われわれの国は、目下重大な岐路に立っている。ゆえに、本稿を再掲する。
初出:2010年5月22日
ジョージ・オーウェルの『1984』はディストピア小説の金字塔だ。全体主義国家が、個人の私生活はおろか、脳の内部までも完全に統制する「理想社会」が描かれている。
私生活も脳の内部までも統制された個人は、偉大な庇護者であるビッグブラザーに向かって、こう告白するのだ。
「あなたを愛しています」
これをマイケル・ラドフォード監督が、小説が描いたのと同じ1984年に映画化した「1984」という作品がある。
この映画「1984」を先日YouTubeで見たのだが、そこのコメント欄にこんな気になる書き込みがあった。
「アマゾンに1984の映画版は全部『もう生産されていません』と表示されてた。この映画を消し去ろうとしている誰かがいるのか? こういう社会を強制しようとしているのか? だから目を覚ましてもらっては困るというわけか?」
まさかね。考え過ぎでしょう。そんなふうになるわけがない。ぼくは「不審事案」には敏感だけど、陰謀論者じゃないし。だいたい、陰謀論なんて、しょせんサブカルチャーだよね。
。。。そう思って「ふふん」と鼻で笑っていたのだが、しかし、今日の午後、キリスト教書評誌『本のひろば』の巻末言に、こういう文章が掲載されていた。
これは重要なことだ、と思ったので、以下にその全文を転載することとした。
月刊キリスト教書評誌『本のひろば』財団法人キリスト教文書センター刊、2010年6月号、28ページ。
<以下転載>
「ナチスが共産主義者を攻撃した時、私は何もしなかった。社会主義者、学校、新聞、ユダヤ人らが攻撃されたが何もしなかった。ついに教会が攻撃され、私は行動したが遅すぎた」
M.ニーメラーの有名な詩が最近ネットでよく引用される。
東京都が書籍等に「不健全」指定をかける旨を規定した青少年健全育成条例(大人への販売禁止規定はないが流通側が出荷を自粛するので事実上の発禁に等しい)に、規制条件を恣意的に拡大できる条項を加える改正案が先日都議会に提出されたところ、ネット等で大きな反発を受けた。
不健全な本の規制に反対するとは一体どんな不健全な人間かと思いきや、その先鋒に立ったのは一定の評価を受けた漫画家や作家、出版人だった。
有害指定と表現の自由を巡る論争は二十年前の漫画規制、半世紀前の悪書追放運動にまで遡る。
我々はつい「子どもが性や暴力を扱った本を読むと犯罪者に育つ」と考えがちだが、昔から日本より厳しい出版物規制をかけている諸外国の犯罪率はなぜか日本のそれを大きく上回る。
それに「環境が犯罪を誘因する」という発想は特定地域出身者への差別とも表裏一体だ。
私だって感情的には子どもに不健全な本など見せたくない。
だがそれなら読んでいるそばから親や周囲の大人が取り上げて叱り教育すればいい。権力で取り締まる問題ではない。
「健全」な国民を育む上で有害な退廃表現・思想を権力が定義し封殺する危うさを、我々キリスト者は歴史から痛いほど学んでいよう。
規制強化の動きは全国に拡大中だが、条文検討の場から慎重派の識者を排し、推進派のみで話を進めるなど、手続上の不備も指摘される。
「健全育成」の美名に惑わされず冷静に問題の本質を見抜き判断したい。我々もニーメラーに聴きつつ。
<以上転載>
われわれはここで、ドイツ国家社会主義労働者党(ナチス)が「健全な精神と肉体」を賛美することを思想の根幹となし、そうして、ドイツの全住人を「健全な国民」となすべく強制的同一化・同質化を実行した、ということを、思い出さなければならないであろう。
この強制的同一化・同質化の具体的手段として「焚書」が行なわれたのであった。鍵十字の旗がたなびき、親衛隊が一糸乱れず行軍する傍らで、不健全な図書が山とつまれて燃やされ、ユダヤ人が書いた図書が山とつまれて燃やされ、さらには、ユダヤ人の経典であるタルムードが山とつまれて燃やされ、ついに、旧約聖書が燃やされた。
このようにして熱心に追求された「健全な社会」は、ついに、自分たちが「不健全だ!」とレッテルを貼った遺伝子を、人間の中から廃絶するという、あの悪魔的な路線へと驀進して行ったのである。
だが、ものごとがそういう暗黒面に全力疾走して行くことが露見するようになるだいぶ前においては、ニーメラーは、こう思って、何もしなかったのだ。
「まさかね。考えすぎでしょう。そんなふうになるわけがない」
彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、 私は声をあげなかった、 私は共産主義者ではなかったから。 社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、 私は声をあげなかった、 私は社会民主主義ではなかったから。 彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、 私は声をあげなかった、 私は労働組合員ではなかったから。 彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、 私は声をあげなかった、 私はユダヤ人などではなかったから。 そして、彼らが私を攻撃したとき、 私のために声をあげる者は、 誰一人残っていなかった。 マルティン・ニーメラー 出典「ウィキペディア」 |
この問題をさらに考えたい人のために:
「信教の自由の嫡子としての表現の自由」