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天国について考えよう

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聖句 黙示録22:1-5

はじめに


死は終わりではありません。死は、新しい次元における、新しい命のはじまりです。死は終わりではなく、はじまりだということを、主イエスキリストは身をもってお示しになりました。十字架につけられ、墓に葬られ、陰府にくだり、三日目によみがえられた主イエスキリストは、新しい命そのものです。わたしたちは、主イエスに結ばれることによって、主イエスから新しい命を与えられて、わたしたちもまた、新しい次元における、新しい命を生きるようになるのです。

今日は、新しい次元の命、天国でのわたしたちの生活について考えてみましょう。天国での生活を考えるにあたって、次の道筋でもって考えて行きたいと思います。まず最初に「なぜいま天国について考える必要があるのか」ということ。次に「天国はどんなところか」ということ。最後に「天国でわたしたちは何をするのか」ということを考えてみましょう。

1 まず「なぜいま天国について考える必要があるのか」ということです。

うちの子どもたちはディズニーランドが大好きで、ディズニーランドに行くのが決まると、カレンダーにしるしをつけて、地図をひろげて、ガイドブックを広げて、ディズニーランドのあれに乗る、これに乗る、あれを食べる、これを食べる、といって朝から晩までその話ばかりで、日にちが近づいてくると、興奮が最高潮になって、ディズニーの歌をうたって、「ああ、たのしみ」「ああ、たのしみ」と四六時中叫んでいます。なんでそんなことをするのでしょうか? それは、自分がどこに行くかを知ったからですね。

わたしたちは、自分がどこに行くかを知ったなら、心が変わり、生活が変わるでしょう? みなさんは自分がどこに行くか知っていますか? 天国に行くのです。天国行きのチケットを、イエス様がくださいました。イエス様が十字架でご自分の命を代価として支払って、わたしたちのために天国行きのチケットを手に入れてくださいました。これは大変貴重なものです。

いつ天国に行きますか? カレンダーにしるしをつけるべきですよ! ちゃんと準備が出来るように! 地図をひろげるべきですよ! 天国の地図というのは、聖書です。天国での生活について、聖書に書いてあります。聖書は天国のガイドブックです。天国に行ったら、あの人に会おう、この人に会おう、あんな話をしよう、こんな話をしよう。いまから大騒ぎすべきです。四六時中天国の歌を歌って、「ああ、たのしみだ」「ああ、たのしみだ」「ハレルヤ、ハレルヤ」と叫ぶべきです。なぜかって? なぜなら、これから天国に行くのだから!

これが「なぜ、いま天国について考える必要があるのか?」という質問への答えです。天国について考えるなら、わたしたちのいまの心が変わり、わたしたちのいまの生き方が変わるのです。

2 次のポイントに移りましょう。「天国はどんなところか」ということです。

天国は、どんなところでしょう? 天国のガイドブックである聖書に書いてあります。ヨハネの黙示録22:1-5をもういちど読んでみましょう。

「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである」

天国には、命の水の川が流れています。先日、プレアデス星団の近く、地球から750光年のところにあるL1448―MMという星が、1秒間にアマゾン川の1億倍の量の水をマッハ588のスピードで噴出していて、その噴出は1000年以上続く、ということが発見されました。すごい量の水ですね。しかし、天国にはそれをはるかに凌駕する命の水が流れています。

わたしたちは、この地上の生活の中で、心が枯れる、気力が枯れる経験をいたします。だるさをおぼえ、疲れをおぼえ、生きる元気が失せる経験をいたします。何を食べてもおいしくない、何をやっても楽しくない、何もやる気がおきない経験をいたします。しかし天国には、枯れることのない命の水の川がえんえんと流れていて、わたしたちはそこから命を豊かに受けることができるのです。この命は、どこから流れてくるのですか? 「神と小羊の玉座から流れ出る」とありますとおり、父なる神と主イエスキリストから、命の水が流れ出て、わたしたちの心をうるおすのです。

天国には、命の木の実があります。これは、癒しを象徴しています。「その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない」とありますとおり、天国でわたしたちの心は本当に癒されるのです。地上で生きている限り、わたしたちには、もろもろの利害関係があり、誤解があり、敵対があり、裏切りがあり、ねたみ、嫉妬、優越感、劣等感があり、高慢があり、失望があります。こういうもろもろの中を、人間はぐるぐるぐるぐる、あり地獄みたいにもがきまわっています。それはまさに「呪い」ですね。呪いという漢字の成り立ちは、人がひざまずいて、口でもって「あいつがいなくなればいい、あいつさえいなければ、あいつがいなくなればいい」と、呪いの言葉を唱えているさまを表しています。しかし、天国には「呪われるものは何一つない」と言うのです。天国においては、あらゆるひとが、主イエスキリストの十字架のおん血潮によって罪ゆるされ、贖われて、和解させられた世界。あらゆる敵対感情が取り払われて、互いが互いを心底ゆるして、完全に理解して、完全に受け入れて、ひとつの心になった世界。それが天国です。ですから天国に、ほんとうの癒しがあるのです。

それは、主イエスがこうお祈りなさったことの実現です。すなわちヨハネ17:21に「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」とあり、またヨハネ17:23に「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」という、イエス様の祈りが実現した世界。それが天国です。

3 では、そんな天国で、わたしたちは何をするのでしょうか? 最後に「天国でわたしたちは何をするのか」ということを考えましょう。

天国に住むわたしたちは「世々限りなく統治する」と言われております。キリスト教作家のC.S.ルイスは、キリスト教の真理をおとぎ話のスタイルで表現した『ナルニア国物語』という本を書きました。その中に、第二次世界大戦のロンドン大空襲から疎開して田舎で暮らし始めたピーター、スーザン、エドマンド、ルーシーという四人の兄妹が出てまいります。彼らは地上の世界では、疎まれ、邪険にされ、無力で、何にもできなくて、誰も一人前と認めてくれない子どもたちです。しかし「あちらの世界」では、主君アスランのためにいさおしをたてて、それぞれが英雄王ピーター、やさしの君スーザン、 正義王エドマンド、たのもしの君ルーシーとして、王冠をいただき、王座に着き、領地を与えられ、それぞれが、それぞれの国を治める、という大団円を迎えるのです。

こちらでは無力な子どもたちが、あちらでは王子であり王女となる。太平洋戦争下の京都のある教会では、青年会を男女それぞれに「王子会」「王女会」と呼んで開催していたそうです。時代の暗雲の中で、キリスト者というだけで官憲から監視され、世間から白い目で見られ、キリスト者であるがゆえの不安、葛藤、試練を通らせられました。そんな自分が、よもや本当に王子であり王女であるだなんて、おとぎ話をどれほど読み耽ってその気になったとしても、過酷な現実の中で木っ端みじんにされたことでしょう。それでも彼らは青年会の看板を「王子会」「王女会」として、かかげたのです。どうしてですか? 彼らは、自分がどこに行くかを知っていたからです。イエス様からもらった天国のチケットを、しっかり握り締めていたからです。「あちらの世界」の自分こそ、ほんとうの自分なのだと、確信していたからです。

ここにいるわたしたちが天国にたどり着いたとき、わたしたちもまた主君から褒美を受けるんでしょうか? わたしたちも頭に王冠をいただくのでしょうか? わたしたちも、それぞれふさわしい称号を与えられるんでしょうか? 「あわれみの王女」として? 「とりなし王」として? 「寛容王」として? 「堅忍不抜の大公」として? わたしたちもまた、それぞれに領地を与えられ、領土を与えられ、それぞれ国を治めて、王の王・主の主であるイエスキリストの平和の御世の幸いを、いついつまでも楽しむのでしょうか?

そうなるのだ、と聖書は言うのです。「彼らは世々限りなく統治する」と言うのです。わたしたちがほんとうにそういうものになるのであれば、わたしたちはそこからさかのぼって、もういまから練習を始めなければならないはずです。あわれみの練習を。とりなしの練習を。寛容の練習を。試練を忍耐し、決してへこたれない堅忍不抜の練習を。王子や王女の持つ、勇気と、大胆さと、熱心さと、輝きの練習を、もういまから始めなければならないはずです。

荒井好光少佐という方は、創世記第1章を読んでいて、「神様、なんであなたは宇宙を創造なさったのですか?」と祈りの中で神様に尋ねたそうです。すると神様は、「それは、わたしが造った宇宙を、おまえたちが喜び楽しむため、そして、わたしが造った宇宙をお前たちが治めるためだよ」と、お答えになったそうです。荒井少佐は清瀬病院の営繕課に任命を受けていましたから、さっそく「宇宙を治める」ための練習を始めたそうです。まず、病院の芝生をきれいに刈って、次に、病院のトイレをピカピカに磨いて。やがて宇宙を治めるという大きな仕事をするために、きょう神様から託された小さな仕事に心を注いで励むんだ、ということです。荒井少佐は天国に行ったら「忠実王」という称号を与えられて、さぞかし広い領地を与えられるに違いありません。

むすびのことば

わたしたちの日々の生活には、天国の光が差し込んでいるでしょうか? それとも、地獄の影が覆っているでしょうか? わたしたちが自分の口でもって「あいつがいなくなればいい、あいつさえいなければ、あいつがいなくなればいい」と誰かを呪って生活しているとしたら、地獄の影が覆っているのです。わたしたちがイエス様からもらった天国のチケットを握り締めて、「ああ、たのしみだ」「ああ、たのしみだ」といつも叫んで、四六時中天国の歌をうたって、ガイドブックである聖書をひろげて、あわれみの練習、とりなしの練習、寛容の練習、忍耐の練習、勇気と大胆さの練習、熱心と輝きの練習をして、やがて宇宙を治める大きな仕事をするために、きょう神様から託された小さな仕事に心を注いで励んでいるなら、わたしたちの生活には、天国の光が差し込んでいるのです。もういますでに天国の光が差し込んでいるのです。それは実にハレルヤなことです。わたしたちは、みんな、そうすべきではありませんか?

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