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わたしの居場所はどこに?

聖句 ルカ1:39-56

「ここがわたしの居場所だ」と思えるものを持っている人は、なんと幸いでしょう。晴れの日も、雨の日も、喜びの日も、涙の日も、ここに帰れば、いつもわたしの居場所がある。そう思える人は、なんと幸いでしょう。新世紀エヴァンゲリオンというテレビアニメが大変な人気を博しましたが、その最終回では、いろいろあったあげく、主人公の碇シンジという中学生がこう叫ぶのです。「ぼくはここにいていいんだ!」 その瞬間から主人公は、ほんとうに生き始めるのです。ここが自分の居場所だ、そう思えた瞬間に新しい世界が始まるのです。

教会は、みんなにとって「ここがわたしの居場所だ」と思える、そういう場所であってほしいですよね。教会には、あたらしい人がたずねてきます。あたらしい人は教会で、はじめてのことをいろいろ経験します。礼拝で立ったり座ったりする。「げに」とか「だに」とか平安時代みたいな言葉の讃美歌を歌わせられる。「主の祈り」というかけ声とともに、少しも乱れずみんなが文語のお祈りを始めて、あっけにとられているうちにアーメンになる。電話帳みたいに恐ろしくぶあつい聖書をみんな自由自在にあやつって、ぱっと目当てのページを開くので、胆をつぶす。「あがない」とか「あぶらそそぎ」とか「いさおし」とか「義とされる」とか、わからない言葉が出て来る説教をみんな忍耐深く聞いている。あれ、なんか、居眠りしているひともいるみたいだ・・・

教会は、よくわからないことばかりですね。あたらしい人は、なかなか教会にむすびつきません。残念なことです。でも、わたしたちは知っているんです。たいせつなのは、そんなところじゃない。「げに」とか「だに」とか、立ったり座ったりとか、文語調のお祈りとか、長い説教とか、それがたいせつなんじゃない。イエスさまだ。イエスさまに出会ってほしいんだ。目に見えないけれど、イエスさまがここにおられて、イエスさまは「わたしはあなたのために十字架にかかって、よみがえって、命を与えるために、ここにいるよ」と、あなたを待っておられる。イエスさまに出会うことが、たいせつなんだ。わたしたちは、それを知っているんです。

でも、イエスさまとの心と心の出会いは、教会に足を運んでも、そう簡単に起こるものではない、ということも、わたしたちは知っていますね。そりゃ、自分たちだって昔はそうだったんだから。ところで、考えてみてください。もし、教会に来たあたらしい人が、「ここはわたしの居場所だ」「わたしはここにいてもいいんだ」と、心からそう思えたら、どうでしょう? 教会には、あたらしい人が来つづけるんじゃないでしょうか?

今日お読みした聖書は、マリアがエリサベトのもとをたずねた、という箇所です。マリアは当時、十代の少女でした。そうであるのに、赤ちゃんイエスさまをみごもったことを、天使から告げられたのです。まだ結婚していない十代の少女が、妊娠し、出産する。それは、からだの面でも、こころの面でも、社会的な面でも、とほうもない悩み、苦しみをもたらすことでした。マリアは心細く、不安だったことでしょう。わたしたちの想像を超えていますね。

でも、マリアには、行くところがあったんですよ。それが、エリサベトのところでした。エリサベトはマリアの親戚で、年をとった女性でしたが、エリサベトもまた神様の奇跡的な力によって赤ちゃんをみごもっていました。洗礼者ヨハネとなる赤ちゃんをみごもっていたのです。マリアとエリサベトは似た境遇にありました。だから、お互いがお互いを理解できたんです。理解できるから、心をかよわせて、話をすることができたんです。心がかようから、自分をさらけだして、お互いにそれを受け止め合うことができたんです。それは、ふたりにとって、ものすごい喜びでした。聖書はこう言っています。「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った、『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています』」「マリアは言った。『わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます』」

マリアとエリサベトは、お互いがお互いの「居場所」である、そういう関係でした。そこに、よろこびがありました。マリアとエリサベトは、お互いを受け止め合うことができました。マリアは三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、家に帰りました。マリアは、エリサベトから勇気と励ましをもらったので、赤ちゃんイエスさまを産むための気持ちを整えることができました。

ここには、教会のまじわりの姿が示されているのではないでしょうか? 教会の中に「わたしの居場所」があるっていうのは、講壇の前から2番目のベンチの右端から4番目がわたしの座席だ、っていうことではないですよね? 教会に行くと、だれそれさんに会える。別に何か言うわけでもないんだけれど、だれそれさんがわたしのことを受け止めてくれる。そういう関係があるっていうことが「居場所」ではないでしょうか?

もちろん、わたしたちにとって究極の居場所は、イエスさまです。イエスさまとわたしたちとの関係。これが究極の居場所です。イエスさまは、わたしのことをすべて知っていてくださる。イエスさまは、わたしの罪を全部十字架で負って、ゆるしてくださった。イエスさまは、いつもそばにいてくださる。イエスさまは、わたしに永遠の命を与えてくださる。イエスさまとの関係は、永遠に続きます。イエスさまこそ、わたしたちにとって究極の居場所です。でも、それだけでいいんだったら、わたしたちは教会に来る必要がないかもしれませんね? パウロがアラビアの砂漠で14年間そうしたように、ひとりで洞窟に入って、ひとりでイエスさまと一緒にいればいいことになってしまう。でも、パウロは洞窟から出て来て、アンティオキアの教会に行って、そこで兄弟姉妹に仕えました。そこから、キリスト教会が世界に広がって行ったんです。

こう考えてみたらどうでしょう? わたしは、だれかのエリサベトになっているだろうか? わたしは、だれかのマリアになっているだろうか? お互いがお互いに対して「居場所」になっている関係。マリアとエリサベトの関係になるには、やはり、声をかけることからはじめましょう。イエスさまは、出会ったひとに声をおかけになりました。「あなたは何がしてほしいですか」とお尋ねになりました。そして、相手の求めに応えました。わたしたちも、イエスさまにならって、声をかけることをしていきたいですね。

イエスさまはまた、「飢えている人に食べさせ、渇いている人に飲ませ、裸の人に着せ、牢にいる人を訪ねなさい」とおっしゃいました。ひとりひとりのひとが、それぞれ違った求めをもっている、ということですよね。飢えている人に着せたら、どうでしょう? 裸の人に飲ませたら、どうでしょう? 渇いている人に食べさせたら、どうでしょう? なんだかちぐはぐで、「ああ、自分の求めが応えてもらえた」という気持ちは生まれないでしょう。ですから、わたしたちは、ひとりひとりの必要を見て、応えていく必要がありますね。

教会成長の権威であるピーター・ワグナー博士は、ひとりの牧師がひとりのひとの求めに応じられる限度は20人、どんなに多くても30人が限界だ、と言いました。日本の教会の多くは、30人ぐらいの礼拝出席の教会が90パーセントを占めているそうです。わたしにとっての居場所は、牧師先生だ、神父さまだ、そう思っているクリスチャンが多い、ということでしょう。セロテープ・テストというのをご存じですか? 教会でセロテープが見当たらないとき、あなたは、だれに聞きに行きますか? 「小隊長、セロテープどこですか?」 あなたが聞きに行ったひとが、教会におけるあなたの「居場所」となっているひとですよ。

もし、教会につどっているクリスチャンひとりひとりが、だれかの「居場所」になることができたら、どうでしょう? マリアにとってのエリサベト、エリサベトにとってのマリアになることができたら、どうでしょう? みなさんひとりひとりが、あたらしい5人のひとの「居場所」になることができたら、どうでしょう? きょうここに25人が出席しています。ひとりひとりが、あたらしい5人のひとの「居場所」になることができたら、125人ものひとが、「来週も教会に行こう。教会には、わたしの居場所があるから。だから、どんなことがあっても、来週も教会に行こう」と思えるようになるのではないでしょうか。どうか、神様がわたしたしたちをそのように導いてくださるように、お祈りいたしましょう。

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