聖句 使徒言行録2:22-36
はじめに
こないだ父のお墓参りに行きました。まわりを見ますと、新しいお墓がだいぶ増えていました。おもしろかったのは、何も文字が刻んでいない、まっさらな墓石がいくつもあったことです。まだ生きている人が、生きているうちに、自分のお墓をちゃんと用意している、ということですね。いまは、遺言の書き方を教えてくれる教室もあるそうです。50歳ぐらいなのに、ちゃんと遺言を書いて、いつも持ち歩いてる人もいます。毎年書き換える人もいるみたいですね。
遺言状で気になるのは、だれに何をどれぐらい残すか、ということでしょう。わたしの財産を、あの人にこれだけ、この人にこれだけ、うまく分配する。頭を悩ませるところですね。あなたが遺言を書くとしたら、どうですか? あなたが残せる最大の遺産は何でしょうか? わたしたちは、永遠になくならない遺産を残すことができるのです。聖書からご一緒にそのことを見て行きましょう。
第1 消えて無くならないものは何?
まず、消えて無くならないものは何か?ということを考えてみましょう。残念なことですが、財産を築いても、それは消えて行ってしまいます。政府はいま、相続税の増税を検討しています。ある政治家は相続税率100パーセントを提案しました。死んだら、あなたの財産は全部、国庫に入ってしまうのです。すごいですね。家や自動車はどうでしょう? 100年先も残る家や自動車は、まずないでしょう。宝石はどうでしょう? お孫さんが遠い将来生活に行き詰って質屋に入れるかもしれませんね。
こう考えてみると、目に見えるかたちあるもので、あなたが死んでも永遠に残せるものは、ほとんど何もない、ということがわかります。旧約聖書のヨブが言っているのは、まさにそのことだと思います。ヨブは言いました。
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はたたえられよ」(ヨブ1:21)
生まれるときは裸。死ぬ時も裸。あの世に持って行けるものは、何もない、ということですね。形あるものが残せないんなら、せめてお墓は立派に作ろうじゃないか。そういう考えもあるでしょう。わたしは毎年、多磨墓地で行われる召天者合同記念会に行きます。救世軍のお墓の裏側には、東郷平八郎元帥と山本五十六元帥のお墓があります。高橋是清のお墓もありますし、新渡戸稲造のお墓もあります。残念ながら、立派なお墓なのに、だれも手入れする人がいなくって、草がぼうぼうどころか、草が木のように太くなって大きなお墓をすっかり飲み込んでしまっているのも、あちこちにあります。お墓すら、忘れられる時がやがて来るんですね。だとしたら、あなたは何を残しますか?
第2 目の前にいつもイエスを見る
目に見えるものは、みんな消えて行きます。でも、たったひとつ、消えないものがある。今日の聖書箇所は、エルサレムで使徒ペトロが行った説教の中の言葉です。「わたしはいつも目の前に主を見ていた」と言われています。
あなたはいつも、何を見ていますか? 家を見ていますか? 車を見ていますか? お金を見ていますか? お墓を見ていますか? それらはやがて消えてなくなってしまいます。しかし「わたしはいつも目の前に主を見ていた」!
イエスは十字架につけられて殺されてしまったが、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。死んで、よみがえった方、それがイエスです。このイエスキリストだけは、決してなくならないお方です。なぜなら、イエスはひとたびなくなって、そこからよみがえられたのだから。
復活したイエスキリストを信じて生きる。これは、あなたが、イエスキリストとの個人的な関係を、心の中にしっかり持って生きる、という意味です。あなたの心の中に何がありますか? 心はからっぽですか? からっぽだとしたら、あなたが死んだら、死んだ後も、あなたの心は永遠にからっぽのままです。
しかし、あなたの心の中に、イエスキリストとの関係があるならば、たとえあなたは死んでも、あなたとイエスの関係は、永遠に続きます。死を超えて続きます。この関係のことを、聖書は「天国」と呼んでいるのです。
心の中でイエスとの関係を持っていること。この関係について、聖書はこう言っています。
「主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたの聖なる者を、朽ち果てるままにしておかれない。御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる」(2:25-28)
心は楽しみ、舌は喜び、体は希望のうち生きる。わたしは喜びで満たされる。これが、イエスとの関係を通してあなたに与えられるものです。しかも、これは、あなたが死んでもなくならない、唯一永遠に続くものです。
どうしてこれが、永遠に続くと言うことができるんだろうか? 簡単に言えば、イエスが死んで、復活されたからです。イエスは生きておられる。イエスは死に打ち勝った存在です。だから、イエスとつながるわたしたちの関係は、死によって断ち切られることが絶対ありません。死によって断ち切られることが絶対ない関係。これは、死者の中から復活したイエスだけが唯一与えることのできるものです。
さらに、神学的に考えてみるならば、わたしたちとイエスとのつながりは、三位一体の神とのむすびつきでもあります。これをペリコレーシスと言います。わたしたちがイエスを信じ受け入れるとき、わたしたちの心の中にイエスが入って来て、住んでくださいます。そうして、イエスの中には父なる神が住んでおられます。父なる神とイエスは、聖霊によってひとつに結ばれています。聖霊は、神の愛だと言うこともできます。父なる神とイエスとの関係が、愛すなわち聖霊です。言い換えるなら、父なる神とイエスキリストは、聖霊によって結ばれた存在、永遠の愛によって結ばれた存在、永遠になくならない存在、いつまでも存続する本物の関係によって結ばれた存在。それが、父なる神とイエスキリストとの関係です。そういう関係を生きているイエス様が、いま、わたしの心、あなたの心の中に入って来て、生きてくださる。そうして、聖霊が、あなたの心を、わたしの心を、満たしてくださるのです。
主イエスご自身こう言われました。
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14:23)
聖書は言っています。
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子どもであることを、わたしたちの霊と一緒に証ししてくださいます」(ローマ8:14-16)
さらに聖書はこう言っています。
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(コリント一3:16)
こうも言っています。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(コリント一6:19)
あなたの目は何を見ていますか? 知らないのですか? まだ見ないのですか? しっかり見てください!と聖書は言っています。あなたとイエスとのつながり、あなたとイエスとの関係、あなたとイエスとの心の関係。今日、ぜひそれに目を向けていただきたいのです。
こういうお祈りの言葉があります。
「イエス様、あなたは、わたしのために十字架にかかり、わたしを赦し、三日目によみがえってくださいました。イエス様、あなたを信じます。イエスさま、あなたを愛します」
これがあなたの祈りでしょうか? これがあなたの心の中にある祈りでしょうか? もしアーメンであるならば、あなたの心はイエスとつながっています。イエスがあなたを愛し、あなたがイエスを愛するという、この関係は永遠になくならないものです。そうして、この関係だけが、永遠に残るものです。それ以外のものは、車もお金も家もお墓も、すべて消えて行きます。どうか今日、あなたが永遠に残せるものを、ぜひ手にしていただきたいと思います。
むすびのことば
お祈りいたしましょう。あなたは、あなたの目を何に向けて生きていますか? 聖書は、死んでよみがえった方、イエスキリストをいつも目の前に見て生きるようにと勧めています。先ほどのお祈りを繰り返します。「イエス様、あなたは、わたしのために十字架にかかり、わたしを赦し、三日目によみがえってくださいました。イエス様、あなたを信じます。イエスさま、あなたを愛します」 どうか、この祈りを今日祈ることを通して、あなたもイエスとの関係の中に入っていただきたいと思います。
はじめに
こないだ父のお墓参りに行きました。まわりを見ますと、新しいお墓がだいぶ増えていました。おもしろかったのは、何も文字が刻んでいない、まっさらな墓石がいくつもあったことです。まだ生きている人が、生きているうちに、自分のお墓をちゃんと用意している、ということですね。いまは、遺言の書き方を教えてくれる教室もあるそうです。50歳ぐらいなのに、ちゃんと遺言を書いて、いつも持ち歩いてる人もいます。毎年書き換える人もいるみたいですね。
遺言状で気になるのは、だれに何をどれぐらい残すか、ということでしょう。わたしの財産を、あの人にこれだけ、この人にこれだけ、うまく分配する。頭を悩ませるところですね。あなたが遺言を書くとしたら、どうですか? あなたが残せる最大の遺産は何でしょうか? わたしたちは、永遠になくならない遺産を残すことができるのです。聖書からご一緒にそのことを見て行きましょう。
第1 消えて無くならないものは何?
まず、消えて無くならないものは何か?ということを考えてみましょう。残念なことですが、財産を築いても、それは消えて行ってしまいます。政府はいま、相続税の増税を検討しています。ある政治家は相続税率100パーセントを提案しました。死んだら、あなたの財産は全部、国庫に入ってしまうのです。すごいですね。家や自動車はどうでしょう? 100年先も残る家や自動車は、まずないでしょう。宝石はどうでしょう? お孫さんが遠い将来生活に行き詰って質屋に入れるかもしれませんね。
こう考えてみると、目に見えるかたちあるもので、あなたが死んでも永遠に残せるものは、ほとんど何もない、ということがわかります。旧約聖書のヨブが言っているのは、まさにそのことだと思います。ヨブは言いました。
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はたたえられよ」(ヨブ1:21)
生まれるときは裸。死ぬ時も裸。あの世に持って行けるものは、何もない、ということですね。形あるものが残せないんなら、せめてお墓は立派に作ろうじゃないか。そういう考えもあるでしょう。わたしは毎年、多磨墓地で行われる召天者合同記念会に行きます。救世軍のお墓の裏側には、東郷平八郎元帥と山本五十六元帥のお墓があります。高橋是清のお墓もありますし、新渡戸稲造のお墓もあります。残念ながら、立派なお墓なのに、だれも手入れする人がいなくって、草がぼうぼうどころか、草が木のように太くなって大きなお墓をすっかり飲み込んでしまっているのも、あちこちにあります。お墓すら、忘れられる時がやがて来るんですね。だとしたら、あなたは何を残しますか?
第2 目の前にいつもイエスを見る
目に見えるものは、みんな消えて行きます。でも、たったひとつ、消えないものがある。今日の聖書箇所は、エルサレムで使徒ペトロが行った説教の中の言葉です。「わたしはいつも目の前に主を見ていた」と言われています。
あなたはいつも、何を見ていますか? 家を見ていますか? 車を見ていますか? お金を見ていますか? お墓を見ていますか? それらはやがて消えてなくなってしまいます。しかし「わたしはいつも目の前に主を見ていた」!
イエスは十字架につけられて殺されてしまったが、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。死んで、よみがえった方、それがイエスです。このイエスキリストだけは、決してなくならないお方です。なぜなら、イエスはひとたびなくなって、そこからよみがえられたのだから。
復活したイエスキリストを信じて生きる。これは、あなたが、イエスキリストとの個人的な関係を、心の中にしっかり持って生きる、という意味です。あなたの心の中に何がありますか? 心はからっぽですか? からっぽだとしたら、あなたが死んだら、死んだ後も、あなたの心は永遠にからっぽのままです。
しかし、あなたの心の中に、イエスキリストとの関係があるならば、たとえあなたは死んでも、あなたとイエスの関係は、永遠に続きます。死を超えて続きます。この関係のことを、聖書は「天国」と呼んでいるのです。
心の中でイエスとの関係を持っていること。この関係について、聖書はこう言っています。
「主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたの聖なる者を、朽ち果てるままにしておかれない。御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる」(2:25-28)
心は楽しみ、舌は喜び、体は希望のうち生きる。わたしは喜びで満たされる。これが、イエスとの関係を通してあなたに与えられるものです。しかも、これは、あなたが死んでもなくならない、唯一永遠に続くものです。
どうしてこれが、永遠に続くと言うことができるんだろうか? 簡単に言えば、イエスが死んで、復活されたからです。イエスは生きておられる。イエスは死に打ち勝った存在です。だから、イエスとつながるわたしたちの関係は、死によって断ち切られることが絶対ありません。死によって断ち切られることが絶対ない関係。これは、死者の中から復活したイエスだけが唯一与えることのできるものです。
さらに、神学的に考えてみるならば、わたしたちとイエスとのつながりは、三位一体の神とのむすびつきでもあります。これをペリコレーシスと言います。わたしたちがイエスを信じ受け入れるとき、わたしたちの心の中にイエスが入って来て、住んでくださいます。そうして、イエスの中には父なる神が住んでおられます。父なる神とイエスは、聖霊によってひとつに結ばれています。聖霊は、神の愛だと言うこともできます。父なる神とイエスとの関係が、愛すなわち聖霊です。言い換えるなら、父なる神とイエスキリストは、聖霊によって結ばれた存在、永遠の愛によって結ばれた存在、永遠になくならない存在、いつまでも存続する本物の関係によって結ばれた存在。それが、父なる神とイエスキリストとの関係です。そういう関係を生きているイエス様が、いま、わたしの心、あなたの心の中に入って来て、生きてくださる。そうして、聖霊が、あなたの心を、わたしの心を、満たしてくださるのです。
主イエスご自身こう言われました。
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14:23)
聖書は言っています。
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子どもであることを、わたしたちの霊と一緒に証ししてくださいます」(ローマ8:14-16)
さらに聖書はこう言っています。
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(コリント一3:16)
こうも言っています。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(コリント一6:19)
あなたの目は何を見ていますか? 知らないのですか? まだ見ないのですか? しっかり見てください!と聖書は言っています。あなたとイエスとのつながり、あなたとイエスとの関係、あなたとイエスとの心の関係。今日、ぜひそれに目を向けていただきたいのです。
こういうお祈りの言葉があります。
「イエス様、あなたは、わたしのために十字架にかかり、わたしを赦し、三日目によみがえってくださいました。イエス様、あなたを信じます。イエスさま、あなたを愛します」
これがあなたの祈りでしょうか? これがあなたの心の中にある祈りでしょうか? もしアーメンであるならば、あなたの心はイエスとつながっています。イエスがあなたを愛し、あなたがイエスを愛するという、この関係は永遠になくならないものです。そうして、この関係だけが、永遠に残るものです。それ以外のものは、車もお金も家もお墓も、すべて消えて行きます。どうか今日、あなたが永遠に残せるものを、ぜひ手にしていただきたいと思います。
むすびのことば
お祈りいたしましょう。あなたは、あなたの目を何に向けて生きていますか? 聖書は、死んでよみがえった方、イエスキリストをいつも目の前に見て生きるようにと勧めています。先ほどのお祈りを繰り返します。「イエス様、あなたは、わたしのために十字架にかかり、わたしを赦し、三日目によみがえってくださいました。イエス様、あなたを信じます。イエスさま、あなたを愛します」 どうか、この祈りを今日祈ることを通して、あなたもイエスとの関係の中に入っていただきたいと思います。