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百倍楽しいクリスマスの過ごし方

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聖句 テサロニケ一4:13-18

かつらを売っていないアデランス。中華料理のない横浜中華街。大島優子のいないAKB48。想像することができますか?

しかし、想像できないことが毎年日本で起きています。それは、イエス・キリストのないクリスマスです。クリスマスは、英語でクライスト・マスと書きます。クライストはキリストのこと。マスはミサ、礼拝のことです。クライスト・マス。クリスマス。それは、キリストを礼拝する日、という意味なんです。

クリスマスはとても楽しいですね。ツリーにカロルにケーキにプレゼントがあります。でも、そのすべての真ん中にイエス・キリストを置くならば、クリスマスは百倍、千倍、楽しくなります。

そこで、今日はクリスマスを何倍も楽しむ秘訣をご一緒に考えてみましょう。クリスマスを何倍も楽しむ秘訣。ツリーをもう一本買うことですか? ケーキをもう一個買うことですか? プレゼントを奮発することですか? そうではありません。クリスマスを何倍も楽しむ秘訣は、わたしたちの心の持ち方にかかっています。

クリスマスを何倍も楽しむのに大切な、心の持ち方。それは、待ち望む姿勢です。

待ち望む姿勢を持つことです。クリスマスの季節をキリスト教会では「アドベント」と言います。アドベントとはラテン語で、おいでになる、という意味です。イエス様がおいでになるのを待ち望む。それがアドベントです。

イエス様がおいでになるのを待ち望む。これには実は二重の意味があるのです。
基本的には、12月25日にイエス様がユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶にお生まれになるのを待ち望む。これがアドベントです。

もうひとつの意味は、世の終わりにイエス様がふたたびおいでになる。その日を待ち望む。その日のことをキリスト再臨の日と言いますけれど、再臨の日を待ち望む。これもアドベントです。

今日お読みいただいた聖書、テサロニケの信徒への手紙一第4章13節から18節は、キリスト再臨の日の様子を描いています。

やがて世の終わりの日に、イエス様が王の王、主の主として、再びおいでになります。そのとき、天使たちが合図のラッパを宇宙全体に鳴り響かせます。クリスマスのツリーやケーキの飾りに、ラッパを吹く天使の人形があるでしょう? これは、世の終わりの日に天使が吹くラッパのことを意味しているんです。

合図のラッパが鳴り響くと、わたしたちはみんな集められて、イエス様の前に立たされます。そして、ひとりひとり、自分に与えられた人生をどのように生きたか、イエス様に申し開きしなければなりません。

自分の人生をどのように生きたかを申し開きする。このことを英語でアカウンタビリティーと言います。会計報告をする、という意味もあるんです。

いまでこそすべての企業は会計報告をしますけれど、中世の初めころは全然そうじゃなかったんです。中世の初めのころは、企業会計と家計とがいっしょくたになっていて、どんぶり勘定だったんですね。

でも、中世の中ごろになって、人々はキリスト再臨の日のことを真剣に考えるようになりました。世の終わりの日が来たら、自分に与えられた人生、自分に与えられた時間をどう使ったのか、イエス様に全部説明しなくちゃいけない。イエス様に説明するためには、いまから、きちんと記録をつけて、帳尻を合わせておかないといけない。こうして人々は、どんぶり勘定をやめて、企業会計と家計をきちんと分けて、会計報告書を作成し、日記をつけるようになりました。この会計報告書はドゥームズデー・ブックと呼ばれることがありました。ドゥームズデー・ブックとは、キリスト再臨の日の報告書、という意味です。

中世の中ごろに、エリギウスという、とても腕の立つ金細工師がいました。フランク王国のクロタールという王様が、この金細工師に黄金のかたまりを預けまして、王座をひとつ作るように注文しました。エリギウスは預かった黄金で王座をひとつ作りましたが、黄金が余ったので、同じ王座をもう一つ作って、王様に納品しました。王様はとても驚きました。余った黄金をふところに入れて黙っていても、わからないはずなのに、なんてこの金細工師は馬鹿正直なのだろう! そう思ったのです。

だれも見てないと思っていても、イエス様はちゃんと見ている。そのイエス様が再び来られる日に、わたしたちは、自分に預けられたものをどう使ったか、全部申し開きしなくちゃいけない。エリギウスは、そう信じていたんです。だから、毎日仕事をするときに、イエス様を待ち望む姿勢で、仕事をしていたんです。だから、嘘やごまかしをしなかったんです。このエリギウスは後に聖人にあげられて、今日では、仕事をするすべての人の守護聖人とされました。

王様は金細工師エリギウスを心から信頼できると思ったので、彼を宮廷の顧問官に取り立てました。フランク王国の宮廷顧問官になったエリギウスは、何をしたと思いますか? クリスマスに歌う「もろびとこぞりて」というカロルの中に、「とりこをはなつと主は来ませり」とあります。イエス様が来られたのは囚人たちを解放して自由にするためだ、という意味ですね。当時、フランク王国はいつも戦争していて、国の中には捕虜がたくさん留め置かれていて、奴隷として市場で売られる捕虜たちもいました。エリギウスは、そうした捕虜を自由にするために、自分の財産を売って、身代金を肩代わりして、捕虜を解放してあげました。

なんでそこまでしたんでしょう? エリギウスは、自分が神様の前に罪深いものだ、という自覚を持っていました。そして、救い主イエス様は、この自分をゆるすために、身代わりに十字架にかかってくださった、そして、よみがえってくださった、そうエリギウスは心から信じていました。

イエス様は、罪の奴隷、悪魔のとりこ、囚人であったわたしを、自由にしてくださった。だから、わたしもほかの人を赦してあげないといけない。わたしも捕虜や囚人を自由にしてあげないといけない。

キリスト再臨の日に、わたしたちはイエス様の前に立たされます。イエス様はおっしゃいます。わたしはあなたを赦すために、身代わりに十字架につきました。わたしがあなたを赦したように、あなたもほかの人を赦しなさい。そう言っておきました。ところで、あなたは、どのように生きてきましたか?

エリギウスがもうひとつしたことは、フランク王国の村々をめぐって、そこかしこに打ち捨てられている死刑囚の遺体を、きちんと葬って、丁寧におとむらいをすることでした。犯罪人の遺体は、そのへんに放っておけばよい、と当時の多くの人は考えていたのに、エリギウスは違っていました。

神のひとり子、王の王、主の主であるイエス様が、十字架にかかり、よみがり、わたしたちの罪をつぐなってくださった。このイエス様に望みを置くならば、どんな人でも救われる。死刑になるような犯罪人といえども、まったく希望がないわけではない。死刑になる直前に、心から自分の罪を悔いて、イエス様にすがる気持ちになっていたなら、イエス様は必ず救ってくださるはずだ。キリスト再臨の日には、彼らもまたよみがえるにちがいない。

そう信じて、エリギウスは犯罪人の遺体を丁寧におとむらいしたのです。

エリギウスの生き方は、どこから来たのでしょうか? イエス様のおいでを待ち望む。待ち望む姿勢から来ていたのです。エリギウスの生き方は当時の多くの人々の心を打ちました。だから彼は平信徒であったのに、ノヨン・トゥルネーの司教に任命されるに至りました。

クリスマスは、一年の終わりの喜びのときです。一年の終わりにあたって、わたしたちは、自分に与えられた人生、自分に与えられた時間を、どのように使ってきたか、考えてみましょう。たくさん罪や、失敗や、恥ずかしいことがあったかもしれません。だから、わたしたちの身代わりに十字架にかかって、ゆるしてくださったイエス様に、おすがりしましょう。自分の愚かさや足りなさを、イエス様に告白して、悔い改めのお祈りをいたしましょう。そして、ゆるしていただけることを喜びましょう。これがクリスマスにすべきことの第一です。

第二は、自分がゆるしてもらったのなら、同じようにほかの人のこともゆるさないといけない、ということです。この一年に、自分を傷つけた人、いやなことを言った人、自分を裏切った人、敵対して来た人が、たくさんいるでしょう。キリストがわたしをゆるしてくださったのだから、わたしもこの人をゆるします。そういう心になれるように、お祈りいたしましょう。これがクリスマスにすべきことの第二です。

そうすることによって、わたしたちは晴れ晴れとした心になって、イエス様がおいでになる日、キリスト再臨の日を迎えることができるはずです。これが待ち望みの姿勢です。イエス様を待ち望む姿勢を持つことによって、わたしたちは百倍も千倍も楽しいクリスマスを迎えることができます。どうか今年のクリスマスが、そのようなクリスマスとなりますように!

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