聖句 ルカ18:9-14
人生には晴れの日もあれば、雨の日もありますよね。雨の日というのは、実際雨の日は気分がふさぎがちですが、しかし、心の雨の日というのもありますね。空は青空だけど、心の中に雨がふっている。何をやってもうまくいかない。自分はもうだめなのかな。そう思って何もする気がしない。そういう雨の日がございます。
そういう日に、わたしたちは祈ることができるだろうか? 祈れないほどに心が沈むとき、というのもあります。わたしみたいな人間が祈っても、神さまは聞いてくださらないに違いない。なぜだかそういうふうに思われて、祈ることもできない。
でもね、イエスさまはけっしてわたしたちをお見捨てになりません。イエスさまは、わたしたちの心の扉を開くことのできる鍵を持ったお方なんです。オーギュスタン君という6歳の男の子が、こういう手紙を神さまに書きましたよ。
今日の聖書箇所には、ふたりの対照的な人が出てきましたね。ひとりは律法学者のファリサイ人です。彼はとても自信に満ち溢れた人でした。自分は完全な人間でなければらない。そう信じていたし、また、自分の倦まぬ弛まぬ努力によって、立派な生活をしている人でした。だから彼は、自分が完全な人間だって、本気でそう思っていたんですよ。それで、彼は、こう祈りました。「神さま、わたしは自分が完全な人間であることを感謝します。自分は、愚かな不完全な罪人とは違う種類の人間です。ありがとうございます!」
これと対照的なのが取税人ですね。彼の心はいつも雨がふっていたんですよ。どうしてだと思いますか? 彼の仕事は他人から税金を取り立てることだったんですけど、取り立てる際に多めに請求していたんですね。多い分は自分のポケットに入れていたんです。そのことで自分の良心がいつもしくしく傷んでいた。毎日心の中に雨がふっていたんですよ。彼は、なんとか救われたい、罪から救われたいと思って、おずおずと祈りました。こう祈ったんです。「神さま、わたしは罪ふかい人間です。あわれんでください」
すごい対照的なふたりですね。さて、イエスさまはこうおっしゃいました。神さまに受け入れられたのは、あの立派なファリサイ人ではなくって、罪ふかい取税人だよ。取税人はほんとうに自分の心を低くして祈ったんだから。そういう祈りを神さまは聞いてくださるんだ。
わたしたち、心の雨がふっているかもしれません。どう祈ったらいいんだろう。わたしなんかが祈っても、きかれないに違いない。そう思っている。でもイエスさまはおっしゃるんです。「だいじょうぶだよ。祈ってごらん、あの取税人が祈ったように。あなたの心はもう低くされているじゃないか! あなたは祈っていいんだよ!」
それでも、どうやって祈ったらいいかわからない、ということがあるでしょう。佐久間彪神父という方はこう言われました。
「私が司祭になる勉強をしておりましたとき、ドイツ人の指導司祭が教えてくださった次のような射祷があります。射祷とは、神様のほうに向けてほんの短い言葉を、ちょうど矢を射るように投げかける祈りです。この短いドイツ語の射祷は次のようなものです。
どうですか? とっても簡単なお祈りですが、でも、心がほっとするお祈りですよね。私は無にひとしい人間です。でも神さま、それでもわたしはあなたのものです。
大切なポイントは、自分自身をイエスさまの大きな手のなかにまったくおゆだねする、っていうことですよ。マザーテレサは言いました。「わたしは小さなちびた鉛筆です。でも、イエスさまの手のなかにある鉛筆です」 これも、自分をイエスさまにおゆだねすることの大切さを言っていますよね。
さきほどの律法学者のファリサイ人の間違いは、きっとそこにあったんですよ。彼はこんな祈りをしたんでしたよね。「神さま、わたしは自分が完全な人間であることを感謝します。自分は、愚かな不完全な罪人とは違う種類の人間です。ありがとうございます!」 残念ながら、ここには、自分自身を神さまの大きな手のなかにおゆだねする、っていう姿勢がまったく見られません。彼はね、なんでもすべて自分でコントロールできる、と思っていたんですよ。自分の生き方、自分の問題、自分の信仰、すべて自分で完全にコントロールできている。神さま、ありがとうございます。
ありがとうございます、って言っているんですが、でも、ちっともゆだねてはいないんですよね。これに対して、あの取税人はどうでしたか? 取税人は「神さま、わたしは罪ふかい人間です。あわれんでください」と祈りましたよね。自分で自分をどうすることもできなくて持て余している。自分ではどうすることもできない。だから、神さま、助けてください、神さま、あわれんでください、って祈るほかなかったんです。そして彼は、まさにその祈りを通して、小さくみじめな自分自身を、神さまの大きな手のなかにおゆだねしたんです。
わたしたちにもそれはできます。心の中に雨がふっているかもしれません。でも、イエスさまが、天国の鍵を使って、わたしたちの心の扉を開いてくださいます。だから、わたしたちは祈ることができます。祈ってもいいんです。そして、祈るなら、それは聞かれるんですよ。
わたしたちは、あの取税人のように心を低くして祈りましょう。それはつまり、自分ではどうすることもできない自分を、そのまま神さまにおゆだねするということです。ゆだねなさい、ということです。
そして、ひとたびゆだねたなら、わたしたちはいつまでもグズグズしていてはいけません。立ち上がって、前に進むために、一歩踏み出さなければならないんです。佐伯倹牧師がこういうお祈りを書いてくださいました。
人生には晴れの日もあれば、雨の日もありますよね。雨の日というのは、実際雨の日は気分がふさぎがちですが、しかし、心の雨の日というのもありますね。空は青空だけど、心の中に雨がふっている。何をやってもうまくいかない。自分はもうだめなのかな。そう思って何もする気がしない。そういう雨の日がございます。
そういう日に、わたしたちは祈ることができるだろうか? 祈れないほどに心が沈むとき、というのもあります。わたしみたいな人間が祈っても、神さまは聞いてくださらないに違いない。なぜだかそういうふうに思われて、祈ることもできない。
でもね、イエスさまはけっしてわたしたちをお見捨てになりません。イエスさまは、わたしたちの心の扉を開くことのできる鍵を持ったお方なんです。オーギュスタン君という6歳の男の子が、こういう手紙を神さまに書きましたよ。
「ブルーな日に」
ぼくのこころは
きょう とじたままです
でも、だいじょうぶです。
かみさまが あけるカギを
もっているからです。
オーギュスタン 6歳
今日の聖書箇所には、ふたりの対照的な人が出てきましたね。ひとりは律法学者のファリサイ人です。彼はとても自信に満ち溢れた人でした。自分は完全な人間でなければらない。そう信じていたし、また、自分の倦まぬ弛まぬ努力によって、立派な生活をしている人でした。だから彼は、自分が完全な人間だって、本気でそう思っていたんですよ。それで、彼は、こう祈りました。「神さま、わたしは自分が完全な人間であることを感謝します。自分は、愚かな不完全な罪人とは違う種類の人間です。ありがとうございます!」
これと対照的なのが取税人ですね。彼の心はいつも雨がふっていたんですよ。どうしてだと思いますか? 彼の仕事は他人から税金を取り立てることだったんですけど、取り立てる際に多めに請求していたんですね。多い分は自分のポケットに入れていたんです。そのことで自分の良心がいつもしくしく傷んでいた。毎日心の中に雨がふっていたんですよ。彼は、なんとか救われたい、罪から救われたいと思って、おずおずと祈りました。こう祈ったんです。「神さま、わたしは罪ふかい人間です。あわれんでください」
すごい対照的なふたりですね。さて、イエスさまはこうおっしゃいました。神さまに受け入れられたのは、あの立派なファリサイ人ではなくって、罪ふかい取税人だよ。取税人はほんとうに自分の心を低くして祈ったんだから。そういう祈りを神さまは聞いてくださるんだ。
わたしたち、心の雨がふっているかもしれません。どう祈ったらいいんだろう。わたしなんかが祈っても、きかれないに違いない。そう思っている。でもイエスさまはおっしゃるんです。「だいじょうぶだよ。祈ってごらん、あの取税人が祈ったように。あなたの心はもう低くされているじゃないか! あなたは祈っていいんだよ!」
それでも、どうやって祈ったらいいかわからない、ということがあるでしょう。佐久間彪神父という方はこう言われました。
「私が司祭になる勉強をしておりましたとき、ドイツ人の指導司祭が教えてくださった次のような射祷があります。射祷とは、神様のほうに向けてほんの短い言葉を、ちょうど矢を射るように投げかける祈りです。この短いドイツ語の射祷は次のようなものです。
イッヒ・ビン・ニヒツ、アーバー、イッヒ・ビン・ダイン
(私は無、でも私はあなたのもの)
どうですか? とっても簡単なお祈りですが、でも、心がほっとするお祈りですよね。私は無にひとしい人間です。でも神さま、それでもわたしはあなたのものです。
大切なポイントは、自分自身をイエスさまの大きな手のなかにまったくおゆだねする、っていうことですよ。マザーテレサは言いました。「わたしは小さなちびた鉛筆です。でも、イエスさまの手のなかにある鉛筆です」 これも、自分をイエスさまにおゆだねすることの大切さを言っていますよね。
さきほどの律法学者のファリサイ人の間違いは、きっとそこにあったんですよ。彼はこんな祈りをしたんでしたよね。「神さま、わたしは自分が完全な人間であることを感謝します。自分は、愚かな不完全な罪人とは違う種類の人間です。ありがとうございます!」 残念ながら、ここには、自分自身を神さまの大きな手のなかにおゆだねする、っていう姿勢がまったく見られません。彼はね、なんでもすべて自分でコントロールできる、と思っていたんですよ。自分の生き方、自分の問題、自分の信仰、すべて自分で完全にコントロールできている。神さま、ありがとうございます。
ありがとうございます、って言っているんですが、でも、ちっともゆだねてはいないんですよね。これに対して、あの取税人はどうでしたか? 取税人は「神さま、わたしは罪ふかい人間です。あわれんでください」と祈りましたよね。自分で自分をどうすることもできなくて持て余している。自分ではどうすることもできない。だから、神さま、助けてください、神さま、あわれんでください、って祈るほかなかったんです。そして彼は、まさにその祈りを通して、小さくみじめな自分自身を、神さまの大きな手のなかにおゆだねしたんです。
わたしたちにもそれはできます。心の中に雨がふっているかもしれません。でも、イエスさまが、天国の鍵を使って、わたしたちの心の扉を開いてくださいます。だから、わたしたちは祈ることができます。祈ってもいいんです。そして、祈るなら、それは聞かれるんですよ。
わたしたちは、あの取税人のように心を低くして祈りましょう。それはつまり、自分ではどうすることもできない自分を、そのまま神さまにおゆだねするということです。ゆだねなさい、ということです。
そして、ひとたびゆだねたなら、わたしたちはいつまでもグズグズしていてはいけません。立ち上がって、前に進むために、一歩踏み出さなければならないんです。佐伯倹牧師がこういうお祈りを書いてくださいました。
「まちがいをしたときの祈り」
父なる神さま、今日わたしは誘惑におちいって悪を犯してしまいました。
自分もはずかしく感じておりますし、わたしを愛する者たちに心配をかけ、
神さまを悲しませました。わたしをゆるしてください。
わたしを愛する者たちに、罪を告白して、ゆるしを乞うことのできる、
勇気を与えてください。
ただ単に、くよくよしているだけでなく、
まちがいをみごとにのり越えることのできるように助けてください。
同じあやまちを再びくり返さない決意を与えてください。
主の日の礼拝に規則正しく出席し、み言によって養われ、
み霊の力に導かれることを決心いたします。
この決意をつらぬき通すことができるよう助けてください。
また、与えられている信徒の交わりのうちに、
積極的に加わることができますように。
アーメン
「途上にある者の祈り」
主よ、良き者となる途上にあるわたしたちが
行き詰まるときは、抱きしめてください
倒れるときは、引き起こしてください
悪しき者によって攻撃されるときは、救ってください
良き者となる途上から逃れ出ようとするときは
連れ戻してください
そうして、わたしたちを、あなたの永遠の栄光へと
ついには、至らせてください
アーメン