聖句 ルカ9:18-20
「あなたは必ずわたしを助けてくださいます」 これは、旧約聖書の詩編第63編8節の言葉です。教会のカレンダーで今日読むように指定されている詩編が第63編なんです。その中の言葉です。「あなたは必ずわたしを助けてくださいます」これは、わたしたちの人生に安心を与える祈りの言葉ですね。“イエスさま、あなたは必ずわたしを助けてくださいます。だからわたしは安心して生きていけます”ということです。
ひとりぼっちで人生を生きなければならないとしたら、なんと心細いことでしょう。でも、「だいじょうぶだよ、わたしが一緒にいるから。わたしが必ず助けるから。一緒に生きていこう」と言ってくれる人がそばにいたら、なんと心強いことでしょう。
問題は、「だいじょうぶだよ」と言ってくれる人がほんとうにいるか?ということですよね。
イギリスのウイリアム王子とキャサリン王妃の結婚式で、ロンドン主教はこういう説教をしました。
「西洋では多くの人々の生活から神の実感が消え去りました。そうして、人間関係だけが人生に意味と幸福をもたらすことができるのだという、お互いへの過剰な期待が高まりました。これは、相手に負い切れない重荷を負わせることになります」(説教全文)
過剰な期待・負い切れない重荷。ロンドン主教は一般論を述べていますけど、もしかしたら、ウイリアム王子の御父上と御母上であるダイアナ妃の間にあった悲しい出来事を念頭に置いているかもしれませんね。
わたしたちはみんなさびしいです。だから、わたしたちは人間関係に救いを求めるんです。このひとだ!と思った人に、しがみつきます。しがみついたのに、ふりはらわれたり。しがみついたら、むこうもしがみついてきたり。しがみついたままどうにもならなくなって、二人ともおぼれたり。人間関係に救いを求めた結果、わたしたちは何度も、何度も、何度も、何度も、失望を味あわされてきたのではないでしょうか?
わたしたちの世界はいま、二種類の生き方に分解しているかもしれませんね。ひとつは、だれかに必死にしがみついて、その結果、自分も相手もおぼれそうになっている人。もうひとつは、だれかにしがみついても失望するだけだから、もうひとりで生きていこうと思い定めてしまっている人。
でも、そのどちらでもない第三の生き方があるんですよ。イエスさまにしがみつく生き方です。
あなたにとって、イエスさまとはだれですか? この質問は、あなたとイエスさまとの心の距離をはかる言葉なんです。イエスさまにしがみつくことは、心の距離があってはできないことです。密着しないとできません。距離があっては、しがみつくことはできません。
イエスさまは弟子たちに向かって「おまえたち。わたしをいったい誰だと思うか?」と質問されました。あなたは、イエスさまをだれだと思いますか?
ある人たちは、イエスさまは預言者のひとりだよ、と言いました。わたしたちを導いてくれる偉い先生たちのひとりだ。でもワン・ノブ・ゼム。多くの偉い先生の中のひとりにすぎない。ほかにも偉い先生がたくさんいる、ということですね。これは、遠い遠い距離がある関係ですよ。
ところが弟子たちはこう言ったんです。「イエスさま。あなたは神がおつかわしになったメシア・救い主です」
これは、ほんとうに思いつめた、決定的な告白です。こういう決定的な告白が必要なんです。「イエスさま。あなたこそが、そして、あなただけが、わたしの人生を助けてくれる御方です。わたしがしっかりしがみつくべき御方です。わたしが全身全霊・全存在・全体重をあずけてしがみつくべき御方です」という決定的な告白です。重い重い告白ですね。この重い告白を完全に受け止めることのできるお方が、主イエスキリストです。
ウーピー・ゴールドバーグが主演した『天使にラブソングを』という映画で、カトリックのシスターたちの聖歌隊が、おもしろい歌をうたっています。自分とイエスさまの関係を、切手とはがきにたとえて歌うのです。イエスさまが、はがき。わたしは切手。ぴったりはりついたら、もう離れられない。シスターたちは、こう歌います。
私は彼に付いて行く、彼が何処に行っても
そして私はいつも彼の傍にいる
私を遠ざけられるモノなんて無い。彼は私の運命
私は彼に付いて行く、彼が私の心に触れてからずっと、私は知っていた
深すぎる海なんて無い、高いままでいる山なんて無い
私を彼の愛から遠ざけるモノなんて無い
私は彼を愛している、そして彼が行く場所へ
私は付いて行くだろう、彼は いつも私の本当の愛でいる、
今から永遠に
さびしい、という、わたしたちの思い。つらい、という、わたしたちの叫び。悲しい、という、わたしたちの痛み。それは、ほんとうに重いです。自分で抱えきれないぐらい重いです。だから、だれかに支えてもらいたいと思うんです。でも、支えようとしてくれる人も、重さに巻き込まれて、一緒につぶれてしまうほど重いんです。
だからわたしたちは、自分自身をすっかり全部、イエスさまにお任せするべきなんです。わたしたちは、大きな声で言いましょう。「イエスさま。あなたは神がおつかわしになったメシア・救い主です」 わたしたちは、大きな声で言いましょう。「イエスさま。あなたこそが、そして、あなただけが、わたしの人生を助けてくれる御方です。わたしがしっかりしがみつくべき御方です。わたしが全身全霊・全存在・全体重をあずけてしがみつくべき御方です」 そうして、自分の抱えている重い重いものをぜんぶ、イエスさまにお任せしてしまいましょう。イエスさまはできるんです。受け止めてくださるんです。どこまでイエスさまは受け止めることができるんですか? 十字架の死に至るまで、わたしたちを受け止めてくださるのがイエスさまです。
ここで、イエスキリストの福音の一番大切な核心部分をお話しします。わたしたちはみんな重いものをもっていますよね。自分でもどうすることもできない過去。どうすることもできない今の気持ち。どうすることもできない将来への不安、恐れ。でも、神のひとり子であるイエスさまは、わたしたちのそういう重いものを一身に引き受けて、十字架にかかってくださいました。そして、ジ・エンド。終止符を打ってくださいました。終わらせてくださったんですよ。わたしがおまえの代わりに死んで、このことを終わらせた。だから、安心しろ、とおっしゃるんです。その上で、イエスさまはよみがえって、わたしたちにこうおっしゃってくださるんです。「だいじょうぶだよ、わたしが一緒にいるから。わたしが必ず助けるから。だから一緒に生きていこう」って。
クリスチャンになる、っていうことは、このイエスさまのさそい、イエスさまの招きに対して「はい、イエスさま。どうぞよろしくお願いします」と返事をして、自分をイエスさまにおゆだねする、ということなんです。
ゆだねたら、心が軽くなります。イエスさまがいるから、もうひとりぼっちではないんです。わたしたちは100パーセント支えてくれる御方を持つんです。わたしたちは現実の人生においては、100パーセント支えてくれる人なんていない、ということを知っていますよね? 70パーセントぐらい支えようとしてくれたけど、あの人、つぶれてしまったよなあ。申し訳ないことをしたなあ、という人がいるかもしれませんね。
でも、イエスさまはちがいます。十字架にかかり、よみがえって、今日も生きておられるイエスさまだからこそ、わたしたちを受け止めてくださるんです。「だいじょうぶだよ、わたしが一緒にいるから。わたしが必ず助けるから。だから一緒に生きていこう」って、今日もイエスさまは、招いていてくださいます。そのイエスさまに向かって、「はい、イエスさま。どうぞよろしくお願いします」って、返事をしようじゃありませんか。
「あなたは必ずわたしを助けてくださいます」 これは、旧約聖書の詩編第63編8節の言葉です。教会のカレンダーで今日読むように指定されている詩編が第63編なんです。その中の言葉です。「あなたは必ずわたしを助けてくださいます」これは、わたしたちの人生に安心を与える祈りの言葉ですね。“イエスさま、あなたは必ずわたしを助けてくださいます。だからわたしは安心して生きていけます”ということです。
ひとりぼっちで人生を生きなければならないとしたら、なんと心細いことでしょう。でも、「だいじょうぶだよ、わたしが一緒にいるから。わたしが必ず助けるから。一緒に生きていこう」と言ってくれる人がそばにいたら、なんと心強いことでしょう。
問題は、「だいじょうぶだよ」と言ってくれる人がほんとうにいるか?ということですよね。
イギリスのウイリアム王子とキャサリン王妃の結婚式で、ロンドン主教はこういう説教をしました。
「西洋では多くの人々の生活から神の実感が消え去りました。そうして、人間関係だけが人生に意味と幸福をもたらすことができるのだという、お互いへの過剰な期待が高まりました。これは、相手に負い切れない重荷を負わせることになります」(説教全文)
過剰な期待・負い切れない重荷。ロンドン主教は一般論を述べていますけど、もしかしたら、ウイリアム王子の御父上と御母上であるダイアナ妃の間にあった悲しい出来事を念頭に置いているかもしれませんね。
わたしたちはみんなさびしいです。だから、わたしたちは人間関係に救いを求めるんです。このひとだ!と思った人に、しがみつきます。しがみついたのに、ふりはらわれたり。しがみついたら、むこうもしがみついてきたり。しがみついたままどうにもならなくなって、二人ともおぼれたり。人間関係に救いを求めた結果、わたしたちは何度も、何度も、何度も、何度も、失望を味あわされてきたのではないでしょうか?
わたしたちの世界はいま、二種類の生き方に分解しているかもしれませんね。ひとつは、だれかに必死にしがみついて、その結果、自分も相手もおぼれそうになっている人。もうひとつは、だれかにしがみついても失望するだけだから、もうひとりで生きていこうと思い定めてしまっている人。
でも、そのどちらでもない第三の生き方があるんですよ。イエスさまにしがみつく生き方です。
あなたにとって、イエスさまとはだれですか? この質問は、あなたとイエスさまとの心の距離をはかる言葉なんです。イエスさまにしがみつくことは、心の距離があってはできないことです。密着しないとできません。距離があっては、しがみつくことはできません。
イエスさまは弟子たちに向かって「おまえたち。わたしをいったい誰だと思うか?」と質問されました。あなたは、イエスさまをだれだと思いますか?
ある人たちは、イエスさまは預言者のひとりだよ、と言いました。わたしたちを導いてくれる偉い先生たちのひとりだ。でもワン・ノブ・ゼム。多くの偉い先生の中のひとりにすぎない。ほかにも偉い先生がたくさんいる、ということですね。これは、遠い遠い距離がある関係ですよ。
ところが弟子たちはこう言ったんです。「イエスさま。あなたは神がおつかわしになったメシア・救い主です」
これは、ほんとうに思いつめた、決定的な告白です。こういう決定的な告白が必要なんです。「イエスさま。あなたこそが、そして、あなただけが、わたしの人生を助けてくれる御方です。わたしがしっかりしがみつくべき御方です。わたしが全身全霊・全存在・全体重をあずけてしがみつくべき御方です」という決定的な告白です。重い重い告白ですね。この重い告白を完全に受け止めることのできるお方が、主イエスキリストです。
ウーピー・ゴールドバーグが主演した『天使にラブソングを』という映画で、カトリックのシスターたちの聖歌隊が、おもしろい歌をうたっています。自分とイエスさまの関係を、切手とはがきにたとえて歌うのです。イエスさまが、はがき。わたしは切手。ぴったりはりついたら、もう離れられない。シスターたちは、こう歌います。
私は彼に付いて行く、彼が何処に行っても
そして私はいつも彼の傍にいる
私を遠ざけられるモノなんて無い。彼は私の運命
私は彼に付いて行く、彼が私の心に触れてからずっと、私は知っていた
深すぎる海なんて無い、高いままでいる山なんて無い
私を彼の愛から遠ざけるモノなんて無い
私は彼を愛している、そして彼が行く場所へ
私は付いて行くだろう、彼は いつも私の本当の愛でいる、
今から永遠に
さびしい、という、わたしたちの思い。つらい、という、わたしたちの叫び。悲しい、という、わたしたちの痛み。それは、ほんとうに重いです。自分で抱えきれないぐらい重いです。だから、だれかに支えてもらいたいと思うんです。でも、支えようとしてくれる人も、重さに巻き込まれて、一緒につぶれてしまうほど重いんです。
だからわたしたちは、自分自身をすっかり全部、イエスさまにお任せするべきなんです。わたしたちは、大きな声で言いましょう。「イエスさま。あなたは神がおつかわしになったメシア・救い主です」 わたしたちは、大きな声で言いましょう。「イエスさま。あなたこそが、そして、あなただけが、わたしの人生を助けてくれる御方です。わたしがしっかりしがみつくべき御方です。わたしが全身全霊・全存在・全体重をあずけてしがみつくべき御方です」 そうして、自分の抱えている重い重いものをぜんぶ、イエスさまにお任せしてしまいましょう。イエスさまはできるんです。受け止めてくださるんです。どこまでイエスさまは受け止めることができるんですか? 十字架の死に至るまで、わたしたちを受け止めてくださるのがイエスさまです。
ここで、イエスキリストの福音の一番大切な核心部分をお話しします。わたしたちはみんな重いものをもっていますよね。自分でもどうすることもできない過去。どうすることもできない今の気持ち。どうすることもできない将来への不安、恐れ。でも、神のひとり子であるイエスさまは、わたしたちのそういう重いものを一身に引き受けて、十字架にかかってくださいました。そして、ジ・エンド。終止符を打ってくださいました。終わらせてくださったんですよ。わたしがおまえの代わりに死んで、このことを終わらせた。だから、安心しろ、とおっしゃるんです。その上で、イエスさまはよみがえって、わたしたちにこうおっしゃってくださるんです。「だいじょうぶだよ、わたしが一緒にいるから。わたしが必ず助けるから。だから一緒に生きていこう」って。
クリスチャンになる、っていうことは、このイエスさまのさそい、イエスさまの招きに対して「はい、イエスさま。どうぞよろしくお願いします」と返事をして、自分をイエスさまにおゆだねする、ということなんです。
ゆだねたら、心が軽くなります。イエスさまがいるから、もうひとりぼっちではないんです。わたしたちは100パーセント支えてくれる御方を持つんです。わたしたちは現実の人生においては、100パーセント支えてくれる人なんていない、ということを知っていますよね? 70パーセントぐらい支えようとしてくれたけど、あの人、つぶれてしまったよなあ。申し訳ないことをしたなあ、という人がいるかもしれませんね。
でも、イエスさまはちがいます。十字架にかかり、よみがえって、今日も生きておられるイエスさまだからこそ、わたしたちを受け止めてくださるんです。「だいじょうぶだよ、わたしが一緒にいるから。わたしが必ず助けるから。だから一緒に生きていこう」って、今日もイエスさまは、招いていてくださいます。そのイエスさまに向かって、「はい、イエスさま。どうぞよろしくお願いします」って、返事をしようじゃありませんか。