Quantcast
Channel: Major Mak's Diary
Viewing all articles
Browse latest Browse all 124

神の国について

$
0
0

新約聖書の「神の国」は、原典ではバシレイアという言葉が使われており、これは、王が支配する領域、という意味です。

わたしたちキリスト者にとっては、王の王・主の主であるイエスキリストが支配したもう領域、それが神の国だ、ということになります。

わたしたちは日常生活において三種類の神の国に触れる、ということができるでありましょう。

1 キリストの王国としての神の国

新約聖書が書かれた時代のキリスト者が抱いていた世界観においては、宇宙の構成に関わる諸権力(主権・位・支配・権威といった天使的諸力)が国家や公共機関の背後にあって、それらを動かしている、と考えられていました。これについては、フランシスコ会聖書研究所訳の新約聖書のエフェソ書やコロサイ書の欄外注釈に簡潔にコメントされていますので、読まれてみてください。

王の王・主の主であるイエスキリストが、勝利者として、神の右の座にあって宇宙を統治していたもう。そのキリストの御座の下にあって、天使的諸力が地上のさまざまの国家や公共機関を背後から動かし、善を勧め悪を罰することにより、社会の秩序と生活の安寧を保障して、人間がその罪性にもかかわらず自滅を免れることができるようにしている、という世界観です。

そうしますと、わたしたちが日常の生活のいろいろな場面で接する、社会のいろいろな仕組みや決まり事というのは、すべて諸権力であって、キリストの王国としての「この世界」を維持し管理するために日夜労苦して働いているキリストのしもべだ、ということになります。わたしたちは、生活の中で、諸権力への服従を求められる場面において、いつでもキリストの王国としての神の国に触れていることになります。一方、わたしたちは諸権力がその本来の任務から逸脱して悪鬼化する、という場面に触れることもあります。

2 キリストに結ばれた人間としての神の国

主イエスは、母マリアの本質から血と肉を取って、まことの人間となられた、まことの神です。カルケドン信条では、イエスはまことの神にして、まことの人であり、その神性においてイエスは父なる神と同一本質であり、その人性においてイエスはすべての人間と同一本質である、と告白されています。

ですから、イエスの血と肉において、過去・現在・未来のあらゆるすべての人間が、イエスとひとつに結ばれている、なぜなら、同一本質であるからだ、ということになります。この「イエスの受肉の神秘から参照した人間論」とでも言うべき世界観においては、およそ人間という人間はすべて、イエスと結ばれている、と観ることになります。イエスの受肉の時点以降、わたしたちの宇宙は根本的な変化をきたしたのであって、人間は、たとえそれがどんな人間であるとしても、血と肉をもった存在であるという、ただその事実をもって、すでにイエスと結ばれているのです。

そうしますと、わたしたちが日常の生活において出会うどんな人も、その国籍・人種・性別・年齢・言語・能力・思想・信条・立場・仕事・志向・犯罪歴といった属性にまったく関係なく、ただ血と肉をもった存在であるという一点をもって、その人はイエスと結ばれた存在だ、と観なければなりません。でありますから、わたしたちキリスト者は、出会うどんな相手に対しても、相手がイエスキリストであるようにして接しなければならない、ということになります。これが、相手の中にキリストを見ようとする姿勢でありまして、わたしたちは、相手がキリストであるかのように擬制するのではない。相手がほんとうにキリストであるとして接するのです。なぜなら、イエスは人性において、すべての人間と同一本質なのですから、これは本質的事柄であって、人間の尊厳は、ここにあるのです。

3 イエスの心の具現化としての神の国

血と肉をもった存在であるという、その事実をもって、すべての人はイエスと結ばれております。しかし、個々の人間が、その「人生の祭壇」において、その中心にいったい何を祭っているか、ということは、まったく別の話であります。たいがいの人は「人生の祭壇」の中心に、自分自身の思い、というものを据えています。人生において最も尊いのは、自分自身の思いの具現化なのであって、この具現化に向けてあらゆるものが奉仕するようにと、多くの人の人生は配置され構成されています。その意味では、王の王・主の主としてのイエスキリストの支配は、多くの人の「心」の中心にまでは、いまだ及んでおりません。この狭義の意味においては、多くの人はいまだ「神の国」に生きていないのです。

しかし、イエスキリストを個人的に自分の救い主として、王の王として、主の主として、心の中に迎え入れた時に、人は変化します。その「人生の祭壇」の中心を長らく占拠していた自分自身の思いというものは、とりおろされ、わきへのけられて、いまや、主イエスの心が祭壇の中心に置かれるようになります。人生において最も尊いのは、自分ではなく、主イエスの心の具現化なのであって、イエスの心の具現化のために、あらゆるものが奉仕するようにと、その人の人生は再配置され再構成されます。これが回心であり、新生であり、聖化であり、キリスト者になる、ということです。

いまや、王の王・主の主としてのイエスキリストの支配が、その人の「心」の中心にまで突入して来ます。もちろん、自分の思いをとりおろすのは、けっして容易ではありません。内的な戦いがあり、葛藤があります。しかし、イエスの心に対する完全な明け渡し、イエスの心に対する完全な奉献がなされたときには、その人は、その人自身が生きた神の国となり、イエスの心の具現化としての神の国そのものに、その人がなっているのです。

御国を来たらせたまえ!

わたしたちが主イエスから教えられた「主の祈り」における「御国が来ますように」という祈りは、以上見てきたような第一の意味での神の国の到来、第二の意味での神の国の到来、第三の意味での神の国の到来を、すべて包含しています。

わたしたちの祈りが向くのは、諸権力がキリストのしもべとして維持管理しているキリストの王国としての「この世界」において、キリストに結ばれているすべての人間が、福音の宣教の言葉を聞いて回心して、その人生の祭壇の中心に「イエスの心」を置いて、イエスの心を心として、イエスの心の具現化のためにみずからをまったくささげた生活をするようになる、ということです。これが、神の国の完全な実現への祈りです。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 124

Trending Articles