりたいものです。でも、そうはならないかもしれない。輝けないうちに、自分の学校が、自分の会社が、自分の家庭が、自分の町が、自分の国が、終わってしまうかもしれない。

だけれども、必ずトンネルを抜ける日が来る。天国では、だれも自分で輝く必要は無い。みんながイエス様の光の中を歩くんだ。自分の人生で輝けた人も、自分の人生で輝けなかった人も、天国ではイエス様の光をいただいて輝くんだ。

長い視野でものごとを見れる人は強いです。高校生の娘が短いスカートをはいて困る、と嘆いていた親が、知人からこう言われたそうです。「あなたの娘が40歳になる時がきます。あっと言う間ですよ。40になったら短いスカートなんて恥ずかしくてはけないですよ。いや、19でも、はけないでしょ。人生の中であれがはけるのは、15から18までのたった3年間だけです」

ものごとを最も長い視野で見れる人が、最も強い人です。わたしはイエス様によって天国に行けるんだ。その希望を持つことができたら、あなたは最強の人です。

第三の、最後の処方箋は、聖霊の力を内にみなぎらせる、ということです。

「弱いわたし、元気になった」というのでは、不十分です。「弱いわたし、だから、元気になった」 弱いわたし「だから」元気になった。それが処方箋です。

コリントの信徒への手紙二第4章7節をお読みします。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」

弱いわたし、それが、土の器です。弱くて、もろくて、小さいわたし。土の器です。新年の士官会で小隊長が社会鍋と街頭給食と若いお母さんたちのつどいについて証ししました。それを聞いた候補生たちは、慰められました、励まされました、力をもらいました、と喜んでいました。でも、小隊長はわたしの前ではいつも「ああ疲れた」「ああ肩が痛い」「ああ腰が痛い」ばかり言っています。土の器です。土の器は、弱くて、もろくて、小さくて、からっぽです。だからこそ、神様は神様の霊である聖霊をそこに注いで満たしてくださる。からっぽで小さいから、聖霊はいっぱいになって、そこからあふれ出て、まわりの人に流れて行くのです。小隊長の笑顔に力をもらった、という人がご近所にもいます。遠くイギリスにもアメリカにもアフリカにもインドにも、小隊長の笑顔から力をもらった、という人がいます。土の器に聖霊がいっぱいになって、そこからあふれ出て、あふれ出たものを人々が受け取ったのです。

札幌の農学校のクラーク博士は「青年よ、キリストにあって大志を抱け」と勧めました。自分は、弱くて、もろくて、小さくて、からっぽだから、何も出来ない、と考えたら、これは、あきらめです。「キリストにあって大志を抱け」とは、こういうことです。自分は、弱くて、もろくて、小さくて、からっぽだ。だからこそ、神様はイエスキリストを通して聖霊をわたしに注いでくださるんだ。わたしは聖霊に満たされて、わたしから聖霊があふれ出て、聖霊がまわりの人に流れて、人々を祝福するんだ。これが「キリストにあって大志を抱け」ということでしょう。聖霊の力を内にみなぎらせる。これが第三の処方箋です。

むすびのことば

青年の孤独を癒す三つの処方箋を今日聖書から受け取りましょう。第一は、教会の交わりに加わることです。第二は、天国の希望に顔を向けることです。第三は、聖霊の力を内にみなぎらせることです。この三つのお薬をイエス様からいただきましょう。イエス様に祈りましょう。イエス様に求めましょう。

士官学校の同僚が風邪をひいたので医者に行って処方箋をもらったそうです。でも、薬局にはあとで行こうと思って、四日後に薬局に行ったら、処方箋の有効期限が切れて、お薬をもらえなかったそうです。今日わたしたちは、聖書から三つの処方箋を受け取りました。この処方箋には有効期限は、ありません。でも、聖書のページを破ってのみこんでも、効き目はありません。今日のメッセージを受け取っただけでは、効き目はありません。大切なのは、この処方箋をもって、あなたがイエス様のもとに行くことです。あなたが自分でイエス様に頼むことです。イエス様、この処方箋に従って、わたしを助けてください、わたしに癒しを、わたしに救いを与えてください、そう自分でお願いしなければなりません。ぜひそのように、お祈りしてください。

あなたが残せる最大の遺産

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聖句 使徒言行録2:22-36

はじめに


こないだ父のお墓参りに行きました。まわりを見ますと、新しいお墓がだいぶ増えていました。おもしろかったのは、何も文字が刻んでいない、まっさらな墓石がいくつもあったことです。まだ生きている人が、生きているうちに、自分のお墓をちゃんと用意している、ということですね。いまは、遺言の書き方を教えてくれる教室もあるそうです。50歳ぐらいなのに、ちゃんと遺言を書いて、いつも持ち歩いてる人もいます。毎年書き換える人もいるみたいですね。

遺言状で気になるのは、だれに何をどれぐらい残すか、ということでしょう。わたしの財産を、あの人にこれだけ、この人にこれだけ、うまく分配する。頭を悩ませるところですね。あなたが遺言を書くとしたら、どうですか? あなたが残せる最大の遺産は何でしょうか? わたしたちは、永遠になくならない遺産を残すことができるのです。聖書からご一緒にそのことを見て行きましょう。

第1 消えて無くならないものは何?


まず、消えて無くならないものは何か?ということを考えてみましょう。残念なことですが、財産を築いても、それは消えて行ってしまいます。政府はいま、相続税の増税を検討しています。ある政治家は相続税率100パーセントを提案しました。死んだら、あなたの財産は全部、国庫に入ってしまうのです。すごいですね。家や自動車はどうでしょう? 100年先も残る家や自動車は、まずないでしょう。宝石はどうでしょう? お孫さんが遠い将来生活に行き詰って質屋に入れるかもしれませんね。

こう考えてみると、目に見えるかたちあるもので、あなたが死んでも永遠に残せるものは、ほとんど何もない、ということがわかります。旧約聖書のヨブが言っているのは、まさにそのことだと思います。ヨブは言いました。
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はたたえられよ」(ヨブ1:21)

生まれるときは裸。死ぬ時も裸。あの世に持って行けるものは、何もない、ということですね。形あるものが残せないんなら、せめてお墓は立派に作ろうじゃないか。そういう考えもあるでしょう。わたしは毎年、多磨墓地で行われる召天者合同記念会に行きます。救世軍のお墓の裏側には、東郷平八郎元帥と山本五十六元帥のお墓があります。高橋是清のお墓もありますし、新渡戸稲造のお墓もあります。残念ながら、立派なお墓なのに、だれも手入れする人がいなくって、草がぼうぼうどころか、草が木のように太くなって大きなお墓をすっかり飲み込んでしまっているのも、あちこちにあります。お墓すら、忘れられる時がやがて来るんですね。だとしたら、あなたは何を残しますか?

第2 目の前にいつもイエスを見る

目に見えるものは、みんな消えて行きます。でも、たったひとつ、消えないものがある。今日の聖書箇所は、エルサレムで使徒ペトロが行った説教の中の言葉です。「わたしはいつも目の前に主を見ていた」と言われています。

あなたはいつも、何を見ていますか? 家を見ていますか? 車を見ていますか? お金を見ていますか? お墓を見ていますか? それらはやがて消えてなくなってしまいます。しかし「わたしはいつも目の前に主を見ていた」! 

イエスは十字架につけられて殺されてしまったが、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。死んで、よみがえった方、それがイエスです。このイエスキリストだけは、決してなくならないお方です。なぜなら、イエスはひとたびなくなって、そこからよみがえられたのだから。

復活したイエスキリストを信じて生きる。これは、あなたが、イエスキリストとの個人的な関係を、心の中にしっかり持って生きる、という意味です。あなたの心の中に何がありますか? 心はからっぽですか? からっぽだとしたら、あなたが死んだら、死んだ後も、あなたの心は永遠にからっぽのままです。

しかし、あなたの心の中に、イエスキリストとの関係があるならば、たとえあなたは死んでも、あなたとイエスの関係は、永遠に続きます。死を超えて続きます。この関係のことを、聖書は「天国」と呼んでいるのです。

心の中でイエスとの関係を持っていること。この関係について、聖書はこう言っています。
「主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたの聖なる者を、朽ち果てるままにしておかれない。御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる」(2:25-28)

心は楽しみ、舌は喜び、体は希望のうち生きる。わたしは喜びで満たされる。これが、イエスとの関係を通してあなたに与えられるものです。しかも、これは、あなたが死んでもなくならない、唯一永遠に続くものです。

どうしてこれが、永遠に続くと言うことができるんだろうか? 簡単に言えば、イエスが死んで、復活されたからです。イエスは生きておられる。イエスは死に打ち勝った存在です。だから、イエスとつながるわたしたちの関係は、死によって断ち切られることが絶対ありません。死によって断ち切られることが絶対ない関係。これは、死者の中から復活したイエスだけが唯一与えることのできるものです。

さらに、神学的に考えてみるならば、わたしたちとイエスとのつながりは、三位一体の神とのむすびつきでもあります。これをペリコレーシスと言います。わたしたちがイエスを信じ受け入れるとき、わたしたちの心の中にイエスが入って来て、住んでくださいます。そうして、イエスの中には父なる神が住んでおられます。父なる神とイエスは、聖霊によってひとつに結ばれています。聖霊は、神の愛だと言うこともできます。父なる神とイエスとの関係が、愛すなわち聖霊です。言い換えるなら、父なる神とイエスキリストは、聖霊によって結ばれた存在、永遠の愛によって結ばれた存在、永遠になくならない存在、いつまでも存続する本物の関係によって結ばれた存在。それが、父なる神とイエスキリストとの関係です。そういう関係を生きているイエス様が、いま、わたしの心、あなたの心の中に入って来て、生きてくださる。そうして、聖霊が、あなたの心を、わたしの心を、満たしてくださるのです。

主イエスご自身こう言われました。
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14:23)

聖書は言っています。
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子どもであることを、わたしたちの霊と一緒に証ししてくださいます」(ローマ8:14-16)

さらに聖書はこう言っています。
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(コリント一3:16)

こうも言っています。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(コリント一6:19)

あなたの目は何を見ていますか? 知らないのですか? まだ見ないのですか? しっかり見てください!と聖書は言っています。あなたとイエスとのつながり、あなたとイエスとの関係、あなたとイエスとの心の関係。今日、ぜひそれに目を向けていただきたいのです。

こういうお祈りの言葉があります。
「イエス様、あなたは、わたしのために十字架にかかり、わたしを赦し、三日目によみがえってくださいました。イエス様、あなたを信じます。イエスさま、あなたを愛します」 

これがあなたの祈りでしょうか? これがあなたの心の中にある祈りでしょうか? もしアーメンであるならば、あなたの心はイエスとつながっています。イエスがあなたを愛し、あなたがイエスを愛するという、この関係は永遠になくならないものです。そうして、この関係だけが、永遠に残るものです。それ以外のものは、車もお金も家もお墓も、すべて消えて行きます。どうか今日、あなたが永遠に残せるものを、ぜひ手にしていただきたいと思います。

むすびのことば

お祈りいたしましょう。あなたは、あなたの目を何に向けて生きていますか? 聖書は、死んでよみがえった方、イエスキリストをいつも目の前に見て生きるようにと勧めています。先ほどのお祈りを繰り返します。「イエス様、あなたは、わたしのために十字架にかかり、わたしを赦し、三日目によみがえってくださいました。イエス様、あなたを信じます。イエスさま、あなたを愛します」 どうか、この祈りを今日祈ることを通して、あなたもイエスとの関係の中に入っていただきたいと思います。

天使的諸力について

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1 諸国民の後見人としての天使

イエズス会士でフランス学士院会員であるジャン・ダニエルー枢機卿は、「諸国民の後見人としての天使」について、『教父に見る天使とその使命』において次のように述べている。(ジャン・ダニエルー「天使と諸宗教」『教父に見る天使とその使命』シェヴェトーニュ修道院出版部、1953年、pp.14-16.)

イスラエルの民への契約と律法の授与は、天使の仲介によって与えられた神の恩恵であるが、キリスト到来以前の他国民には、神の助けが全く無かったわけではなく、キリスト到来への備えから漏れていたわけでもない。(中略)

諸国民に対する神の助けとして、天使が果たした役割がある。神が諸国民を天使に委託したという教義は、古き伝統において普通に見られた。ユダヤ教に淵源を持つこの教義は、申命記32:8のギリシャ語訳に反映されている。「いと高き神は諸国民を分割し、アダムの子らを分離して、神の天使の数に従って、諸国民を委託した」 ダニエル書はギリシャの天使とペルシャの天使について述べる(ダニエル10:13-21)。後期ユダヤ教の黙示文書やアレクサンドリアのフィロも同様の教義に馴染んでいる。新約聖書の使徒17:26も、この教義を前提としているようである。「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました」 この教義は、教父にも見出される。イレナエウスが言及しており、アレクサンドリアのクレメンスはこう書いている。「天使の支配権が諸国民と諸都市に割り当てられた」「古き聖なる伝承によれば、諸国民に天使が割り振られた」 ヒュッポリュトスも同じことを述べている。

オリゲネスは自分の思索の体系の中で、この教義に重要な位置を与えた。「霊的な諸力が、この世の諸国民の上に立つ支配者として臨んで来た」 オリゲネスはユダヤ教の伝統に照らしつつ、諸国民の分割を、バベルの塔崩壊後の諸国民の離散と関係付けている。四世紀の教父もまた、諸国民の天使という概念に馴染んでいる。「すべての諸国民のかしらとして立つ天使が存在する、というのが、モーセの歌に見る教えである」「諸国民を保護し監視する無数の大天使、諸国民の天使が立てられており、諸国民に権威を行使している」と聖バシリウスは書いている。聖ヨハネ・クリュソストモスも同じことを述べている。

2 天使的諸力

天使的諸力の概念に関する新約聖書の用語、エクスーシア、アルコーン、デュナミス、スロノス、キュリオテースについて、ゲルハルト・キッテルの『新約聖書神学事典』(エールドマン社)は、次のように述べている。

(1)エクスーシア (権威)

超自然的諸力を指す、新約聖書における特殊用法。「この世の支配者」と共に用いられることが多い。ヘレニズムやグノーシス主義には見られない用語であるが、『イザヤの昇天』、『12族長の教訓』、キリスト教グノーシス主義諸文献、黙示的使徒言行録において見られる。エクスーシアは、ユダヤ教の土壌において発展した概念を基礎としており、悪鬼とは区別されるが、この世の支配者とは曖昧不可分な、宇宙的諸力を指す。パウロは、ユダヤ教における「自然界を支配する諸力」の概念を、ヘレニズムにおける「宇宙を支配する諸力」の概念と合わせて使用している。かくて、神と人間との間にあって、人間の生活を支配する様々な諸力が存在していることになる。エクスーシアは、被造物としての性質を持ち、キリストにあって、キリストのために創造された(コロサイ1:15−16)。緊張関係が存在するものの、二元論ではない。エクスーシアは、人間をキリストから引き離すことが出来ない。

(2)アルコーン (支配)

社会における「高官」を指す用語。ダニエル書10章では、諸国を代表し守護している天使的存在の意味で使用されている。新約聖書では、パリサイ派が<イエスの悪霊追い出しはベルゼブルによるものだ>と論難した文脈において、「悪鬼の王」の意味で用いられている(マタイ12:24)。しかし、アルコーンの力は打破されている(ヨハネ12:31)。アルコーンは、罪のないキリストに触れることすら出来ない(ヨハネ14:30)。アルコーンは、すでに裁かれている(ヨハネ16:11)。パウロは、アルコーンが非キリスト者の中に働いている、と言う(エペソ2:2)。この支配するアルコーンの力は、彼らが無知のゆえに、栄光の主キリストを十字架につけたために、失われることとなった(コリント前書2:8)

(3)デュナミス (勢力)

キリストの出来事は、悪鬼的諸力としてのデュナミスについて、明らかにしている。新約聖書は、悪鬼的諸力の存在を認めている。それらは、宇宙的諸力であると同時に、天使的諸力でもある。悪鬼的諸力は、キリストの復活によって打破され、キリストの再臨に際して、公然とさらしものにされることとなる。復活と再臨との間に、緊張状態が存在する。悪鬼的諸力は武装解除されたが、それは、信者が神から新しい命を受けて、神の支配の下に移されたからである(エペソ1:20−21、ローマ8:38−39)。それでもなお、悪鬼的諸力は戦っているが(黙示録13:2)、最終的には降伏する(1コリント15:24)。反キリストは、悪鬼的諸力と共に到来し、偽りを広めるが、キリストの再臨によって、ついに滅ぼされる(2テサロニケ2:9)。

(4)スロノス (王座)

天使の階層の一つ。コロサイ1:16において、超自然的な諸力のひとつとして言及されている。その言及によると、天使的諸力の中の最高位階を指しているように思われる。

(5)キュリオテース (主権)

「力」あるいは「権威」を指す用語。コロサイ1:16において、天使の階層のひとつを指す用語として使用されている。ユダ書8節では、偽教師が、その自由主義ゆえに<権威ある者をそしる>と言われているが、そこでは天使的諸力よりむしろ、神的な栄光(あるいは神御自身)を指していると考えられる(2ペテロ2:10参照)。

3 パウロ神学における天使的諸力

オスカー・クルマンは、パウロ神学に見る後期ユダヤ教の天使論の影響について、その古典的名著『キリストと時』において、次のように述べている。(オスカー・クルマン、前田護郎訳『キリストと時』岩波書店、1954年、pp.194-197.)

(1)後期ユダヤ教の天使論

天使に関する後期ユダヤ教の考え、中でも「諸民族の天使」についてのそれは、新約の確実な信仰の内容に数えいれなければならない。

ユダヤ教の中で広く流布していた、諸民族支配の天使の信仰の重要性を、はじめて指摘したのは、マルティン・ディベリウス『パウロの信仰における諸霊の世界』(1909年)の功績である。ギュンター・デーン『天使と権力 ローマ書13:1−7の理解のための一つの寄与』(カール・バルト50回誕生記念、1936年)は、この指摘を取り上げて詳細に論じた。

(2)すべての民族が天使によって統治されるというこの後期ユダヤ教の信仰は、多くの例証を持っているが、ことにダニエル書、イエス・シラク、エノク書にそれが見られ、そしてタルムードやミドラシュにおいてもまた指摘しうる。

この信仰にもとづくならば、どうして地上の人間界の国家権力が、そのような天使の勢力の領域に属するかが理解できる。これら天使の勢力は、キリストを十字架につけた国家当局者の背後に存在したのである。これが、本章のはじめのところでふれた「アルコンテス・トーン・アイオーノス・トゥートゥー」(このアイオーンの司たち)である。同様にコリント前書6章3節も、原始キリスト教の考えによれば、これら見えざる天使の勢力が地上の国家の背後にあることを証明する。なぜならば、この仮定にもとづいてはじめて、次のことが意味をもつからである。すなわちパウロは、彼が教会にあてて、キリスト信徒の間では、国家の裁判所による裁判沙汰を避けるようにと忠告したことに対する理由として、教会に属する者たちは、世の終わりに「天使」を裁くであろうという点を指摘するのである。

(3)エクスーシアイの釈義

いわゆる「キリスト論的に、国家を基礎づけること」は、従ってその反対者たちから通常前提されるように、ローマ書13章1節の「エクスーシアイ」(諸権威)の解釈のみに依存するものでは決してない。それは、諸民族統治の天使に関する、極めて明らかな後期ユダヤ教的な考えにもとづく。これが原始キリスト教にとりいれられ、ここで、「キリストによる天使の諸勢力の征服」に付与される意義と関連して、極めて重要な役割を果たすのである。そのゆえに、この天使及び諸勢力の観念を、パウロ神学の末端的位置に置くことは正当ではない。

かの有名なローマ書13章1節以下の箇所は、天使の勢力と見るこの考えを支持するものを持っている。この考えに基づく時に、その部分全体がはじめて真に明らかとなり、そしてパウロの思想全体と一致することが見られるであろう。

かくてその連関をみれば、国家のことがいわれていることは、完全に明らかとなる。しかしこのことは、他の二つのパウロの箇所でも見出され、また後期ユダヤ教にとっても例証の多くあるその考えが、いまの場合にも存在していることを証明するにすぎない。すなわちそれは、現実の国家権力が、天使の勢力の執行機関と考えられていることである。世俗的ギリシャ語で、単数及び複数が(アルカイ〔政治〕との組み合わせにおいても)、この世の権力だけしか表さない事実は、ローマ書13章1節以下でも、この意味だけが考慮されうることの証明のひきあいに出されてはならない。世俗的なギリシャ語の世界は、天使の勢力についての後期ユダヤ教及び新約の考えを知らない。したがってその世界にはそれに応ずる「エクスーシアイ」の語の用法もまた無縁であることは、自明の理である。パウロにとっては、その「エクスーシアイ」が他では常に天使の勢力を意味するが、ここでも彼は、それを更に厳密に、国家権力の背後にひそむ見えざる天使の諸勢力として考えている。このことは多分、彼もよく知っていた、その語をこの世の歴史に用いるまさにその用法によって示唆されたのであり、彼はそれに後期ユダヤ教的─新約的用法を結びつけた。かくしてパウロにとっては、その用語の二重の意味が現われる。この意味はいまの場合に、ぴったりと事態に即する。それはまさに国家が、見えざる諸勢力の実行的機関であるからに他ならない。

4 ストイケイア

ヘンドリクス・ベルコフは、パウロ神学の概念である「民族・文化・宗教・国家を支配するストイケイア」(宇宙の構成に関わる諸霊)について、『キリストと諸権力』において次のように論考している。(ヘンドリクス・ベルコフ、藤本治祥訳『キリストと諸権力』日本基督教団出版局、1969年)

(1)後見人である諸権力

パウロは、人間の生が一連の諸権力(位の霊、主権の霊、支配の霊、権威の霊)によって規制されているとし、時間(現在のもの・将来のもの)、空間(深いもの・高いもの)、生と死、政治と哲学、世論とユダヤ律法、敬虔と伝統、運命的な星の動きなどについて語り、キリストを離れた人間はこれらの諸権力に依存する以外にないことを明らかにした。諸権力は人間の命数を定め、人間の運命を導く。時代の要求、将来の不安、国家と社会の制約、生と死の限界、伝統と道徳の葛藤、これらはみなわれわれの「後見人」であり、人間の生活を結びつけて、世界を混乱から守る力である。p.20.

(2)パウロの天使論の独自性

宗教史的背景にさかのぼって考えると、パウロが、ユダヤ的黙示文学の世界で考えられていたものとは全く異なった形の諸権力を考えていたことは明らかである。天使的諸力が地上の出来事を左右するという考え方は、黙示文学者たちにとっては自然観の一断面にすぎなかったが、パウロはその点に興味を持っていた。黙示文学がこの天使的諸力の影響をおもに自然の出来事(あるいは状態)の中に見たのに対し、パウロは、それを生命のあるもののごとく、その広さと深さにおいて本質を見抜き、特にそれを人間と結びつけて考えようとしたのである。p.22.

(3)神・諸権力・人間

コロサイへの手紙1章17節に、「万物は彼(キリスト)にあって成り立っている」とある。動詞「スネステーケン」は、今日でいえば英語の「システム化」にあたり、パウロがそこで言おうとしていることは、創造のシステムとなっているのは、諸権力ではなくキリストである、ということである。教会のかしらであり初めの者であるキリスト(18節)に従うときに、あらゆるものがその固有の場、すなわち神の意図された場に置かれる。そのとき諸権力は、世界の意味を支える不可視的基盤として、創造の支柱の役目を果たす。だからパウロは、決して諸権力それ自体を邪悪なものと考えているのではない。それどころか、諸権力は神の愛と可視的な人間の経験との橋渡しをするものであり、生命をつなぎとめ、それを神の愛の中に維持し、神との交わりに固く結びつける助けとなる。それは神と人間との間を裂く障害物ではなく、結合のきずなである。神に仕えるための助けとして、道標として、諸権力はそれを実現する枠づけをする。p.29.

(4)諸権力の世界維持機能

すでにわれわれは、堕罪後の世界においてすらも、諸権力は神によってたてられた機能の一面を持ち続けることを知った。それらは依然として創造のわくづけであり、被造世界を崩壊から守っている力である。諸権力は、世界を水没させる混沌の洪水をせきとめる堤防である。これがきわめて重要な役割であることは、パウロもよく理解している。彼がそれをガラテヤ人への手紙4章1節から11節でいみじくも表現していることは、われわれが「ストイケイア」(宇宙の構成に関わる諸霊)との関連においてすでに論じたところである。その箇所で彼は、彼の手紙の読者たちに、彼らがイエス・キリストのうちに生ける神を見いだすまでは、かつて世の諸権力の下に生きていたことを想起させ、その時彼らは「子どもであった」(3節)といっている。人間がキリストによって贖われると、諸権力の奴隷から解放されて神の子となり、神にのみ頼り、神にのみ従う者となる(4、5節)。しかし、それは、以前諸権力に従っていたことを絶対的に非難廃棄することを含んでいない。そのような従属は不可避的であったし、また確かに神の恵みのわざでもあった。人間はキリストを離れては「子ども」に過ぎず、自らの道すらも見いだしえない者である。もし自らを本能的に任せうる諸権力がないならば、人間の生は放棄分解されるであろう。というのは、神は世界を可視的なものと不可視的なもの、すなわち、人間と諸権力とを互いのために創造されたからである。神の保護によって、人間は「管理人や後見人の監督の下に」(贖いの)外側に立っていた。諸権力はわれわれに対して責任をとり、われわれの生命を確かな保護のもとに置き、神の世界維持が終わって、より完全な贖罪のわざに包含される時に備えて、それを守り導いてくれる。このように、神から離れた世界の中では、諸権力はきわめて積極的な機能を果たしている。それは人間を生かし続ける機能である。p.36

(5)諸権力と民族・文化・宗教・国家

このような理解は、非キリスト教世界がそれによって今まで存在し現在も続いている宗教的社会構造を考えるとき、特に明確になってくる。ある諸力は人間に団結力を与え、社会的にも個人的にも生きる方向を示しその道を備える。原始民族における氏族・種族の役割や、数世紀にわたって中国人の生活と形式と内容を与えてきた祖先崇拝の役割がそのよい例であろう。また、日本の神道、インドのヒンズー的社会秩序、古代バビロニアにおける占星論的一致、ギリシャ人にとって深い意味をもつポリスや都市国家およびローマの政治なども同様の役割を果たしたものとして指摘できよう。それだけでなく、現代の国家もまた「ストイケイア」(宇宙の構成に関わる諸霊)によって支配されていることは明らかである。聖書がこの状態を奴隷の状態として明瞭に指摘しても、それがなおも神の世界維持というあわれみの一部であり、キリストによる開放がないところにも、人間はなおも生命をつなぎとめうるのだ、ということを忘れてはならない。pp.36-37.

5 義認と法

カール・バルトは、新約聖書に見る「キリストのしもべ・であり・かつ・悪鬼化し得る・国家権力」という概念について、ナチスに対する「告白教会」の戦いの中で行った講演「義認と法」において、次のように述べている。(カール・バルト「義認と法」『カール・バルト著作集6』 pp.204-209.)

近年になって初めて、『ローマ3:1及びテトス3:1でパウロが用い、またルカ福音書12:1においてもたまたま政治上の上司を現すために用いられている「権威」(エクスーシア)という言葉は、その他の場合にも新約聖書で複数形で現われるときには(あるいは、「すべての」(パサ)という言葉と共に単数形で現われるときには)いつも、聖書の世界像及び人間像の著しい特徴をなしている「天使的力の群れ」を意味している』という、昔から明白であった事情に、再び強い注意がむけられるようになった。この「権威」(エクスーシア)という言葉は、「支配」(アルカイ)、「支配者たち」(アルコンテス)、「権力」(デュナミス)、「王座」(スロノイ)、「権勢」(キュリオステーテス)、「御使」(アンゲロイ)等々の言葉と同様のものであって、これらすべての言葉と概念の上から区別することは、恐らく困難であろう。(恐らくは、それは、それらの言葉と共に、「御使」という類概念にまとめられうるであろう。)すなわち、「権威」(エクスーシアイ)とは、造られた力でありながら、しかも不可見的・霊的・天的な力であって、他の被造物の中にありつつ、またその上にありつつ、或る独立性を持ち、このような独立性を持つことによって、また同時に或る卓越した価値・課題・機能を持ち、或る現実的な影響を及ぼすものである。ギュンター・デーンによってなされた指摘は、『新約聖書に述べられた教団が、国家・カイザル或いは王・国家の代表者たち・その働きのことを考えた場合、教団は、この国家において代表されそこに働いている天使的力の像を、眼前にしていたのである』という、すでに用語の上から生じて来る強い蓋然性を、さらに確実なものにする。われわれは、すでに、イエスを釈放するか或いは十字架につけるかというピラトに対してゆだねられた可能性を示すものとして、単数形で用いられた権威(エクスーシア)という概念のことを語った。また、われわれは、1コリント2:8では、「支配者たち」(アルコンテス)という概念によって、明らかに国家のことを考え、それと共に、天使的力を考えなければならないのであるが、これとても同様である。『このことによって明らかに示されているのは、国家というものが、どのようにローマ13章で述べられているような神の意志と定めによって定められた法の擁護者から、黙示録13章に述べられているような竜によって力を与えられ・皇帝礼拝を要求し・聖徒を攻め・神をけがし・全世界を征服する底なき所から上がる獣にまで、成りうるかということである』と主張されているのは正しい。天使的力は、まさに荒廃し・堕落し・腐敗し、かくてデーモン(悪鬼的)力となりうるのである。・・・・・・

以上のようなすべてのことが、政治的な天使的力にも適用された場合、どういう結果になるのであろうか。それは、言うまでもなく、この力が─国家そのものが、根源的・究極的にイエス・キリストに属しているということである。すなわち、国家は、その相対的な実質・価値・機能・目標設立によって、イエス・キリストの人格と御業に─したがって彼において起こった罪人の義認に、奉仕しなければならないということである。もちろん、国家は、デーモン化(悪鬼化)されうる。教団がデーモン化した国家を相手にするということが、いつも起こりうるということ、また事実起こるということを、新約聖書は隠しはしない。この見地から見ても、明らかに国家のデーモン化(悪鬼化)ということは、人々が通常強調して言うように、不当な自主化ということであるよりも、むしろその正当な相対的な自主性が喪失されるということであり、それ本来の実質・価値・機能・目標設定を放棄するということである。そして、やがてこの放棄と共に、皇帝礼拝とか国家神話とかその他のものが、結果的な現象として起こって来るのである。・・・・・・国家が教会に対して真実な正しい自由を与え、『わたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごす』(1テモテ2:2)ことによっても、国家は真理に対して『局外中立的』(ニュートラル)なその存在を事実的に証明することができる。この事実を、われわれは、新約聖書の天使論の光に照らされる場合には、否定しえないのである。

6 天使的諸力の悪鬼化

清水義樹は、「天使的諸力が悪鬼化する」という新約聖書の概念について、『教義学講座』において、次のように論考している。(清水義樹「創造論・付天使」『教義学講座1・教義学要綱』日本基督教団出版局、pp.201-202.)

見えない霊的存在である天使が、サタン化するということは、どういうことであるのか。この問題を念頭に置きながら、ローマ人への手紙13章1節以下の、上に立つ権威(エクスーシア)をとりあげたいと思う。これを天使的権力と考えるものと、それに反対するものとの両者が今日の神学界に存在している(前者がバルト、シュミット、デーン、クルマン。後者がキッテル、アルトハウス、ミヘルなどである)。キッテルは新約聖書で90回のうちほとんど80回までがエクスーシアは普通の権力を意味しているので、ローマ人への手紙のこの箇所も、世俗の国家権力の意味に解釈せねばならぬというのである。これに対してクルマンは、この言葉は単数使用のばあいは問題外として、複数使用、あるいはすべての権威というように単数の複数的意味の使用のばあいは、天使的権力に関係づけられているという。そしてパウロはローマ人への手紙のこの場所では、天使的権力を考えているといってよい。またパウロには世俗的意味でのエクスーシアを考えることを否定はしないが、彼の根本思想は天使的権力を考えているといわねばならない。地上の国家はこのような天使的権力の具現であり、機関である。パウロはコリント人への第一の手紙2章7−8節、6章3節でも、地上の国家支配のもとに見えない支配者を考えていることは明瞭であるといわれている。ローマ人への手紙のこのところでも、地上の国家支配者は神の僕であるということは、そのもとにある天使的権力が、神によって秩序づけられているからであると解釈せねばならない。

ところがこの同一の国家権力にキリスト者は、死をもって反対せねばならぬときがある。それはこの国家権力が、皇帝礼拝を強要するときである。ここに国家権力はサタン化するのである(黙示録13:1以下)。同一の国家権力が神の僕となるとともに、サタンとなるということは、その背後に天使的権力を考えるとき、よく理解できるといわれる。天使的権力がキリストの支配のもとにあるとき、その機関としての国家権力は、キリストに仕える。けれどもキリストの支配の外ではなく、支配のなかで、その支配から離れるとき、国家も自己目的化してサタン的になるのである。ここに終末的神の国にいたるまでの中間時代の特色があるといわねばならない。

7 十字架の勝利

新約聖書神学者ジョージ・ブラッドフォード・ケアードは、天使的諸力に対するキリストの十字架の勝利を次のように述べている。(ジョージ・B・ケアード『支配と諸力─パウロ神学研究』オックスフォード大学出版部、1956年、pp.92-93.)

十字架は、キリストの個人的勝利である。これにより、キリストは、天使的諸力の支配権を、足下に置くに至った。キリストは、その肉の体を脱ぎ捨てることにより、「もろもろの支配と権威の武装を解除し」(コロサイ2:15)、それらの諸力がキリストに対して用い得る唯一の武器を、取り上げてしまった。

しかし、十字架はまた、集団的勝利でもある。キリストが、罪深い人類と同一化して、へりくだったことにより、人類はキリストの義と勝利とに自らを同一化することが可能となった。

キリストは、最後のアダムとして、新しい人類の頭となり、キリストにある人類は、キリストによる身代わりの死と復活を通して、新しい生命へともたらされた。この新しい人類に対して、支配と権威は、もはや支配権を及ぼし得ない。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません」(ローマ6:8-9)。

この世の支配者たちは、キリストをおのが手中に収めるどころか、かえって、全人類に対する支配権を失うはめになった。もしそうなるとわかっていたら、栄光の主キリストを十字架につけることは、しなかったであろう。

人が、この新しい人類に加わりたいと願うなら、ただ一つ条件がある。信仰である。この信仰とは、キリストと自分とが同一化されたという事実を、心の底から受け入れることである。人は、生まれながらにして、アダムに属する者である。しかし、キリストに属する者となるには、本人の同意がいる。

キリストにつける新しい集団としての人類は、実在の現実であり、それが経験上の事実となるのは、ただ信仰による。

8 諸権力に対する教会の立場

新約聖書神学者のハンス・コンツェルマンは、「中間の時」における教会の立場について、次のように述べている。(ハンス・コンツェルマン「エペソへの手紙 緒論」『NTD新約聖書註解8 パウロ小書簡』pp.150-151.)

現実に存在するということは、さまざまな関係にさらされながら、宇宙の只中におかれていることである。

教会は、キリストのからだとして、キリストが在す上なる「諸々の天」から、人間の生活空間であるこの地上にまで、身を伸ばしている。人間は、教会の中に受け入れられているが、まだこの宇宙のなかに生きており、その諸々の霊力の支配にさらされている。

しかし、人間は、以前は教会という場所の外で、なんの施すすべもなく、そうした諸々の霊力の手に渡されていたのに、いまやかれらを相手に闘っていくことが可能な者とされているのである。

以上。

裁判のお知らせ

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2013年2月13日(水)午前11時から東京地裁602号法廷で「クリスチャントゥデイ対山谷裁判」の第27回公判が行われます。ぜひ傍聴においでください。

詳細案内:裁判日記

今回の裁判では原告側最終反論に対する被告側最終反論を展開して、いよいよ弁論終結の目前に進みます。また、原告被告双方が人証申請(証拠となる証人を裁判所に呼んで尋問するための申請。証人の名前を指名して、尋問する内容をあらかじめ提出する)を行います。

みなさまのお祈りとご支援をよろしくお願い申し上げます!

第二十七回公判のご報告

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本日2013年2月13日(水)午前11時より、東京地方裁判所第602号法廷のラウンドテーブルにて、通称「クリスチャントゥデイ対山谷裁判」の(第二十七回公判)第十五回口頭弁論準備が行なわれました。

ラウンドテーブルには、合議体裁判所から裁判長の戸田久判事と陪席裁判官の中野雄壱判事の2名、原告側から原告訴訟代理人3名、被告側から被告訴訟代理人の紀藤正樹弁護士と山口貴士弁護士と被告の山谷の3名、計8名が着席しました。

今回の公判では、被告側が第11準備書面を陳述して、原告側が前回陳述した第7準備書面に対する反論を展開しました。

一方、原告側は第8準備書面を陳述して、被告側第11準備書面に対する反論を展開しました。

また、被告側は証拠申出書を提出して、原告高柳泉クリスチャントゥデイ前代表取締役と被告山谷真に対する人証尋問(証拠となる人物を法廷において尋問すること)を行うことを申請しました。原告側も証拠申出書を提出して、原告矢田喬大クリスチャントゥデイ現代表取締役に対する人証尋問を行うことを申請しました。

さらに、人証尋問の期日が2013年5月20日(月)と定められました。

次回の裁判では、高柳泉前代表取締役が陳述書を裁判所に提出し、裁判所はそれを見た上で、高柳氏を法廷に出頭させて尋問を行うかどうかを判断することとなりました。

閉廷後に開催された「裁判説明集会」で、被告代理人の紀藤正樹弁護士と山口貴士弁護士から、今回の趣旨説明が行なわれました。

貴重な時間を割いて、全国各地から遠路傍聴に来てくださった支援者の方々に心から感謝いたします。

次回、(第二十八回公判)第十六回口頭弁論準備は2013年4月3日(水)午前11時(東京地裁)第602号法廷となります。

祈りの聖書神学的基盤

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わたしたちは祈っていますが、どうしてわたしたちは祈ることができるんだろう。わたしのような者が、祈ってもいいんだろうか。わたしのような者が祈って、それがほんとうに神に通じるんだろうか。この時間は、こういうことについて、考えてみたいとおもいます。道筋としては、まず「わたしたちは祈ることができない」ということ。その次に「イエスが祈っておられる」ということ。最後に「だからわたしたちは祈れる」ということ。この順番で道筋をつけて、考えてみましょう。

まず「わたしたちは祈ることができない」ということです。

それは、朝が弱いから、とか、忙しいから、とか、めんどくさがりやだから、だから祈ることができない、というのではありません。そもそも、わたしたちは哲学的にも存在論的にも、祈ることができないんだ、ということです。

どうしてかと言いますと、神様は存在論的には「絶対他者」と呼ばれるお方でありまして、神はわたしたちとは絶対的に違うお方である、ということ。絶対とは対立するものを絶つ、ということですけれども、神様はあらゆるものから超越し隔絶していて、比較対象するということが一切できない。だから、神様とわたしたちの間には、そもそも接点が無い、ということなんです。

いや、接点はあるだろう。接点がなかったら神と人が交わることなんてできないじゃないか。そういう議論があります。神と人とが接することのできる接点。これを神学的には「結合点」と言いますけれども、はたして、ほんとうに神と人との間に結合点というものがあるんだろうか。20世紀に大神学者のカール・バルトとその友人のこれまた大神学者のエミール・ブルンナーというひとが、この結合点の存否をめぐって、大激論をいたしました。これが有名な「イマゴデイ論争」と呼ばれるものですけれども、結論から言いますと、これはカール・バルトが勝ちまして、神と人との間には本来、結合点が無いんだ、ということになりました。するとつまり、わたしたちは神様に祈ることができない。祈っても通じないんだ、ということになります。では、わたしたちには、何ができるのか? 神様の御心に対してひたすら服従するという。これだけがわたしたちの出来ることになります。ですから、「御心が天でなるように、地でもなりますように」という、この祈りだけは、わたしたちは出来ることになる。御心への服従です。

それでは次に「イエスが祈っておられる」ということを考えてみましょう。

いまやわたしたちの主イエスキリストがおいでくださいました。イエスは、母マリアの本質から血と肉とをおとりになって、ほんとうに人間であって、同時に、ほんとうの神であるという、そういうお方となられました。これを神学的には神人二性一人格と言います。イエスというひとつの人格の中に、神としての性質と、ひととしての性質が完全に結合していて、もう分離することが不可能なまでにひとつになっている、という。このことを救世軍教理第4条が言っておりまして、すなわち、「われらは、イエス・キリストの人格の中に神性と人性とが結合していて、彼は正しく真に神にして、また正しく真に人たることを信ず」とあるのが、それです。

イエスご自身こうおっしゃっています。「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ13:9)「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」(13:10) これは、オントロジカル・トリニティー、内在的三位一体をあらわしたお言葉だ、と神学的に言われている箇所ですけれども、じつに、イエスという人格において神と人とがひとつに結合しているのであります。

すると、どういうことになるんだろうか。先ほどわたしたちは、神と人とはあまりに違い過ぎて、その間にいかなる接点も無い、ということを考えました。神と人との間に結合点が無いから、祈れない、ということであります。ところが、主イエスキリストがいまやおいでになった。このイエスキリストの人格のうちに、神と人とが結合しているのであります。しかも、絶対に分離できないほどに固くひとつに結合しているのであります。

すると、どうなるのか。実にこのイエスキリストこそが、結合点だ、ということになります。神と人がひとつに結合した存在。イエスこそが生きた結合点であります。だから、イエスは祈ることができる。人として人の思いを神にたずさえて行く、祈る、ということを、イエスはすることができるのです。

イエスは、ご自身ひとりで山にのぼり、また、部屋の戸をとじて、父なる神に祈っておられました。そればかりではありません。イエスは、わたしたちに向かって、「さあ、おまえたちも祈れ!」と、祈りへとわたしたちを招いておられるのです。ヨハネの福音書16:23「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」

イエスの名によって祈れ!そうすれば与えられる!とイエスはわたしたちを招いていたもう。祈りへと、わたしたちを招いていたもうのです。

そこで第三の点。「わたしたちは祈れる」ということについて考えてみましょう。

わたしたちは、イエスの中で、イエスを通して、イエスによって、わたしたちは祈ることができるのです。なぜならば、わたしたちはみな、イエスに結ばれているからです。このことについて、カルケドン信条という、世界の主要な教会が告白している信仰箇条にこういうふうに説明されています。イエスはまことに神であって、神として、父なる神と同一本質である。そして、イエスはまことに人であって、人として、すべての人と同一本質である。

救世軍の教理で言えば、イエスの人格の中に神性と人性が結合していて、ということですけれども、このイエスの人としての性質は、過去現在未来のあらゆる時代のすべての人間と同一本質であって、そのことにおいて、イエスはすべての人と結合しているのだ、ということです。

そうすると、イエスの影響というのは、すぐに全人類に及ぶ、ということになるのです。それはちょうど、最初の人間アダムの影響が、全人類に及んだのと似ています。アダムは人間として、過去現在未来のあらゆる時代のすべての人間と同一本質でありました。だからこそ、アダムが罪に落ちたときに、アダムに結ばれたすべての人類が、同様にして罪に落ちたのです。

これに対して、いまや主イエスキリストが第二のアダムとしておいでになりました。イエスこそ、神と人とがひとつに結合したお方です。そうして、イエスの人性、人間としてのイエスの性質は、過去現在未来のあらゆる時代のすべての人間と同一本質であります。イエスはすべての人とつながっている。ひとつなんです。だから、イエスが祈ることができるなら、イエスに結ばれているすべての人間が祈ることができるようになる。イエスが死んだのなら、イエスに結ばれているすべての人間が古い自分に死ぬようになる。イエスが復活したのなら、イエスにむすばれたすべての人間が復活の命に与るようになる、ということです。

このイエスと全人類との神秘的な結合。これを神学用語でウニオミスティカと言いますけれども、これを言い換えるなら、わたしたちはイエスの中におり、イエスはわたしたちの中におり、わたしたちとイエスとはひとつである、なぜなら、結合されているのだから、ということになります。このことについて主イエスはヨハネの福音書17:20以下でこうおっしゃっておられます。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」

わたしたちとイエスとの、この密接な結合。これは、わたしたち全人類に与えられた無償の贈り物です。恵みの賜物です。わたしたちが逆立ちしたって、ひっくりかえったって、月にロケットを飛ばしたって、わたしたちが自力で手に入れられるもんじゃありません。しかし、神が人となってベツレヘムの馬小屋の飼葉桶に赤ちゃんイエス様となってお生まれになった。この奇跡によって、わたしたちとイエスとの、この密接な結合が与えられたのです。

しかし、神はこれをわたしたちに強制はなさいません。神は、わたしたちの個人としての意志を尊重されます。ですから、わたしたちは、この結合がイエスを通してすでに与えられているにしても、自分で「それをください」と求めなければなりません。ここに信仰が求められております。これについて、ジョージ・ブラッドフォード・ケアードという聖書神学者の言葉を引用して、この考察の結びの言葉としたいと思います。

「人が、この新しい人類に加わりたいと願うなら、ただ一つ条件がある。信仰である。この信仰とは、キリストと自分とが同一化されたという事実を、心の底から受け入れることである。人は、生まれながらにして、アダムに属する者である。しかし、キリストに属する者となるには、本人の同意がいる」

わたしたちは、すべての祈りの末尾を「主イエスキリストの御名によって祈ります、アーメン!」で結びます。これはまさに、本人が同意している「しるし」なのです。わたしは、イエスと自分とが同一化されたという事実を心の底から受け入れます。ゆえに、わたしは祈ることができる。なぜなら、イエスはまことに神にしてまことに人であるお方として、祈っておられるから。だから、わたしはいま、こうして、祈ることができる、アーメン! そのことの「しるし」なのであります。

天国について考えよう

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聖句 黙示録22:1-5

はじめに


死は終わりではありません。死は、新しい次元における、新しい命のはじまりです。死は終わりではなく、はじまりだということを、主イエスキリストは身をもってお示しになりました。十字架につけられ、墓に葬られ、陰府にくだり、三日目によみがえられた主イエスキリストは、新しい命そのものです。わたしたちは、主イエスに結ばれることによって、主イエスから新しい命を与えられて、わたしたちもまた、新しい次元における、新しい命を生きるようになるのです。

今日は、新しい次元の命、天国でのわたしたちの生活について考えてみましょう。天国での生活を考えるにあたって、次の道筋でもって考えて行きたいと思います。まず最初に「なぜいま天国について考える必要があるのか」ということ。次に「天国はどんなところか」ということ。最後に「天国でわたしたちは何をするのか」ということを考えてみましょう。

1 まず「なぜいま天国について考える必要があるのか」ということです。

うちの子どもたちはディズニーランドが大好きで、ディズニーランドに行くのが決まると、カレンダーにしるしをつけて、地図をひろげて、ガイドブックを広げて、ディズニーランドのあれに乗る、これに乗る、あれを食べる、これを食べる、といって朝から晩までその話ばかりで、日にちが近づいてくると、興奮が最高潮になって、ディズニーの歌をうたって、「ああ、たのしみ」「ああ、たのしみ」と四六時中叫んでいます。なんでそんなことをするのでしょうか? それは、自分がどこに行くかを知ったからですね。

わたしたちは、自分がどこに行くかを知ったなら、心が変わり、生活が変わるでしょう? みなさんは自分がどこに行くか知っていますか? 天国に行くのです。天国行きのチケットを、イエス様がくださいました。イエス様が十字架でご自分の命を代価として支払って、わたしたちのために天国行きのチケットを手に入れてくださいました。これは大変貴重なものです。

いつ天国に行きますか? カレンダーにしるしをつけるべきですよ! ちゃんと準備が出来るように! 地図をひろげるべきですよ! 天国の地図というのは、聖書です。天国での生活について、聖書に書いてあります。聖書は天国のガイドブックです。天国に行ったら、あの人に会おう、この人に会おう、あんな話をしよう、こんな話をしよう。いまから大騒ぎすべきです。四六時中天国の歌を歌って、「ああ、たのしみだ」「ああ、たのしみだ」「ハレルヤ、ハレルヤ」と叫ぶべきです。なぜかって? なぜなら、これから天国に行くのだから!

これが「なぜ、いま天国について考える必要があるのか?」という質問への答えです。天国について考えるなら、わたしたちのいまの心が変わり、わたしたちのいまの生き方が変わるのです。

2 次のポイントに移りましょう。「天国はどんなところか」ということです。

天国は、どんなところでしょう? 天国のガイドブックである聖書に書いてあります。ヨハネの黙示録22:1-5をもういちど読んでみましょう。

「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである」

天国には、命の水の川が流れています。先日、プレアデス星団の近く、地球から750光年のところにあるL1448―MMという星が、1秒間にアマゾン川の1億倍の量の水をマッハ588のスピードで噴出していて、その噴出は1000年以上続く、ということが発見されました。すごい量の水ですね。しかし、天国にはそれをはるかに凌駕する命の水が流れています。

わたしたちは、この地上の生活の中で、心が枯れる、気力が枯れる経験をいたします。だるさをおぼえ、疲れをおぼえ、生きる元気が失せる経験をいたします。何を食べてもおいしくない、何をやっても楽しくない、何もやる気がおきない経験をいたします。しかし天国には、枯れることのない命の水の川がえんえんと流れていて、わたしたちはそこから命を豊かに受けることができるのです。この命は、どこから流れてくるのですか? 「神と小羊の玉座から流れ出る」とありますとおり、父なる神と主イエスキリストから、命の水が流れ出て、わたしたちの心をうるおすのです。

天国には、命の木の実があります。これは、癒しを象徴しています。「その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない」とありますとおり、天国でわたしたちの心は本当に癒されるのです。地上で生きている限り、わたしたちには、もろもろの利害関係があり、誤解があり、敵対があり、裏切りがあり、ねたみ、嫉妬、優越感、劣等感があり、高慢があり、失望があります。こういうもろもろの中を、人間はぐるぐるぐるぐる、あり地獄みたいにもがきまわっています。それはまさに「呪い」ですね。呪いという漢字の成り立ちは、人がひざまずいて、口でもって「あいつがいなくなればいい、あいつさえいなければ、あいつがいなくなればいい」と、呪いの言葉を唱えているさまを表しています。しかし、天国には「呪われるものは何一つない」と言うのです。天国においては、あらゆるひとが、主イエスキリストの十字架のおん血潮によって罪ゆるされ、贖われて、和解させられた世界。あらゆる敵対感情が取り払われて、互いが互いを心底ゆるして、完全に理解して、完全に受け入れて、ひとつの心になった世界。それが天国です。ですから天国に、ほんとうの癒しがあるのです。

それは、主イエスがこうお祈りなさったことの実現です。すなわちヨハネ17:21に「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」とあり、またヨハネ17:23に「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」という、イエス様の祈りが実現した世界。それが天国です。

3 では、そんな天国で、わたしたちは何をするのでしょうか? 最後に「天国でわたしたちは何をするのか」ということを考えましょう。

天国に住むわたしたちは「世々限りなく統治する」と言われております。キリスト教作家のC.S.ルイスは、キリスト教の真理をおとぎ話のスタイルで表現した『ナルニア国物語』という本を書きました。その中に、第二次世界大戦のロンドン大空襲から疎開して田舎で暮らし始めたピーター、スーザン、エドマンド、ルーシーという四人の兄妹が出てまいります。彼らは地上の世界では、疎まれ、邪険にされ、無力で、何にもできなくて、誰も一人前と認めてくれない子どもたちです。しかし「あちらの世界」では、主君アスランのためにいさおしをたてて、それぞれが英雄王ピーター、やさしの君スーザン、 正義王エドマンド、たのもしの君ルーシーとして、王冠をいただき、王座に着き、領地を与えられ、それぞれが、それぞれの国を治める、という大団円を迎えるのです。

こちらでは無力な子どもたちが、あちらでは王子であり王女となる。太平洋戦争下の京都のある教会では、青年会を男女それぞれに「王子会」「王女会」と呼んで開催していたそうです。時代の暗雲の中で、キリスト者というだけで官憲から監視され、世間から白い目で見られ、キリスト者であるがゆえの不安、葛藤、試練を通らせられました。そんな自分が、よもや本当に王子であり王女であるだなんて、おとぎ話をどれほど読み耽ってその気になったとしても、過酷な現実の中で木っ端みじんにされたことでしょう。それでも彼らは青年会の看板を「王子会」「王女会」として、かかげたのです。どうしてですか? 彼らは、自分がどこに行くかを知っていたからです。イエス様からもらった天国のチケットを、しっかり握り締めていたからです。「あちらの世界」の自分こそ、ほんとうの自分なのだと、確信していたからです。

ここにいるわたしたちが天国にたどり着いたとき、わたしたちもまた主君から褒美を受けるんでしょうか? わたしたちも頭に王冠をいただくのでしょうか? わたしたちも、それぞれふさわしい称号を与えられるんでしょうか? 「あわれみの王女」として? 「とりなし王」として? 「寛容王」として? 「堅忍不抜の大公」として? わたしたちもまた、それぞれに領地を与えられ、領土を与えられ、それぞれ国を治めて、王の王・主の主であるイエスキリストの平和の御世の幸いを、いついつまでも楽しむのでしょうか?

そうなるのだ、と聖書は言うのです。「彼らは世々限りなく統治する」と言うのです。わたしたちがほんとうにそういうものになるのであれば、わたしたちはそこからさかのぼって、もういまから練習を始めなければならないはずです。あわれみの練習を。とりなしの練習を。寛容の練習を。試練を忍耐し、決してへこたれない堅忍不抜の練習を。王子や王女の持つ、勇気と、大胆さと、熱心さと、輝きの練習を、もういまから始めなければならないはずです。

荒井好光少佐という方は、創世記第1章を読んでいて、「神様、なんであなたは宇宙を創造なさったのですか?」と祈りの中で神様に尋ねたそうです。すると神様は、「それは、わたしが造った宇宙を、おまえたちが喜び楽しむため、そして、わたしが造った宇宙をお前たちが治めるためだよ」と、お答えになったそうです。荒井少佐は清瀬病院の営繕課に任命を受けていましたから、さっそく「宇宙を治める」ための練習を始めたそうです。まず、病院の芝生をきれいに刈って、次に、病院のトイレをピカピカに磨いて。やがて宇宙を治めるという大きな仕事をするために、きょう神様から託された小さな仕事に心を注いで励むんだ、ということです。荒井少佐は天国に行ったら「忠実王」という称号を与えられて、さぞかし広い領地を与えられるに違いありません。

むすびのことば

わたしたちの日々の生活には、天国の光が差し込んでいるでしょうか? それとも、地獄の影が覆っているでしょうか? わたしたちが自分の口でもって「あいつがいなくなればいい、あいつさえいなければ、あいつがいなくなればいい」と誰かを呪って生活しているとしたら、地獄の影が覆っているのです。わたしたちがイエス様からもらった天国のチケットを握り締めて、「ああ、たのしみだ」「ああ、たのしみだ」といつも叫んで、四六時中天国の歌をうたって、ガイドブックである聖書をひろげて、あわれみの練習、とりなしの練習、寛容の練習、忍耐の練習、勇気と大胆さの練習、熱心と輝きの練習をして、やがて宇宙を治める大きな仕事をするために、きょう神様から託された小さな仕事に心を注いで励んでいるなら、わたしたちの生活には、天国の光が差し込んでいるのです。もういますでに天国の光が差し込んでいるのです。それは実にハレルヤなことです。わたしたちは、みんな、そうすべきではありませんか?
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