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受難節の黙想

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「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた」(ルカ23:26)

「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(コロサイ1:24)

「わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています」(コロサイ1:29)

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)


1 この受難節のとき、わたしたちは主イエスキリストの十字架について黙想いたします。

2 とくに、主イエスが十字架を担って進まれた「悲しみの道」(ヴィア・ドロローサ)について黙想いたします。

3 ピラトのもとで死刑の判決を受けられた主は、鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、はずかしめを受け、十字架を背負わされ、カルバリへの道を、よろめきつつ進まれました。

4 全人類の過去・現在・未来の一切の罪を、いったいだれが身代わりに背負うことができるでしょう? わたしたちの主イエスキリストをほかにしては、だれもありません。

5 主は、父なる神と同一本質であって、その神性において父なる神とひとつであられます。同時に、主は、母マリアの本質から取られた血と肉において、全人類とわかちがたくひとつにむすびあっておられます。まことに主の人性は、全人類と同一本質であるがゆえに、全人類と主イエスとはひとつなのです。

6 この、まことに神にして・まことに人である・主イエスのみが、全人類の罪の責めを負って身代わりに死ぬ、ということがおできになるのです。

7 ところで、全人類の罪を背負うことのできる主イエスは、しかし、木の十字架を最後までご自分で運ぶことができませんでした。

8 ピラトの法廷で木の十字架を背負わされた主は、「悲しみの道」を、よろめきつつ、十字架を運ばれました。しかし、途中でお倒れになり、ご自分で最後まで十字架を運ぶことができませんでした。

9 それで、そこを通りかかったキレネ人のシモンが呼び止められ、彼は自分の意に反して、木の十字架を背負わされ、運ばされました。

10 霊的には、全人類の過去・現在・未来の一切の罪を、主イエスが身代わりに背負われるのです。

11 しかし、物理的には、木の十字架を、主イエスはご自分でカルバリまで運ぶことができませんでした。こうして、ここに、キリストの苦しみの「不足分」が発生することになります。

12 まことの人であるお方として、キリストは、その木の十字架を、カルバリまで運ぶべきでありました。運ぶことによって、人であるキリストは、それが与える分量の苦しみを、受けるべきでありました。

13 ですが、人であることの弱さのゆえに、キリストは、その木の十字架を運ぶことができなくなり、それゆえ、その分量の苦しみをご自分では受けることができなくなり、こうして、キレネ人のシモンが代わりに「不足分」を受けたのです。

14 さて、この「不足分」は、キレネ人のシモンによって、すべて充足されたのでしょうか?

15 主イエスは、この「不足分」を、あたかも聖餐式のパンのようにして、それを、キリストの弟子であるわたしたちに、分配してくださるのではありませんか?

16 わたしたちもまた、キリストの苦しみの「不足分」を、自分の身に受け取り、自分の身に担うことができるのではありませんか?

17 ここに、わたしたちキリスト者の「十字架の召し」があるのではありませんか? まさに聖パウロが言うように、キリストの苦しみの欠けたところを、わたしたちが自分の身をもって満たすことができるのではありませんか?

18 キレネ人のシモンは、自分の意に反して、木の十字架を無理やり負わされました。彼は、それを拒むことができませんでした。運んでいるあいだ、彼は、十字架の意味を理解することができませんでした。いやいや、不承不承で、運ばされました。カルバリまで運び終えて、十字架を地面におろしても、まだ彼は、その意味を理解できませんでした。目の前で主イエスが釘づけられ、十字架が高々とカルバリにかかげられたのを見ても、彼はなお、その意味を理解できませんでした。

19 しかし、復活の主イエスに出会った日に、キレネ人のシモンは、はじめて、自分が担った十字架の意味を悟ったのです。

20 わたしたちの場合も同様ではありませんか? わたしたちは、キリストの苦しみの「不足分」であるところの「わたしの十字架」を、与えられます。自分の意に反して、与えられます。ある日、突然、与えられます。その十字架を背負わされたとき、わたしたちには意味が理解できません。苦しみながらそれを運んでいるあいだも、わたしたちは意味が理解できません。運び終えて、十字架を肩からおろして、安堵の息をついても、なお、わたしたちは意味が理解できません。

21 しかし、わたしたちが復活の主イエスに出会うとき、わたしたちははじめて、自分が担ってきた「わたしの十字架」が、実に「主イエスの十字架」であったことを悟るのではありませんか?

22 そして同時に、わたしたちは次のことをも悟るのではありませんか? 「主イエスの十字架」を、わたしが「わたしの十字架」として担い、運ぶことができたのは、わたしがそれをしたからだろうか?

23 いや、そうではない。「わたしの十字架」であり「主の十字架」であるそれを、わたしにおいて担い、わたしにおいて運びたもうたのは、主だ! 主イエスご自身だ!ということを悟るのです。聖パウロが言うように、確かに、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって、わたしはそれを運んでいた、ということに気付くのです。

24 母マリアの本質からイエスがお取りになった血と肉において、わたしたちはイエスのペルソナの内にわかちがたくひとつにむすばれています。ゆえに、わたしが主のためにしたことは、主がわたしにあってしてくださったこと。主がわたしにあってしてくださったことは、わたしが主のためにしたこと。わたしたちと主イエスとは、同一本質であるからです。

25 さて、キリストの苦しみの「不足分」は、全能の神の証しとして、この世界に存在しているのではないでしょうか?

26 神は全能でありますが、神への反対者たちは、次のような疑問を投げかけます。「神は、なんでもできると言う。しかし、神は自分が運べない石を創造することができない。ゆえに、神は全能ではない。よって、神は存在しない」

27 しかし、まことの神である主イエスは、人としておいでになって、あの十字架を運ぶこができず、よろめき、倒れられました。そして、あの「不足分」が発生しました。あの「不足分」を満たすために、キレネ人のシモンが召されました。あの「不足分」を満たすために、わたしたちが召されました。そして、主イエスは、わたしたちにおいて働いておられます。主イエスは、わたしたちをとおして、「わたしの十字架」であり「主の十字架」である「不足分」を、今日も担っておられるのです。

28 ゆえに、「わたしの十字架」こそが、この世界における全能の神の証しなのだ、と言うことができるのではありませんか?

29 主イエスご自身、こう言われます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)

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