聖句 イザヤ9:1-6
クリスマスが近づいて来ました。来週はいよいよアドベント~待降節の第一週です。クリスマスの楽しみは、クリスマスを準備することそのもののうちに、あるのではないでしょうか?
アメリカにターシャ・チューダーという、とても素朴な暮らしをしていた作家がおります。ひとりで自給自足の生活をしながら80冊以上の本を書いた人で、2008年に92歳で天国に召されました。彼女は毎年クリスマスが近づくと、ツリーの飾りが入った箱を取り出して、準備に取りかかります。箱の中には、彼女のお父さん・お母さんの代からずっと使っているツリーのガラス玉やリボンが大切にしまってあります。ガラス玉がどんなにこわれやすいか! リボンがどんなによごれやすいか! でも彼女は100年前のツリーの飾りを大切に大切に使い続けていたのです。彼女はとっても心をこめてクリスマスの準備を楽しんでいたんですね。
わたしたちも、来週のアドベント第一週に向けて、ツリーを飾ることを始めたいと思います。そこで、今日はツリーについて3つのことを考えてみましょう。
1 ひとつめは、ツリーの光です。
16世紀のことです。ドイツの宗教改革者マルチン・ルターが、クリスマスの近づいたある晩のこと、夜空をながめながら散歩しておりました。闇の中にきらきらと輝く星を見て、ルターは、その輝きをツリーの上に移すことができないものかと考えました。家に帰るとツリーの枝にキャンドルをとりつける工夫をしました。点々とまたたくロウソクの光で黄金色に輝くツリーが、その晩、生まれたのです。
聖書のヨハネによる福音書第1章4節と5節にこう言われています。
「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている」
わたしたちの生活、わたしたちの将来は、この先どうなってしまうんだろう。そういう不安が心を覆っていて、心が暗くなってしまいますね。自分のダメさ加減に失望したり、自分の心の醜さに嫌気がさしたりして、いよいよ心が暗くなってしまいますね。まさに暗闇です。
でも、暗闇の中にあって、わたしたちに命を与えるために輝いている光があるのです。それが、クリスマスにお生まれになった方、イエス・キリストです。キリストは十字架につけられたが、三日目によみがえって、わたしたちに永遠の命の希望を与えてくださいました。命を与えてくださるキリスト。このお方こそ、闇の中に輝く光です。ツリーに使われるのは、常緑樹と決まっています。厳しい冬の中にあっても、緑の色を失うことなく、枯れることなく、寒さを耐え抜いて、復活の春を迎える。それが常緑樹です。わたしたちは、イエス・キリストを心の中にお迎えするとき、常緑樹のように、永遠の命を生きるものとされるのです。
2 ふたつめは、ガラスの玉です。
ツリーには赤いガラスの玉をつりさげますが、もともとは、赤く熟したリンゴをつるしていました。いまでもドイツの古い教会では、ほんとうのリンゴをツリーにつるすところがあります。
ツリーにつるされた赤いリンゴは、永遠の命の実をあらわしています。
わたしたちの最初の父と母であるアダムとエバは、エデンの園で、神様から食べてはいけないと言われていた「善悪の知識の木」になっていた実を食べてしまいました。そして、エデンの園から追われてしまいました。
歴史に「もし」はありませんけれど、もしアダムとエバが、神様のお言いつけのとおりまもっていたら、どうなっていたのでしょうか? 実は、エデンの園には、もうひとつ大切な木が生えていました。それが「永遠の命の木」です。もしエデンの園を追われることがなかったら、アダムとエバは「永遠の命の木」の実を食べて、大きな恵みと祝福を受けていたことでしょう。
「永遠の命の木」の実は、大きな恵みと祝福を表しています。それは、わたしたち人間が、神様とまったく何のへだてもない心のまじわりをして、大きな恵と祝福を心に深く味わうことができる。それを表しています。
いまのわたしたちの心はそうではありませんよね? わたしたちの心は「善悪の知識の木」の実を食べたので、いつもこんな具合です。「こうなったのは、あいつのせいだ」「ああなったのは、こいつのせいだ」「いつも、あいつがわるいんだ」「あいつさえいなければ」「こいつさえ死んでしまえば」 ぜんたい祝福を恵みを感じるどころではありませんね。
こんなわたしたちの心を救ってくださるのが、イエス様です。イエス様は十字架に身代わりにかかって、わたしたちの罪深さ、愚かさを、すっかり全部ゆるしてくださいました。だから、おまえたちも互いに赦しあいなさい。わたしが赦したように、おまえたちも赦し合いなさい。そうイエス様はおっしゃっておられます。
何のわだかまりもない心。それが欲しいですよね。大きな恵みと祝福を深く実感できる心。「永遠の命の木」の実を、イエス様がわたしたちに食べさせてくださいます。
3 みっつめは、ツリーのてっぺんの星です。
今年のクリスマスは、世界中でいったい何本のツリーが飾られるのでしょう。しかし、どのツリーにも、てっぺんには必ず大きな星がつけられています。
この星こそは、三人の博士たちを赤ちゃんイエス様のところにまで導いた、ベツレヘムの星を表しています。
聖書のマタイによる福音書第2章9節にこうあります。
「彼ら(三人の博士たち)が王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子(イエス)のいる場所の上に止まった」
三人の博士たちは、古代における最高の天文学者であり数学者でありました。その卓越した知識と能力でもって、三人の博士は、救い主となる幼子がユダヤの国に生まれることを割り出しました。
しかし残念ながら、幼子イエス様と、どこでどうしたら会うことができるのか、最後の最後のつめをすることが三人の博士たちには、どうしてもできませんでした。天文学の限界。数学の限界。知識と能力の限界ですね。そういうわけで、博士たちはラクダに乗って幼子を探す旅を始めたものの、正確な場所はわからないままの見切り発車だったのです。ですから、博士たちはエルサレムに寄って、ヘロデ王にまみえて、幼子はどこですか、と質問しなければならなかったのです。
人間を照らす光であるイエス様。暗い闇のようなわたしたちの心をあかるく照らすことのできるイエス様。どうしたらそのイエス様に会えますか?
大きな祝福と恵みの経験を。「永遠の命の木」の実を味わう幸せを、わたしたちに与えることのできるイエス様。どうしたらそのイエス様に会えますか?
世界には頭のいい人たちがたくさんおります。頭が切れる人たちがたくさんおります。しかし、人間の知識、人間の能力では、最後の最後のつめをすることがどうしてもできません。
わたしたちが、ほんとうに真実にイエス様に出会うためには、わたしたちはどうしても、ベツレヘムの星によって導いてもらわなければなりません。
聖書はこう言っています。
「彼ら(三人の博士たち)が王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子(イエス)のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」
神様は、わたしたちの心に光を照らし、わたしたちの心をとらえ、思いをとらえて、イエス様のもとへと導いてくださいます。すると、わたしたちはなぜだか素直な思いになって、単純な思いになって、イエス様を心の中へお迎えすることができるようにされるのです。「ああ、ほんとうだ。ほんとうにイエス様はわたしのために十字架にかかって、よみがえってくださった。イエス様こそわたしの救い主だ」 そのことがほんとうにわかって、わたしたちの心は喜びにあふれます。これが、ベツレヘムの星の奇跡です。ベツレヘムの星は、わたしたちの心に働いてくださる不思議な聖霊のみわざを表しておりましょう。
むすび
わたしたちの心の中へ幼子イエス様をお迎えするために、クリスマスの準備を始めましょう。ツリーにキャンドルをともし、ガラス玉をつるし、ベツレヘムの星をつけましょう。わたしたちの心にも、神様のみちびきの光、聖霊の光をいただいて、イエス様をみつけ、イエス様を心の真ん中にお迎えすることができますように。そのようにして、ほんとうのクリスマスをお祝いできるようになりたいものです。お祈りいたしましょう。
クリスマスが近づいて来ました。来週はいよいよアドベント~待降節の第一週です。クリスマスの楽しみは、クリスマスを準備することそのもののうちに、あるのではないでしょうか?
アメリカにターシャ・チューダーという、とても素朴な暮らしをしていた作家がおります。ひとりで自給自足の生活をしながら80冊以上の本を書いた人で、2008年に92歳で天国に召されました。彼女は毎年クリスマスが近づくと、ツリーの飾りが入った箱を取り出して、準備に取りかかります。箱の中には、彼女のお父さん・お母さんの代からずっと使っているツリーのガラス玉やリボンが大切にしまってあります。ガラス玉がどんなにこわれやすいか! リボンがどんなによごれやすいか! でも彼女は100年前のツリーの飾りを大切に大切に使い続けていたのです。彼女はとっても心をこめてクリスマスの準備を楽しんでいたんですね。
わたしたちも、来週のアドベント第一週に向けて、ツリーを飾ることを始めたいと思います。そこで、今日はツリーについて3つのことを考えてみましょう。
1 ひとつめは、ツリーの光です。
16世紀のことです。ドイツの宗教改革者マルチン・ルターが、クリスマスの近づいたある晩のこと、夜空をながめながら散歩しておりました。闇の中にきらきらと輝く星を見て、ルターは、その輝きをツリーの上に移すことができないものかと考えました。家に帰るとツリーの枝にキャンドルをとりつける工夫をしました。点々とまたたくロウソクの光で黄金色に輝くツリーが、その晩、生まれたのです。
聖書のヨハネによる福音書第1章4節と5節にこう言われています。
「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている」
わたしたちの生活、わたしたちの将来は、この先どうなってしまうんだろう。そういう不安が心を覆っていて、心が暗くなってしまいますね。自分のダメさ加減に失望したり、自分の心の醜さに嫌気がさしたりして、いよいよ心が暗くなってしまいますね。まさに暗闇です。
でも、暗闇の中にあって、わたしたちに命を与えるために輝いている光があるのです。それが、クリスマスにお生まれになった方、イエス・キリストです。キリストは十字架につけられたが、三日目によみがえって、わたしたちに永遠の命の希望を与えてくださいました。命を与えてくださるキリスト。このお方こそ、闇の中に輝く光です。ツリーに使われるのは、常緑樹と決まっています。厳しい冬の中にあっても、緑の色を失うことなく、枯れることなく、寒さを耐え抜いて、復活の春を迎える。それが常緑樹です。わたしたちは、イエス・キリストを心の中にお迎えするとき、常緑樹のように、永遠の命を生きるものとされるのです。
2 ふたつめは、ガラスの玉です。
ツリーには赤いガラスの玉をつりさげますが、もともとは、赤く熟したリンゴをつるしていました。いまでもドイツの古い教会では、ほんとうのリンゴをツリーにつるすところがあります。
ツリーにつるされた赤いリンゴは、永遠の命の実をあらわしています。
わたしたちの最初の父と母であるアダムとエバは、エデンの園で、神様から食べてはいけないと言われていた「善悪の知識の木」になっていた実を食べてしまいました。そして、エデンの園から追われてしまいました。
歴史に「もし」はありませんけれど、もしアダムとエバが、神様のお言いつけのとおりまもっていたら、どうなっていたのでしょうか? 実は、エデンの園には、もうひとつ大切な木が生えていました。それが「永遠の命の木」です。もしエデンの園を追われることがなかったら、アダムとエバは「永遠の命の木」の実を食べて、大きな恵みと祝福を受けていたことでしょう。
「永遠の命の木」の実は、大きな恵みと祝福を表しています。それは、わたしたち人間が、神様とまったく何のへだてもない心のまじわりをして、大きな恵と祝福を心に深く味わうことができる。それを表しています。
いまのわたしたちの心はそうではありませんよね? わたしたちの心は「善悪の知識の木」の実を食べたので、いつもこんな具合です。「こうなったのは、あいつのせいだ」「ああなったのは、こいつのせいだ」「いつも、あいつがわるいんだ」「あいつさえいなければ」「こいつさえ死んでしまえば」 ぜんたい祝福を恵みを感じるどころではありませんね。
こんなわたしたちの心を救ってくださるのが、イエス様です。イエス様は十字架に身代わりにかかって、わたしたちの罪深さ、愚かさを、すっかり全部ゆるしてくださいました。だから、おまえたちも互いに赦しあいなさい。わたしが赦したように、おまえたちも赦し合いなさい。そうイエス様はおっしゃっておられます。
何のわだかまりもない心。それが欲しいですよね。大きな恵みと祝福を深く実感できる心。「永遠の命の木」の実を、イエス様がわたしたちに食べさせてくださいます。
3 みっつめは、ツリーのてっぺんの星です。
今年のクリスマスは、世界中でいったい何本のツリーが飾られるのでしょう。しかし、どのツリーにも、てっぺんには必ず大きな星がつけられています。
この星こそは、三人の博士たちを赤ちゃんイエス様のところにまで導いた、ベツレヘムの星を表しています。
聖書のマタイによる福音書第2章9節にこうあります。
「彼ら(三人の博士たち)が王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子(イエス)のいる場所の上に止まった」
三人の博士たちは、古代における最高の天文学者であり数学者でありました。その卓越した知識と能力でもって、三人の博士は、救い主となる幼子がユダヤの国に生まれることを割り出しました。
しかし残念ながら、幼子イエス様と、どこでどうしたら会うことができるのか、最後の最後のつめをすることが三人の博士たちには、どうしてもできませんでした。天文学の限界。数学の限界。知識と能力の限界ですね。そういうわけで、博士たちはラクダに乗って幼子を探す旅を始めたものの、正確な場所はわからないままの見切り発車だったのです。ですから、博士たちはエルサレムに寄って、ヘロデ王にまみえて、幼子はどこですか、と質問しなければならなかったのです。
人間を照らす光であるイエス様。暗い闇のようなわたしたちの心をあかるく照らすことのできるイエス様。どうしたらそのイエス様に会えますか?
大きな祝福と恵みの経験を。「永遠の命の木」の実を味わう幸せを、わたしたちに与えることのできるイエス様。どうしたらそのイエス様に会えますか?
世界には頭のいい人たちがたくさんおります。頭が切れる人たちがたくさんおります。しかし、人間の知識、人間の能力では、最後の最後のつめをすることがどうしてもできません。
わたしたちが、ほんとうに真実にイエス様に出会うためには、わたしたちはどうしても、ベツレヘムの星によって導いてもらわなければなりません。
聖書はこう言っています。
「彼ら(三人の博士たち)が王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子(イエス)のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」
神様は、わたしたちの心に光を照らし、わたしたちの心をとらえ、思いをとらえて、イエス様のもとへと導いてくださいます。すると、わたしたちはなぜだか素直な思いになって、単純な思いになって、イエス様を心の中へお迎えすることができるようにされるのです。「ああ、ほんとうだ。ほんとうにイエス様はわたしのために十字架にかかって、よみがえってくださった。イエス様こそわたしの救い主だ」 そのことがほんとうにわかって、わたしたちの心は喜びにあふれます。これが、ベツレヘムの星の奇跡です。ベツレヘムの星は、わたしたちの心に働いてくださる不思議な聖霊のみわざを表しておりましょう。
むすび
わたしたちの心の中へ幼子イエス様をお迎えするために、クリスマスの準備を始めましょう。ツリーにキャンドルをともし、ガラス玉をつるし、ベツレヘムの星をつけましょう。わたしたちの心にも、神様のみちびきの光、聖霊の光をいただいて、イエス様をみつけ、イエス様を心の真ん中にお迎えすることができますように。そのようにして、ほんとうのクリスマスをお祝いできるようになりたいものです。お祈りいたしましょう。